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 知らないうちに頬に引っ掻き傷を作ってしまった。心当たりが無いので寝ているうちに何かにこすったのか分からない。

 顔を気にする歳でもないし、そもそも私の顔などさほど注意している人はいない。それに加えて始終マスクをつけているのでそもそも見えない。私が傷に気づいたのも恐らくできて数日後のようだ。

 ずぼらな男の話として笑い飛ばしておけばいいことだが、少し視点を変えると、自他の顔への関心が下がり過ぎているということになる。これは少し恐ろしい。リアルな印象をもたらすはずのものが軽視されていることになるのだ。

 もっとリアルに関心を持たねはと自分に言い聞かせる。

言語化

 人から相談を受けたとき、適切な助言をすることは難しい。何を答えるべきか、話題にしてはならないことは何かを考えていると身動きが取れなくなる。

 もっとも相談する相手ははじめから答えを求めてはいない可能性もある。いや、大半の場合回答の有無はどちらでもいいようだ。ならば、大切なことは答えることより聞くことにある。

 傾聴はカウセリングの絶対条件だという。家族ではない他人が耳を傾けることで相談者は安心と僅かな満足を得るようだ。助言はその上のことで極論すればなくてもいいのかもしれない。あるとすれば相手の悩みを分かりやすく言葉に変える手伝いをすることかもしれない。言語化できれば対象化でき、解決に近づく。

伝達

 教育とは何かを考えるときいつも考えることがある。伝えることの方法は多様であるということだ。

 私自身の体験からすると学びの基礎は学校にあったとしても、主体的な学びの発動は自己の中にあったように感じる。何かを学びたいと思ったとき学びは効果を発揮する。

 教育とは何か。知識の伝達はもちろんだが、それは本当の目的ではない。大切なのは学ぶことの意味を気づかせてその行動を発動させることだ。人によりそのきっかけは異なる。それを注意深く探し、ボタンを押していく。教員の役割はそれかもしれない。

春の雨

 春の雨の一日になりそうだ。路面が少しずつ湿っていく。強くはないが確かな雨だ。傘を開くか迷っているうちに髪も上着も露のベールを被される。存在を主張しない湿りは油断は禁物とささやいているかのようだ。雨の向うに今日の生業が待っている。歩みを止める余裕はない。春の雨に少し感謝したい。自分の位置を教えてくれたのだから。

しなやかに

 しなやかさは理想とする境地の一つだ。複雑な事態に自他を傷つけることなく対応できる何かを感じる。実際は容易ではないが、求めて止まない目標だ。

 変化が激しい昨今の状況において何が正解か、真実は何かを見定めることは難しい。だから当座の状況対応は必要だ。真実を探る努力は怠れないが、立ち止まることもできない。しなやかさは一時的な判断をした後にも必要になる。

 理想としてはよいがこれでは疲れてしまう。常に周囲を見渡し、身を処さなくてはならないのだから。スキー選手が複雑な地形を滑降するときのように常に神経が張り詰めていることになる。

 すると、しなやかさの持っているイメージとは程遠くなる。おそらく何かが違うのだ。合気道の達人のような脱力しながらも身をかわせる。そんなものを目指しているのだろう。

デジタルだけでは

 スケジュール管理をグーグルやアップルのカレンダーに入力して行うようになって数年が経つ。便利な点は多いが、それゆえのデメリットもある。その補完はやはり紙のノートである。

 デジタルデバイスでのスケジュール管理は一元管理ができることに大きな利がある。同期するからどこに書いたのかを忘れることがない。他人が作成したデータをそのまま借用できるのもいい。これまで使ってきてこの恩恵に大いにあずかっている。

 同時にこれは欠点でもあり、記録に関する緊張感のようなものを奪った。だから大切なことはノートに書き出している。両棲類みたいなやり方が自分にはあっている。

減少せず

 緊急事態宣言が解除されたあとも新型コロナウイルス感染者数は減少せずむしろ漸増の傾向にある。新型株なるもののせいなのか、たんに検査数が増えてきたからなのかはわからない。大阪や宮城のように首都圏以外の地域の動向も気になる。

 このままこの傾向が続けばまた様々な制限がかけられるだろう。それにともないいろいろなことができなくなる。また変わらなくてもいいものまでが変革を迫られる。妙な言い訳がまかり通って大切なことを見失う。ワクチンの購入は国家的に進めてほしいが、同時に国内企業への開発奨励も進めてほしい。

 世界のシステムが一気に変わりつつある中で、その行く末を見極めたい。さらに、創作提案することもあきらめてはいけない。いまは変化のときだ。誰かに追随するだけでは立ち行かない。

逆算の発想

 結果からさかぼってやり方を考え直すことを始めようとしている。何かを伝えるとき、伝え方の方を考えてしまいがちだが、実は大切なのはどう伝わるかということだ。それを見直してみたい。

 何かを伝えるとき、どのようにしたら効果的に伝えることができるのかということばかり気が向いてしまう。これは当然の成り行きだ。だが、経験上うまくやれたと思っても効果が上がっていないことがある一方で、力を抜いてしまったときでも効果が上がることもある。つまり、意図と結果が相関していないのだ。

 これは因果関係がないというのではなく、基準としている考え方が間違っているということなのだろう。実は原因と考えているものが結果とは無関係ということもあるのだ。だから結果から逆算しなくてはならない。現状がどのようになっているのかを冷静に見直し、考え直す必要があるのだ。発想を逆転することでおそらく今まで見えなかったなにかが分かることがある。それが改善の糸口になるはずだ。

 どんなことにも当てはまることだろうが、物事を固定的にみると閉塞感が生まれる。世界は変化に富んでいる。それをどのようにとらえるのかが大事だ。

問題点は

 問題点を洗い出す方法を考えなくてはならない。毎日、漠然と過ごしている私には難しいことだ。ただ、限られた時間内でやり遂げるには抜かしてはならない。

 典型的な状況対応型の私にとって、PDCAのような考え方は理想というより憎むべき悪習だ。偶然と寄り道をなくして何がよいのかと思う。でも、やりたくないことを早く済ませるにはいい方法だ。この方法に関心を持つようになったのは、私の仕事が自分の本心から離れたことの証だ。

 効率的に何かをしていると豪語する人や、やたらと片付け好きな人をみると私は気の毒に感じる。それをやらなければならないと考え出しているのは自分もその状態にあるのだということなのだろう。

新年度

 日本では年度の始めは4月である。つまり今日が2021年度の最初の日だ。桜の咲くこの時期に区切れ目を設けたのは日本人の感性としてはふさわしい。もっともこれは後付の理由説明であろう。

 不断の時間に切れ目を入れて新しい何かを実感しようとするのは人類の叡智の一つだ。意識が変われば実感も変わる。だから世界が変化するのだ。変化は緊張ももたらす。ストレスを感じるのもこの時期の特徴だ。過ぎてしまえばどうということもない。

 私自身、年度という単位を特に重視する立場にあるため、過大な意識を持ちやすい。それを自己変革の機会に使いたい。