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財産の使い道

 美術館の大半は財団の運営によるものだ。財を成した経営者が社会還元という名目で美術品を買い、それを美術館という形で一般に開放する。それはそれでありがたい。もし芸術が一部の権力者や財産家に独占されていたとしたならば、世の中は面白くないものになるだろう。

 財産の使い道はいろいろあるが社会還元という視点は欠かせないと思う。私には分けるべき財はないので、せめてささやかなボランティア活動でもしてみようと思う。もう少しで退職の時が来るだろうが、大切なのはその後だ。世の中のために何ができるのかを考えてみたい。

 もし私に財産があるとしたら、そういう思いになれることくらいだろう。

答えはない

 答えがすぐに出ない問題に対して向き合う余裕は大切である。最近は何でも即決即答が良いことのようにいうが、その類のものは実はどうでもいいことなのかもしれない。

 定説のない大問題や、根本的原理に関わる問題はすぐに解決できるとは限らない。できたと思っても別の可能性が立ち上がることもある。時間をかけてしかも不断の関心を持ち続けることでようやく端緒にたどり着く。そんな問題もある。

 私がかつて目指していたのはそういう問題だったはずだ。立ち位置を見直してみたい。

遺伝子

 遺伝子の解析により沖縄で発見されていた港川人は日本人の先祖ではないという結果が出たという。先日メディアが紹介していた。

 港川人は新人としてはかなり古い時代の地層から発見され、縄文や弥生の時代の列島人の祖先と考えられていたが、DNAの性質からどうも違うようだ。人類のグレートジャーニーの中で先に列島にたどり着いたものの、あとから来たものに住人の地位を譲ったことになる。それが自滅か、平和的な移行か、あるいは暴力のはてなのかは分からない。遺伝子情報が物語ることが正しいならば出会いすらなかったのかもしれない。

 考古学的な時代について考えるとき、いつも思うのは現在のあり方は偶然によるものだという当たり前の事実だ。私がこのような姿形をして特定の生活文化を持っているのも偶然の積み重ねの果てのことに過ぎない。だからこそかけがえがないのであり、他との優劣を論じるものでもない。

 骨格しか残らない港川人が先祖ではないとしても、更にその前の時点では繋がっていたという。この事実も時々思い出したい。

自戒

 若い頃は酒を飲むと調子が出た。本当は違うのかもしれないがそう考えることができた。それに比べて今は明らかに飲むだけで調子が落ちる。特に寝酒はだめだ。

 飲酒には様々な苦い思い出があるが、それよりもいい思い出のほうが数十倍多い。だから、つい習慣的に飲んでしまうものだ。最近、外食ができないせいもあり、家で缶チューハイのようなものを飲む機会が増えた。飲むときは楽しいが翌朝かなり調子が悪い。おそらく体力的に酒を受け付けなくなっているのだろう。

 習慣を変えることは難しい。悪いとわかっていても続けてしまう。だから、自戒をしたことを他人に話して自分を追い込むしかないことになる。このブログの読者の皆さんは私が今日誓うことの証人になっていただきたい。酒は週1回までにする。いやもとい。2回までにする。週2回の飲酒を超えないということをとりあえず宣言する。

どこまで

 緊急事態がまた延長されるようだ。感染者人数が減らないから仕方ない。ただ、ワクチン接種は少しずつ進みつつあり、夜明けは見えてきた。

 明確な基準なり判断をくださない限りこの事態を変更することはできない。さらに決定したら責任を負うことになる。その責任は個人のレベルでは到底負えない。

 決められないことを前に私たちは思考停止する。このことについては日本人は得意だ。数多くの理不尽な状況をそれで乗り越えてきたのだから。

 私はこれも生きる知恵なのかもしれないなどと諦念を持ち出している。ただ、事態が変化したときに何をするのかを考えておかなくてはなるまい。次を考えよう。

資格

 思い立ってある資格を取るための準備をはじめようと考えている。この歳になって資格などほとんど意味などないはずだ。だが、実益よりも自己啓発の具として使いたい。

 資格認定とは用意された知識やスキルを修得することにあり、吸収型の学習だ、これはこれまで長年身につけてきた方法である。ただ記憶力は着実に低下しているからそれは学習量で補う必要がある。

 年寄りの冷や水に過ぎないがやってみることに意味がある。

矜持

 変化が激しい時代において過去の蓄積が評価されにくい状況が訪れている。手作業の中に折り込まれる経験やストーリーよりも効率や結果ばかりが求められると息苦しくなる。

 過去にとらわれないとか、前例踏襲主義は悪と言うことは簡単だが、それは過去の否定ではない。まったく新しいことなどできるはずはないのだ。

 これまでの実践には誇りを持つべきなのだ。他者に認められないのなら、少なくともいまの自分が過去の自分を認めることから始めよう。そこから次の段階が見えてくる。

5月半ば

 5月も半ばになった。昔からこのあたりの季節には心身の不調を訴える人が多いという。真偽のほどは不明だが少なくとも私は警戒すべき期間だ。過去に何度か危機に陥ったことがある。

 生活のリズムが変わることもあるが、気温が上がり、日較差も大きいことが体調管理を難しくするのだろう。一見、活気を帯びて見える自然の推移も自分の調子を超えてしまうとオーバーペースを招く。

 意欲的に突進したいところだがまずは少しずつ呼吸を整え、気持ちを高めてからにしたい。無理の効く年頃ではないことは確かだ。

働く意味を考える

 かつては労働者の日といわれた今日だが、私にとっては子供の頃からすでに過去の行事であった。労働が給与をえるための行動であるという認識しかなかった。そこに働き甲斐を感じるのは付加的価値であり、贅沢な願望というのが実際的な理解であった。

 私の人生を考えると高度成長期が終焉し、バブルからその崩壊後の閉塞的な低成長時代を送ってきたことになる。運良く自らの興味のある仕事につくことができ、初期の頃は分不相応な仕事までさせていただいた。しかし、不景気になるとその夢は消え去り、職場も失いかけた。運良く今の職について私なりに労働の価値を感じ続けている。

 ただ、働くことが疲弊につながると考え出しているのは私が高齢化したからだけではない。労働に余裕がなく、自分の人生を豊かにしているという実感が損なわれてきているのが問題なのだ。目標志向はよい、企業としては当たり前だ。ただそれがあまりに自分の価値観と離れすぎているときには別の問題を生じる。

 この連休は心身の休養ということはもちろんだが、働くことに関しての視座を見直すきっかけにしたい。

発展しない戦略

 いわゆるSDGsに関してはかなり周知されてきている。目標としては魅力的であり、多方面にわたる配慮は素晴らしい。ただ、やはり画餅の感は拭えない。

 最近読んだ本にも開発、発展を前提とした考え方の危険性を訴えていた。真の意味で持続可能性を考えるならばまず開発を止めなくてはならないのだろう。

 ただ、私たちは程度の差こそあれ何かを変えながら生きている。それを止めることは種の継続に関わる大問題だ。発展を限りなく緩やかにし、その都度現状を把握することが大事なのだろう。そんなことはできるのだろうか。大きな疑問符が脳裏を回転し続ける。