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道具

 ITがどんなに発達したとしても、それが道具であることに変わりはない。そのことを忘れると道具の道具にされてしまう。

 私たちの知っている大工道具や文房具と比べると、電子化された道具はかなり容態が異なる。人工知能のような道具になるともはや人格さえ感じる。カズオ・イシグロの『クララとお日様』のラストシーンの決まり悪さはもう道具が道具と見えないことによるものだ。

 でも、もう一度考える必要がありる。私たちは道具を使っているのであって、道具に使われてはならない。当たり前なことなのだがいつの間にか忘れられてしまっている。

 道具を使いこなすのは身体だけではない。それを使う精神も健全でなければならないのだ。

たわごと

 野球観戦に行くと独り言を言うおやじさんが必ずいる。興奮すると独り言のボリュームを忘れてしまうようで周囲の人も巻き込むことになる。何でここでカーブを投げるんだ。俺なら絶対ストレートなのに。その声のもとをみるとスポーツには無縁の姿がある。苦笑いが周りに起きる。

 他人事のように書いたが、当事者になったこともあるはずだ。興奮すると記憶は曖昧になるし、その場で消えてゆく音声はもうもとには戻らない。

 ところがいまは少し厄介だ。同じような独り言をソーシャルメディアに書き込む輩がいる。しかも自分の顔を晒すことなく言い続けている。書かれたものは時空を超えて残り続ける。しかも出来心なのか誠心の叫びなのかあとから区別は難しい。本人は書いたあとにいくぶんのカタルシスを得られるかもしれないが、言われた方は永久のダメージを受ける可能性がある。

 ソーシャルメディアへの書き込みが実は書き手の遡及可能であることを技術者は打ち明けた方がいい。ネットというメディアが手続きを踏んでメッセージを送っている以上、どこからどこに送信されているのかは分かるはずなのだ。恐ろしいことだがすべては記録されてしまう。近年のコンピュータの発達を考えると、いままでは不可能と考えられていたことができてしまっているというしかない。

 たわごとを言うならば周囲に気をつけるべきだ。ましてネットに書くべきではない。あなたは過去にこのような発言をしていますと秒単位のログとともに指摘されることになる。

 もちろんこのブログも同じことだ。だから、少なくともここ数年は直接他人に言えないことは書かないようにしている。

光の表現

 光を表現することは実は難しい。光そのものは色はないし、物質としての実感もわかない。だから、光そのものは描けず、光によって投影された物体を感知するだけだ。反射する光の種類によって色彩が現れ、形として見える。光とものとの織りなすライブが私たちの世界だという。

 ブラスを表現するにはマイナスを取り上げればいい。それも伝統的な手法だ。闇の中に差す一条の光は分かりやすい。ないところにあるものは感じられる。

 光を表現することに私はもっと関心を持ちたい。比喩的な意味も含めて光を表現することを最近諦めている気がする。光は当たり前ではなく、特別なものでもない。ただ、その正体に関心を持つことはこれからもっと大切になりそうだ。

俳句的積み重ね

 目の前にあるものを表現するのはかなり難しい。非定型だし、常に変化をしていてとらえどころがない。どこかに価値の物差しをおいて、そこに引っかかるものだけを描くしかない。たいていの場合それに絶望し、表現すること自体をあきらめてしまう。

 芸術家と呼ばれる人はこの点についてストイックであり楽天家でもある。自分のアンテナで捉えたものを表現することに躊躇しない。だから、多くの場合難解であり、その中のいくつかは多くの人の心を捉える。おそらく芸術作品というのものはそういうものなのだろう。

 私が持っている貧弱な概念と言葉でいうならば、俳句的な表現で世界を描くことを目指していくべきだと考えている。俳句の伝えられる情報量は少なく、自ら表現の方向性を閉じてしまっている部分がある。季語の扱いなどはその典型だ。実に窮屈であり、扱いにくい。これは人間の思考の仕方と同じだともいえる。限られたメモリの中で、かたよって狭い視野に、ゆがんだレンズを使って世界を見ている。それが人間の生理的な問題であり、歴史であり文化であり、様々な要因があることはなんとなくわかる。

 それを前提にしながらあきらめずに表現するしかないのだろう。目に見えること、感じられることを愚直に表現しつづけられること。それが芸術につながると考える。

線路沿いの植物

 通勤電車からいつも見る風景にいわゆる雑草が線路沿いに生えているものがある。あまりに当たり前の光景なので大半は視界に入っても意識には上がらない。

 過酷な条件と思われる線路際にも結構いろいろな植物がある。過酷と書いたがたまに保線の際に草刈りが入ること以外は、人の出入りが禁じられており、むしろ植物にとってはサンクチュアリのようなものなのだろう。

 あらゆる場所で適合し、命を伝えていく動植物の力には改めて感動せざるを得ない。

手仕事

 人工知能が何でも代替するようになればますます貴重になるのが一回限りの仕事の成果だろう。一点物の価値が重要になる。

 かつてはブランド信仰があった。有名ブランドさえプリントされていれば価値があると考えられていた。しかし、ものが出回り消費者の目が肥えると、結局大量生産されたブランド品を持つことに価値があるのか疑問視する人がでてきた。ブランドの魔法が解けた人には何が残るのか。それが手仕事による一点物の価値だ。

 生産者の腕がいままで以上に要求されるとともに消費者の目利きの力も大切になるはずだ。これはいい傾向ではないだろうか。

条件変更

 私たちの身の回りのものはすべて人間の平均的なサイズに合わせて設計されている。だから平均から遠ざかるととても不便だ。その範囲内で生活しているとなかなかこの事実に気づかない。

 ところがその意味に突然気づかされることがある。私はここ数年老眼が進んで小さな文字がよく読めない。説明書の類はほぼ難しい。この障害はゆっくり始まって、漸増していく。私は通勤電車のなかでスマートフォンでこのブログを書くことが多い。細かいデジタルキーをタップできるのもいつまでだろうか。

 急性のものもある。最近、左膝に水がたまり歩行に痛みを覚えるようになった。幸い医師の力を借りてかなり回復したが、それまでは大変だった。時に階段の昇降は辛く、あまり使わない駅のエレベーターのお世話になり続けた。こうなるとちょっとの段差が越えられなくなる。

 ものごとを考える際、思いやりの気持ちが大切だとはよく言うことだが、こうした身体的な条件の違いを考えるべきだろう。実際に起きてしまうと厄介だから、せめて想像の力を発揮して自分とは別の条件の存在を考えるべきだ。

想像力

 ありもしないこと、常識を破ることを考えるのは無意味だと考える向きもある。それよりは実効性があるもの、効率性の高いものを目指すべきだというのが時代の流れだ。なにしろ無駄なく近道をすることばかりを求めすぎる。

 確かにそれは大切なことだろう。無駄なことを繰り返すより、意味のあることを集中的にやった方がいいのは当たり前だ。ただ、それだけではない。無駄、無意味は実はそうではないこともあることを思い至らなくてはなるまい。既定の仕事に関しては人工知能の発達により自動化されていくはずだ。ならば、これからは想像力のほうに注力した方がいい。

 大切なのは想像力だと思う。その意味で文学や芸術といった領域は復権すべきではないか。作り話ができるのが人間の特権ならばそれを使うことが必要なのではないか。

学問とは楽しむもの

 高名な科学者の話を伺う機会を得た。後世まで称えられるべき発見をした方である。その方のお話は身近なところから疑問点を見つけ、それを追究することの重要性を説くものだった。大変参考になった。

 詳細な話はいろいろあったが、専門的なことになると分からない。ただ、その大学者が論語などの古典を引いて学問とは楽しむものであり、そこに至らないうちは本物ではないとおっしゃっていたのが印象的だった。綿密な科学の研究をしている人は、逆に人間的な感性というものを身につけるらしい。学びの基本を思い出すきっかけを与えていただいた。

 宿題を出し、試験を課し、点数の悪いものを注意する。そういう教育の仕方は一般的だ。試験に合格しなければ意味がないとでもいうような教育の仕方を私自身もいつの間にか毎日の仕事としてしまっている。でも、思えば私が学生だった頃、何かの役に立つこと目指して学習していただろうか。褒められたり、賞金が出るから学問をしていたのではない。単純に学ぶことが面白く、知ることで新しい世界が見えるような感覚になることが楽しかったのではないか。そういう大切な感動というものを最近は失っている気がする。

 ならば、学ぶことの楽しさをどのように伝えればいいだろう。今はそれを考えるべきだ。

デザイン

 同じものでも色が異なるだけで気分が変わることがある。図案や造形が加わればもっと効果が大きい。私は結構見た目で左右されている。

 ならば身の回りにあるものにデザインを施してみよう。といっても画才はないので既成のものを貼り付けるだけである。シールもいいが色紙を貼るだけでも変わる。毎日使っているノートに千代紙を貼れば親しみが湧いて手に取る回数が増える。それだけで効率が上がるとは言えないが何かに変化が起きることは確かだ。

 散財しなくてもデザインの魔法はかけられそうだ。いろいろ試してみたい。