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9月

 今日から9月だ。伝統的な暦ではすでに秋は始まっているが、この月を季節の変わり目と考える人は多い。今朝も昨日と比べるとかなり気温が落ち、何かが変わったことを感じさせる。

 日本では夏休みが終わり2学期が始まるのがこの月だ。最近は地域によって様々な形があるので一概には言えなくなっている。再始動の月であることは確かだ。

 集団生活の復活に緊張する子どもがいることがこの時期の年中行事的な出来事である。今年は少し様子が違う。コロナウイルスの感染が一向に収束に向かわないので、登校を辞退するという選択肢があるのだ。行きたくないからの理由が、個人的な問題にとどまらなくなっている。

 生徒、学生諸君には早く平常の学校生活を送っていただきたい。失われた何年などと後で言われないようにやれることはやっておこう。

聞き出すこと

 当事者でないと理解できない苦しみがあることは確かだ。それは心身ともに痛みを感じるものである。名状しがたいものであり、本人以外は決して踏み込むことができない何かだ。まずそこから始めなくてはならない。

 その意味において私たちは、他者の窮状を救うことはできないのかもしれない。陥穽から這い上がるのはあくまで本人であり、手を差し伸べれば解決するというものでもあるまい。ただ、本人が上昇するきっかけを与えることはできるのかもしれない。それは相手が苦しんでいるということを理解することから始まるのだろう。

 相手の苦しみを当事者に言語化してもらうことができれば解決策に近づく。漠然とした不安が言葉に集約されれば、その本質に近づく手がかりが生まれてくる。だから、私たちができるのは苦しみの当事者の言葉を聞き出すことだ。これには粘り強い気持ちが必要であり、その前提の愛情もいる。聞き出すことから、自助のきっかけを引き出せるのだ。

転機

 転機はいつか来る。来たときにどのように振る舞うかが大事なのだろう。

 膠着状態にある毎日の生活の中では想像が難しいが、転機は必ず来るはずだ。それは自らが意図しないことかもしれない。でも、訪れる機会を無駄にしないよう心を柔軟にしておかねばなるまい。

 私は予感を得る才能はないのでただ待つだけだ。そしてやるときはやる。いまはその蓄えの時期なのだ。

コーチ

 少年サッカーのコーチを見る機会があった。小学生の男の子たちが大半で、女の子もいた。

 コーチは乱暴な言葉を使わず、具体的に何をすればいいのかを指示する。ボールを頭より高く蹴り上げてみよう。どうしたら上がるのか、その力ぐあいを覚えておこう。できた子どもには賛辞を送り、できない子にはさらに言葉をかける。できなくても続けさせ、明日はできるようになるという。

 彼らの方法には学ぶべきことが多い。ボールを蹴るのはあくまで子どもたちだ。それを蹴らせることにコーチの存在価値がある。

大雨

 西日本の大雨はまだ続くようで心配だ。この時期の天気ではない。

 降り続く雨量が記録的なものになりつつある。一部地域では年間降水量の半分が1週間て降ったという。異常という域を超えている。

 天災は避けられない。ただ、被害を軽減する努力は必要だ。また、困ったときは助け合う。それがこの国に住む者のさだめだ。

送り火

 京都をはじめいつくかの地方で送り火の行事が行われる日である。この状況だから実施は難しいだろう。ただ、行事の意味は考えておきたい。

 盆行事の中核は先祖の霊魂を招き、時間を共にすることであるという。遠来の祖霊をもてなした上で今度はまた送り返す。それが日本人の考えの基底にあるのかもしれない。

 そう言えば東京オリンピックの開会式や閉会式もこの考えに沿って考えると分かりやすくなる。死者への鎮魂というモチーフが何度かあった。なにしろ盆踊りまであったのだから。

 祖霊を祀ることは現在の生活の反省でもある。私自身この盆に何もできていないことを反省している。それが何かの歪みをもたらしているのではないかと。

相対的

 梅雨末期の天候にいきなり戻り、気温も低下している。決して低くはないのだが、これまでの異常な高温と比較すると寒冷にさえ感じる。私たちの体感はあくまでも相対的なのだ。

 これは人間の宿命なのだろう。何かと比較することでしか表現できないのだ。基準をどこに置くかで見え方はまったく変わる。自分が目にする風景が必ずしも万人に共有されている訳ではない。

 天気の話は分かりやすいが、世の中の多くのことはもっと複雑だ。相対的に物事を考えるのは体感温度と似ている。恵まれている人が少し不自由になると、不幸を感じる一方で、努力してようやく勝ち取った何かを幸せに思うこともある。それが些細なことであっても。

 今を基準にして未来を考えること自体は悪いことではない。ただ、ときには生活の地平から離れて冷静に自分を見つめる必要もありそうだ。

スポーツの不思議

 私たちはスポーツをしたり、見たりするときに不思議な気持ちになっている。それは、自分が置かれている現実のかなりの要素を無視して直前の現実にのみ集中できているということかもしれない。

 草野球でもなんでもいい、バットを持ったときはただ打つことだけに集中する。そしてヒットを打てば単純に喜び、掠りもしなかったときは悔しがったり、相手の投球の凄さに感心する。そういう素直な反応はスポーツという枠組みの中においては素直に行える。

 それが社会生活ではどうだろう。様々利害関係の中で、自分の行動が如何に評価されるかということをいろいろな方向から考えてしまう。様々な言い訳と、その後の対策について考える。失敗が許されず、失敗した人に手を差し伸べることもしない。それが現実社会だ。

 オリンピックのような高度な競技レベルでなくても、私たちはもっとスポーツをするような気持ちを持つべきなのかもしれない。勝つこともあれば負けることもある。負けてもまだ次がある。そういう考え方ができれば救われることがいくつもあるのかもしれない。

敬意

 相手に敬意を払うということは自尊心がなければなかなかできないことなのだろう。相手を罵倒したり、自分の優位ばかりを主張する人が増えているような気がするが、どうもその背後には自分の存在に対する自信のなさや他と比較されることへの恐れがあるように感じられる。

 いわゆるヘイト的行為を繰り返す人に共通するのは自尊心のなさだ。何らかの集団に帰属していることをみずから確信している。つまり、自分は一人ではない、もしくは自分と同じような考えを持つ人が多数いて当たり前だと考えているようだ。

 敬意を持てというがそれはまずは自分の今の位置を顧みることから始めなくてはならない。自分の置かれている環境が分かれば、他者を無根拠に軽蔑することはできないだろう。

知的進化

 インターネットでの誹謗中傷の事例を見るたびに、人間はまだ情報社会に対応できていないことを痛感する。Society3.9くらいの存在なのだ。

 人類は情報という目に見えないものに振り回されており、いまだ使う方にまわっていない。使われている。メディアの影響力について理解していないし、理解していない存在が他人を傷つけているという事実も判断できない。隣りにいる人に接するようにメディアの先のひとに接し、リアルとバーチャルの区別ができない。

 語弊がないようにしたいが、かくいう私も同じだ。先の例えで言えば私は情報社会に全く適応できていない。3の前半にいる。ただ人間はいずれはこの状況に対応していくのだろう。何を言われてもされてもそれが本心からなのか、それとも感情に任せた戯言なのかを瞬時に見分ける能力を獲得するのだろう。

 あるいはその能力を獲得しないという進化を選ぶのかもしれない。つまり、人を信じないという方向だ。これは困る。私たちの身体的な進化はかなり限界に来ているのかもしれない。大脳をこれだけ発達させた人類に残された可能性は、情報を理解する能力を向上させることだろう。