日本では学校や多くの企業が4月を年度のはじめとする。だから、10月はその後半の始まりだ。緊急事態宣言が取り下げられて社会的にも一区切りがついた。具体的にはまだ何も変わっていないが、変化の兆しはある。新しい生活を始めよう。今朝はそんな気分だ。
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人のため
人のために何かをすることは自己実現の大切な方法だ。自分の利益を考えているだけでは行き詰まる。他者の幸せに貢献することが結局は自分の心身を豊かにすることにつながる。
利他的な行為は義務感や責任感がはりついている。そこに息苦しさとか胡散臭さを覚えてしまうと次に進めなくなることも多い。身近なことの繰り返しが何よりも大事なのだろう。日常的に感謝したりされたりする流れがあれば継続しやすい。
だから、ありがとうは意識して発するべき言葉なのだ。自他を幸せにする呪文のようなものなのかもしれない。
バブル
感染予防の用語はいわゆる流行語の上位を占めている。スティホームやゴートゥートラベルなど文法的にどうなのか心配なものや、オーバーシュートの様に最近聞かなくなったものもある。最近の用語としてはバブルが印象的だ。
感染の範囲を限定するために生まれたバブルの概念は、ウイルス感染に対して運命共同体を形成しようとするものらしい。どうしても協働しなければならないときの策である。オリンピックの運営で使われたのをきっかけに普及した。
その意味では家族は究極のバブルだ私にとっても家族はかけがえのないパートナーであり、まさに運命共同体だ。にもかかわらず、ついそのことを疎かにしてしまう。もっとも大事なのはいつも近くにいる家族に他ならない。私は表現ベタであり、思っていることを軽々しく話すべきではないという美学を持っている。しかし、それ故に感謝の気持ちを伝えられていない。
もっとも近くにいるバブルを大切にしたいと考えている。
先取り
少し後のことを予見することは確かにあると考えている。次はこうなるという直感だ。多くは単なる妄想と片付けられてすぐに忘れてしまう。あとから考えるとあの時見た風景はこれだったのかと思うのだ。
答え合わせがいつも後になるという点においてこの予感はエビデンスを持たない。でも、ある程度の確率でそうなることが実現するのだから、これは前もって記録でもして置くことにしたいと考えてしまう。
私の場合はショートショートにまとめられるときにはまとめている。小説の卵みたいなものにも見える。もっともかなり脚色してそうなっているのだが。根拠のない妄想もきっといつかなにかの役に立つと信じて。
逆境こそ
コロナ禍の最近の大流行はピークアウトしたようだ。これからも繰り返すかもしれないし、次第に収束していくのかもしれない。いまのところはなんともいえない。病魔が影をひそめたと思ったら、今度は中国の不動産バブルが世界経済を撹乱しつつある。この影響もどこまでいつまで続くのか分からない。
いまは恐らく逆境の中にあるのだろう。これ以外にも身辺を取り巻く状況に厳しいものが多い。私的問題もある。そうした逆境を悲運として受け取るか、別の兆候と考えるか。私は岐路に立っている。
変化の多い現状では損失が多く、それ故の心身の打撃も大きい。それだけで疲弊していく何かがある。その一方で、変化に対して寛容になる環境が整っているともいえる。繰り返す転身が単なる逃げには映らない。
こういう状況は自己変革の絶好の機会なのかもしれない。そう考えるといまの状況もまんざらでもない。
類型思考
私が対象を型にはめて考えているということは先日も書いたが、これは人物に対する評価にも当てはまる。そしてとても注意しなくてはならない事実でもある。
個々人のあり方は多様であり、厳密には唯一無二の存在しかない。しかし、それを私は何通りかの型に分類しているような気がする。特に視力が落ちて細かいところが見えなくなったいま、外見上の特徴に関しては分類項目が減っている。よく似た人がいると認識することが増えているのはおそらくそのせいだ。本当は全く似ても似つかない。でも、判別する型が減少すれば同じ範疇に分類されてしまうのであろう。
気質、性格、コンピテンシーに至るまで分類の方法はかなり大雑把になりつつある。あの人はこういう人だから、という時のこういう人の分かれ目の数が減っている気がするのだ。絵画に喩えてみれば使える絵の具の色とか、筆の種類とかが少しずつ減らされている感じだ。
こうした傾向に歯止めをかけたい。どうすれば絵の具の色彩を減らさずに済むのか、摩滅した筆を捨てずに描き続けるのにはどうすればいいのか。縮小傾向のなかでもできることはあるのかもしれない。別の絵の具で色を創り出すとか、筆力を減らしても描ける方法を編み出すとか。やれることはまだあるのだろう。まだあきらめる段階は早い。

枠組みの外
私が何かを見たり聞いたり、考えたりするとき既存の枠組みが大きく作用している。最近、特にこれを実感する場面が多い。
枠組みを外して考えろとはいうのは易しいがなかなかできるのものではない。枠組みから外れると認識すらできないことが多いのだ。感知できないことは思考の中に取り込めない。
私の場合、何かのはずみでいつもと違う考えが浮かんだとき、それを残しておく手段が短歌や俳句、詩といった韻文である。これも最近気がついたのだが私の作る短歌は何かおかしい。辻褄が合わない世界の表現はきっとこのフレームアウトした何かを張り込もうとする結果なのではないか。
韻文のままでは思考に繋がらない。さらに先を追求すると新しい局面に到達するのだろう。
パラリンピックも終了
いわゆるTOKYO2020大会が今日で終了した。メダルの数が増えたことは選手や競技関係者にとっては嬉しいことだろう。日本人にとっては非常に複雑な大会であった。すぐ近くで行われているのに見ることができない。海外からの選手団を歓迎することもできず、ウイルスの運び屋ではないかなどと勘繰る向きまである。折悪しく開催時期にコロナウイルス感染者が爆発的に増え、緊急事態宣言が出されたままであった。
日本人は災害に慣れているのか、この状況になっても一部のデモがあっただけで、混乱はまったくない。海外でどのような報道が行わているのかわからないが、東京は極めて平穏である。人出は抑制されているが、それでも集まるところには集まっている。マスク姿の異様性ももうなれてしまっている。医療機関は大変な状態だと言うし、在宅待機を言い渡らされて後に死亡した事例なども紹介されているので事態は深刻なはずなのに、少なくも自分の近辺はほとんど変化がないのだ。
このウイルスの罪なところはこのように一部の人に深刻な害を与え、それ以外は軽く済んでしまうということだろう。危機感を共有しにくいし、真剣な対応も取りにくい。オリンピックとパラリンピックもだから素直に受け取れない。現代人を分断しようとする悪魔の手段なのだろうか。国際大会は多様な人を結びつけるための手段であったはず。古代オリンピックは不戦の日としての役割もあったはずだ。私達はなにかとても大きな力に対しても勝利を収めなくてはならない事態に追い込まれている。
先輩面にて
先輩面して一言言おう。今できていることがいつまでもできるとは、思わない方がいい。これは大切なことだ。
誰もが加齢という不可逆的な流れから逃れることはできない。見た目がいかにあろうとも中身は着実に変化しているのだ。するといままでできていたことができなくなってくる。これは少しずつ自覚できるものではない。あるとき急に立ち現れ、ゆっくりと自覚を促そうとする。抗えないものと観念するには時間はかからない。
だから後輩諸君には改めて言っておきたい。先延ばししても同じことができる保証はない。やれるときにやっておくのが賢明なのだと。
涼風
ここ数日、気温が低めで推移している。猛暑に順応した身体にはかなり肌寒く感じられる。これが秋の始まりかというとそうでもないらしい。季節のゆきあいは波のような循環である。
落ち着いて本でも読みたくなっている。8月は暑すぎた。比較的時間があったというのに。毎年、同じことを思うのだが夏の休みはあまり生産的ではない、私にとっては休養のときなのだ。その意味では目的を果たせたのかもしれない。
このブログはポジティブになるために書いている。そしてこれからもそうするだろう。