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発想

 脳にも体力が必要だ。最近はこれを痛感する。疲れると判断力や思考力が低下する。怠けたりさぼったりするのとは明らかにちがう。進もうとしても身体が動かない。まさにそのような感覚だ。

 新しいことを発想することの難しさもここにある。よくはわからないが発想には相当のエネルギーが必要なのだろう。だから、体調がよくないと発想が湧かない。衰えた体力で発想をし、それを残すにはどうしたらいいのだろうか。その戦略を考えるべきだ。

 最近、動画サイトをよく見るようになったが、これはほどほどにしなくてはならないと気づいた。分かりやすい動画を見るほど自分の脳の体力が落ちてきている。歩かずに目的地に行き続けると歩けなくなるのと同じだ。しかも、動画の結論は目的地でさえない。

 自分で歩く、つまり頭を使う機会を増やすこと、そして気づいたことはまとまらなくても文字や絵図に残すことが大切だ。私の戦略は思いつきをメモすることとすることにした。このブログもその一つだ。

ほどほどに

 私ももうすぐ高齢者の仲間入りをすることを考えれば、生活のダウンサイジングを考えていかなくてはならない。もちろん、働ける限りは働きたいと考えているし、過去の実績には拘らずできることなら何でもしたい。それでも現在の収入を維持することは不可能であるし、この先の日本経済も不透明なのは不安である。

 「ほど」とは程度や段階を表し、身の程とか、程の良い、といった言葉がある。ほどほどという言葉がある。これは自分にあった程度や段階ということであるとともに、身分や分際に見合ったものという意味も持つ。これから私がやらなくてはならないのはこのほどほどに生きることだ。増やすのと違って減らすのは簡単と思いがちだが実はそうでもない。特に何でも取っておきたい私のような考えの持ち主のものにとってはほどほど生活はかなり困難だ。

 このブログは半分以上自分に言い聞かせるために書いている。だから、あえて文字化しておく。

冷たい日本人

 興味深い記事を読んだ。他者を救済する人の割合をランキングすると日本は他国を引き離して最下位となるのだそうだ。調査項目には寄付をしたり、ボランティア活動歴、知らない人を助けた経験、支援団体の数などがあるが、そのどれもが世界の水準からかけなれて低いらしい。

 日本に住む私の実感として、この調査の結果は大いに疑問がある。確かに東京に住んでいると他人に対する配慮が少ない人を多く見かける。中には相当わがままな人もいる。しかし、世界最下位になるほどの状況には見えない。秩序正しいので、満員電車の中でもめったにトラブルは起きないし、ゴミを捨てて迷惑な人も少ない。であるにもかかわらずなぜこのような結果なのだろうか。

 思うに伝統的な日本の価値観にウチとヨソの枠組みがあることがその原因のひとつだろう。自分と同じ集団に所属していると意識する相手に対しては過剰なほど気を使うが、そうでない相手は無視しようとする。その枠組みがたとえば人種とか宗教とかそういうものではなく、きわめて個人的な感情に基づくので他人から分かりにくくなっている。

 それを日本人の特徴と考えればそれでいいし、何も他国のそれと合わせる必要もないかもしれない。ただ、社会がグローバル化するなかでこうした小さな集団主義は不利益の面ばかりが目立ち始めている。自分の集団だけで生活が完結できる間はそれでよいが、もうどうしてもそうはいかない。集団の枠を広げていってもそれでも追いつかない。もはやヨソ人と関わらなくては何もできない。

 ヨソ人に関心を持つことの延長上にボランティア活動や寄付行為などがあるのかもしれない。世界はつながっていて統一のルールのようなものがあるというのは一神教の世界では大前提にある考え方だろう。日本にはそういう考え方はない。似たようなものとしてお天道様があるが、規範性は薄い。だから、かかわりのないものへの関心が薄いのかもしれない。世界はつながっていて、他者を救済することは世界を救うことになるという考えは、日本人にとってはかなりの学習を必要とする考え方のようである。

 経済的な衰退傾向も自分たちさえよければいいという考えを転換すれば好転するかもしれないと考えている。寄付でなくてもいい、他者のために金を使うのだ問う思いが資産家にあれば、世の中はよくなっていく可能性がある。人助けは自分を助けることでもある。情けは人の為ならずとはよく言ったものだ。「冷たい」日本人がこれから何をするべきなのか。実はその行動にこの国の命運がかかっている気がする。

月光

 昨夜の満月はとても印象的だった。肌寒い中で冴えわたっていた。後の月も過ぎて文字通りの秋だ。

 気持ちの混乱を鎮めるには大きな光景を見るのがいい。心を落ち着かせれば見えてくることもある。何がいま大切なのかを月に反射させて大きく見直すのだ。

 行き詰まりはない進むだけだ。

ブリコラージュ

 民族学の用語にブリコラージュがある。これはいま見直すべき考え方だ。

未開民族を観察した学者が、現地調査で発見した様々なことの一つがこれだ。ありあわせのもので生活に必要なものを作ってしまうことをいう。私たちはものに溢れている生活に慣れすぎてこの伝統的な技を忘れてしまった。

 大切なのは周囲をよく見ることだ。なんでも遠くから調達すればいいという訳ではない。こういう考えは資本主義には合わないかもしれないが、幸せに生きるためには必要なことかもしれない。

桜並木

 かつて住んでいた町の住まいだったあたりの場所を歩いてみた。桜並木は苔生して老木の趣きがある。何も知らなければ由緒ある並木なのかと思うばかりだ。

 でも、確かここに住んでいた頃は頼りない若木にようやく花をつけるといったものだった。それがこの堂々たる幹と根回りを見せるようになったのは、それだけ歳月が過ぎたということだ。幾多の嵐と、大地震、それよりも深刻な大気汚染、異常気象に晒されて逞しさを身に着けたのだろう。

 桜並木のこの姿を見ている私もまた年老いたことになる。風格も威厳もなく、周囲からも尊ばれることもないがそれでも己の見たことを覚えていられるだけましということだろう。そう考えることにする。

本物を

 外出自粛でネットのサービス利用法はかなり上達してきた。コロナ禍の前と比べると格段の進歩だ。ほぼ毎日テレビ会議をする教員になるとは予想だにしなかった。

 ただ、リモートで何かができるといっても、それはディスプレイの画面上の出来事に過ぎない。リアルな経験のないものだ。

 仕事はそれでできるものはしたほうがいい。時短になれば益がある。対して実感を大切にしたい場面では害になることもある。

 これからは本物に会うことを大切にしたい。それが実感できるのもコロナ禍のおかげともいえる。

俳優の容姿

 俳優の多くはいまの容姿容貌をなるべく長く持続したいと考えているのだろう。いつまでも若くありたいという多くの人の共通の願望に加え、獲得したキャラクターを使い続けたいという商業的理由もあるはずだ。

 ところが誰も時の流れに逆らうことはできない。どんな最新の医療や化粧の技を駆使しても確実に加齢の現実は現れる。むしろ抗おうとすればするだけ、段階的に容姿は変化し、急に老け込んだかのように見えることすらある。それを分からないようにしてもやはり気づいてしまう。

 昔、一世風靡した俳優を何らかのきっかけで目にしたとき、その変化に驚くことがある。暫く見ていなかった人ほどそうだ。恐らく様々なアンチエイジングを施した結果であるはずなのに。

 顔を売る仕事の人たちがこうなのだから一般人はもっと劇的なはずだ。私も過去の写真をみると変化が甚だしい。見た目はどうしようもならない。

 外見の変化と内面は必ずしも一致していない。精神は昔のように若々しい人もいる。せめてこの方は時に逆らってみたい。

融合というイノベーション

この国を再起するためにはイノベーションしかないと言われて久しい。しかし、研究開発にかける資金もそれを支援する制度も不完全な現状では一向に進む気配がない。残念ながら何も起きそうもない気がしている。

でも、そうでもないという人もいる。日本型のイノベーションとは新しい物をゼロから生み出すことではない。むしろこれまであるものを組み合わせたり、新しい解釈を加えることで新機軸を作り出してきたのが我が国のあり方だった。最近はその方法を忘れてしまったかのような気がする。

でも、この国に染み付いた文化融合のエネルギーはそう簡単には消えないだろう。まずは自国が一番というおごりを捨てて周囲の良いものを見つめることだ。その謙虚さが新しいものを作り出す始点となるだろう。我以外皆我師の精神をこの国が取り戻せば、また新しい展開が見られるはずだ。私もその一員としていろいろなことに関心を傾けていきたい。

無駄時間

 最近つくづく集中力がないと思う。自己反省甚だしい。多くの時間がネットに奪われまさにスマホ脳になっている。もっともいまもスマートフォンでこのブログを書いているのだからどうしょうもない。

 このような行動をかつては他人事として軽蔑さえしていた。いまは誰も難じることなどできない。自己変革をするしかない。

 考えていることはブログを含めてネット接続する時間の上限を決めたいというのがある。書きたいことはノートかオフラインのデバイスに書こう。幸い私の自宅は通信環境があまり良くなく、ネット遮断は簡単にできる。

 アウトプットは減らさないが脇道にそれる時間を減らしていきたい。