11月は今日で前半終了だ。小の月だから明日からが後半となる。短い月だが祝日が2回あってなかなか調子を掴みにくい。
休日を活かせるのはやはり一種の才覚だと感じる。最近は休日も負担に思えることがあるからよろしくない。休むときは休む。平日とは別のことをするのがいい。
日々の思いを言葉にして
タグ: 自己啓発
11月は今日で前半終了だ。小の月だから明日からが後半となる。短い月だが祝日が2回あってなかなか調子を掴みにくい。
休日を活かせるのはやはり一種の才覚だと感じる。最近は休日も負担に思えることがあるからよろしくない。休むときは休む。平日とは別のことをするのがいい。
中学生レベルという言葉に初心者、入門という意味を感じるとすれば必ずしも正しくない。義務教育の最終段階である中学校が教えることの内容は必ずしも初級のレベルにとどまっていない。おそらくすべての教科を中学生レベルでできたならばかなりの教養がある人ということになる。
学校の勉強というのはできなくて当たり前という感じがいつの間にか出来上がっている。テストで60点しか取れませんでしたといえば、まずまずではないかということになる。中学生への励ましならばそれでいい。成長の過程はそれぞれ人によって異なるし、その時できたからといってあとまで続く知識や技能として血肉化しているのかは別問題だ。だから60点だろうが30点だろうが構わない。
でも、どうだろう。卒業後もそれでいいのかといえば問題がある。私たちは中学生レベルを目指さなくてはならない。せめてすべての中学生向けテストで80点以上取れるように努力しなくてはならないと思う。テストなんて今さら受けるのは嫌だと思う。私もだ。受けなくてもいい。ただ、中学生の学んでいることを知らなかったり、知らないことで平気でいることはやめた方がいい。できないならできないなりに努力したいし、せめてできる人に敬意を持つべきだ。
念のために言うが中学校で学ぶものには音楽や美術、家庭科、保健体育もある。それも含めて中学生レベルになることを私も意識しておきたい。
真面目に副収入を得ることを考えなくてはならないと考えている。金が欲しいということもあるが、それよりも他者から認められるスキルなり、体力なりを作っておかなくてはならないと痛感するのだ。
サラリーマンとして長年暮らしていると自ら稼ぐことに無頓着となり、アイデアも能力もない気がする。しかし、きっと何かあるはずですねと最近考えるようになった。人様からお代をいただくためには何らかの利益を提供しなくてはなるまい。人を幸せにするために何ができるのかを考えるべきだ。
情報化社会でなんでもすぐに手に入る時代だが、ネットでは入手しがたいものやことを提供することが大事だろう、挑戦が始まる。
試合において劣勢になり、負けが感じられるようになると、どうしても心が萎縮する。できるだけ被害を減らすことを考えるのだが、その第一が精神的な保護なのかもしれない。
負けが濃厚になるとその理由を探し出す。まずは誰かのせいにし、適当な人物がいないときには社会のせいにする。確かにそういうときもあるのだが、本当の原因は自身にあることも多い。それを認めるのは辛いので他者に転嫁することになるのだ。これは自身の防衛のためには大切であり、必ずしも責められるだけのことではない。
ただ、それだけでは現状を打開できない。まだ負けていないのかもしれない。安易に抵抗の意志を捨ててはならないのではないか。これはあくまで自戒の文章である。
昨夜はかなり長い間強風が続いた。天気図によれば西高東低の気圧配置だ。しまがまだ南北になっていないので、本当の冬型とはいえないのかもしれない。寒気が入り込んでかなり気温は下がった。
風の音て時々目が冷めた。少し布団を厚くしなければならないとも感じた。季節は進み、この月も中旬になっている。やるべきことは少しずつ、だが確実に進めていこう。
寒いのはいろいろ困るが、心が研ぎ澄まされる気がするのはいいことなのかもしれないと考えている。冬になるのも悪いことばかりではない。
買わなくてもいいものを買ってしまうのはなぜだろう。一つには習慣の効果が大きい。時間、場所、前後の出来事、その他いろいろな条件が揃うと買い物をしてしまうことがある。これはかなり意識して止めなくては繰り返す。
現状把握が不十分なのも問題だ。今足りないのは何か、不足をきたさないためにしておくことは何かを考えておくべきだろう。思ったより不足はなく、むしろ使われることを忘れられているものが多いものだ。
買わずに済んた喜びを記憶しておくことも大事だ。買い物がストレス発散になるというが、買わずに特をした喜びは自覚しにくい。それを言語化することは買いすぎを防ぐ手立てとして必要だ。
最近の苦しみの一つは入力過多にある。いろいろな情報を入手するのはいいが、それを自分なりに消化し、言語化しえていない。わかったつもりになっているが、実は何も理解できていない気がする。
この悩みを解消するためには、未消化であっても自分の考えを言葉にしなくてはならない。これは難しいことだが、それをしなくては前に進めない。言葉にするにはどうすればいいのか。それは完成形をすぐに求めないことが必要だろう。
作家の草稿を見ると結構多くの書き直しがあることがわかる。作家だけではない画家でさえもたくさんの習作を重ねてやっと作品にたどり着いている。私達は最終形態しか見ていないのであたかも最短距離で作品ができあがっているような感じになる。でも実際は底に至るまでの様々な習作があり、試行錯誤しているのである。
このブログはその習作を臆面もなく発表する機会と考えている。本当の作品はいづれまとめることにして、今は考えたことをひたすら文字にしていく。出来損ないの集積であるが、よろしければお付き合いいただきたい。
学生時代は『万葉集』をよく読んだ。国文科の学生であったからそれは教材であり、研究材料でもあったのだが、いまは心の拠り所のようなものである。
職が変わり日々の業務に忙殺されている間に古典文学を教材としてしか扱わなくなってしまった事に気づいた。文法やその他の知識を生徒諸君に伝達することは教員として大切な役目だ。それを効率的に行うことで仕事の評価がなされることにもなれてしまった。相当な違和感を常に感じながら。
古典を読む意味は試験に受かるためだけではない。むしろそれは二義的なもので本道から外れる。それに気づいていない教員が多いのはとても残念だが、教員がそうなのだから世間の人々の大半は古典文学は単なる受験の一科目くらいにしか考えていない。
しかし、古典は様々なことを考える切っ掛けであり、道標でもある。過去の人々の心の足跡に触れることで現状を捉え直すことができることがある。とても大切なことではないだろうか。最近古典文学の文庫本をもう一度開くことにしている。一部は何度も開き壊れそうになっているのでまた買い換えよう。
相変わらず読んでもわからない部分がある。解釈できない部分さえもある。それでも何度も付きあているうちに読めてくるときが来るかもしれない。それは自分自身の読解力の向上だけではなく、精神の成長に関係するのではないかと考えるのである。

ニューノーマルなどという言葉が独走したが、気がつけばもとの生活が戻りつつある。安堵するとともに危機感も覚える。塩梅を間違えると後退にたどり着く。毎日の点検が必要であると最近は痛感するのだ。
東京では文化の日は穏やかな晴天だった。かつては天長節であったこの日はなぜか晴れの特異日の一つであるという。それが文化の日となった経緯は興味深いが今日はその話題にはしない。文化とは何か、そして文化を伝えることの重要性を実感しているということを述べたい。
日本には日本の生活様式なり、思考の形式というものがある。それは特に優れているというわけではなく劣っているわけでもない。私は日本人なのでそれに対して誇りをもち、優越感を感じることもあるが、これはあくまで相対的なものであることも知っている。どの民族の文化もそれが成立するまでには洗練を繰り返しており、全てが素晴らしいはずだ。理解するのが難しいのは文化が違うことが要因なのである。
それでも日本の文化を海外に広めたいと思うことが多い。こんなふうに考え、行動すれば大変興味深い効果が生まれる。それを多文化の民族にも知ってもらいたいと思うのだ。おそらく多くは奇異と思われ、中には評価する人も出てくるはずだ。その一部の人にでもいい。日本の文化を知ってもらいたいのだ。
文化を伝えるためのもっと良い手段はその国言葉をつかてもらうことにあると考える。ただ、それは非常にハードルが高い。私など何十年も英語を学んでいるというのに未だに満足に日常会話すらできない。でも、日本語を知っていただくことは文化理解の第一歩なのだ。このブログを海外から見ていただいている方もいるかも知れない。翻訳ツールを使えばおおよその内容はおわかりいただけるはずだ。でも本当は日本語を少しだけでもわかっていただけたほうが真意が伝わる。私も外国語の学習を続けていきたい。それが異文化への接点になるというのであれば。