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カウントダウン

 人生をカウントダウンで考えるのか、カウントアップで考えるのかで人生観は大きく変わる。若いころはアップであったが、最近はダウンで考えてしまう。それは仕方がないことだろう。

 事故とか病気とかで自分の年齢以下で死んだ人の数が増えていくと、次は自分の番なのではと考える。本当はいつそうなるかなど誰にもわからない。ただ、残された時間が減っていくという感覚がカウントダウン思考に駆り立ててしまうのだろう。

 そうした考え方をいままでは消極的で否定的なものだと考えていた。しかし、最近は少々変わっている。残された時間を充実させるためにはカウントダウンも必要なのではないかと。できることを少しずつ確実にやり遂げるためには持ち時間を意識する必要もある。だから、必ずしもマイナス思考ではなく、建設的な考えを持つためにカウントダウンも必要なのではと考えるようになっている。

次にやること

 次に何をやるのか。それを考えなくてはならなくなった。こういう気持ちは時々意識されていたのだが、その都度思考停止してきた。その習慣をやめなくてはならない。

 いま持っているものなり、わざなりを活かしながらも、場合によってはそれを捨てても次の段階に進まなくてはならない。いまはそのような段階に入ったようだ。

 それが何なのかはまったくわからない。とにかくやるしかない。過去の経験ではそう考えた時に展開はあった。信じるしかあるまい。

やり直しと前進

 緊急事態宣言が解除されるという。まだ何も変わっていはないがとりあえず次の段階には進める気がする。私自身、この病禍のためにいろいろ変化した。はっきり言って停滞というより退化したこともある。ここからはやり直しだ。そしてむしろ今までにないことを始める必要がある。

 いろいろなことへの自粛の気持ちはようやく保ってきた向上心の最後のかけらをも奪いつつある。今はその塵埃をかき集めて何とか形を作らなくてはならない。気持ちの衰退は身体にも来ている。最近、体調の変化を自覚している。危ない状態に確実に近づいている。恐らく運動不足が大きな原因だ。

 社会の再開とわたしの人生とは無関係だが、少なくとも強い相関はないが、でもこれを機に一歩前に進まなくてはならないという気持ちにはなっている。

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自己開拓

 何事も効率よく行うことが賢い選択のようにいわれる。ただ、自己開拓の大切さは忘れてはいけない。

 できるなら無駄なことはしたくない。そう思うのは人情というものだ。この考え方が新しい何かを生み出して来たのは確かだ。その事実をないがしろにはできない。ただ、いつでも最短距離で行くことがいいとは限らない。失敗のなかから生まれるものもある。

 いつも思うのだが、失敗はそれを寛容する社会がなければできない。そして、失敗を前提とした生き方は自らの勇気が試される。自己開拓をすることの苦労と楽しさは今の自分にもっとも必要なものである。

旧弊

 最近の自分の中のキーワードが「旧弊」だ。古臭い言葉自体がすでにその雰囲気を醸し出している。私の生きてきた過去を否定したくはないし、するつもりもない。ただ、何となく前例に倣うことは現状を維持しているどころか、確実に後退していることに繋がっている。

 何か次の段階に進むためには捨てなくてはいけない要素もある。時に痛みを伴うことがあってもそれは仕方がない。新しいことを始める覚悟とはそういうことなのかも知れない。

 体力と気力の衰えを感じる最近ゆえ、切実な問題として旧弊を早めに打破しなくてはならないと感じる。恐らく今やらなければもうできなくなるのだろう。

忘れる効用

 最近はいろいろなことを忘れてしまう。大げさに言うと脳の老化は始まっているのかもしれない。忘れることは悲しい。辛くもある。でも別の見方をすれば幸せなのかもしれない。

 自分でも反省しないようになっていると感じることがある。同じ過ちを繰り返しそれでも改めない。これは恐らく脳の老化が関係しているのだろう。ただ、そのために深刻に悩みこむことも少なくなったように感じる。鈍さがストレスを和らげているのかもしれない。

 もしそうならば感度の落ちた脳はそれなりに機能を果たそうとしているのかもしれない。

謙虚

 最近の自分に欠けているのは謙虚さであるとは自覚している。この歳になると一応のことはできるつもりになっている。実際に大抵のことはできている気になっている。

 ただ、何事もよりよいやり方があるものであり、それを知る先人も多い。その先駆者の業績に学ぶことは何より大切なことだろう。学ぶことに消極的になっている己がいる。

 その原因が謙虚さの忘却にある。周囲の人から学び、読書を通して知見を知り、またブロガーの経験談からも学ぶことが多い。そういう触覚を鈍らせないことが私の今の課題だ。

年度末月

 日本では4月を学年の始まりとする関係で、年度の終わりを3月と考える習慣がある。春が顕著になる月を年度替わりにすることは精神風土と結びつき定着している。

 3月にはいろいろなことが行われる。その中のまとめにあたるものは最もスリリングなものだ。連続していく日常に無理やり切れ目を入れて何らかの形に仕立てる。かなり強引で無理な作業が施される。

 そのためには切り捨てなくてはならないことがあり、急遽作り出すこともなされる。その矛盾を一気に乗り越えなくてはならない。それが強いられ、また許されるのが年度最後の月なのである。

2月も

 まもなく2月も終わる。相変わらず緊急事態宣言下であるが、身辺に大きな変化はない。大きな地震が東北であったのは気がかりだ。しかし、生活には変化はない。

 積雪はなかった。むしろ初夏のような暖かい一日があったのが印象的だ。そしていつものように花粉症が始まった。

 いろいろなことが変わりゆく直前の季節だ。流れに身を任すしかない。そこになにか手応えがあれば私の存在の証となる。

本当の風景

 はてして自分は本当の風景を見ているのだろうか。自分が目にしていることは事実なのか。そんな根本的な疑問を捨てきらずにいる。

 百聞は一見にしかずとは古人の教えである。ただ、見てもやはり分からないことがある。また、目にしている映像が真の姿なのか確証はない。脳は映像を都合よく集成することは錯視の芸術などで明らかだ。

 目にしているものが真実だと思いこむことだけは止しておきたい。私という屈折したレンズの存在を認識して置くことにする。