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ひかえめに

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 かなりひかえめに蝉が鳴き始めた。今年は蝉が少ないと思ってしまうが、真実は蝉の鳴く季節の前に真夏の暑さが来てしまったということだ。

 蝉が鳴くと生命の高まりを感じることもあるが、騒がしくもある。しかし、あるべき風景に蝉が鳴かないと何かおかしいと感じてしまうから不思議なものだ。ニイニイゼミは年々少なくなっている気がするし、アブラゼミやミンミンとともにクマゼミも増えてきたと言われている。そのどれもがいまのところほとんど鳴いていない。

 昨日は近隣の市で出された洪水に関する避難勧告の警報音に驚かされた。被害は出ていないようだが、今後も豪雨が降る可能性はあるということなので気をつけねばなるまい。

ゲームを作る

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 ゲームを楽しんでいる人が多いのは今に始まったことではない。私も以前それに多くの時間を費やしたことがある。気休めや現実逃避にはよい。問題なのは無意識のうちに他人が決めたルールのもとで泳がされていることだ。ゲーム好きの人の中にはその感覚がなくなっている人がいるように思えてならない。

 これは比喩的に現代人の行動の大半に当てはまる。高度に完成されたシステムをプレイヤーとして操作するだけで、そこに自らの創意や工夫はない。そもそも自分ができることはほとんどないか、できても成就する可能性は低いと考えている。だから、そういうことができるとは思っていない。

 他人本位の世界の中で自分の位置をこんなものだと位置づける。それには本当は何の根拠もない。しかしゲームの世界ではたとえばその成果が得点となって可視化される。自分の位置はどこにあるのかが疑似的に示される。それはある意味、快感であり、屈辱にもなる。いずれにしても自分の立ち位置が分かる気がするのは実際には曖昧な現実社会の靄を晴らしてくれる。

 そもそも私たちがこの世に生まれたとき、既存の社会というシステムの中で生きることが決められている。だから、きまったルールに従って生活を営むのは仕方がないのかもしれない。ただ、ゲームをする人はその宿命的な枠組みをあえてさらに狭めて自分の精神を閉じ込めているのではないだろうか。むしろ自ら小枠にはまる選択をすること自体に生きがいを見出しているのかもしれない。

 私たちに必要なのはゲームで遊ぶことだけではなく、ゲームを作ることではないかと考える。作家の森博嗣氏のエッセイに、子供ころおもちゃは自分で作って楽しんだという話があったのを覚えている。ないものは作るという環境が創作的な人生を導いたと拝察した。比喩的に言えば既存の社会の中で、既存のルールでプレイするだけではなく、時にはルールを考えて新たな遊びを考えることが私たちに求められているのではないか。

 何をやっても徒労感と無力感、相対的な敗者としてしか自分を考えられない現代人にとって、こうした考え方は幸福の追求という観点からも大切なのではないだろうか。

恩師

 大学時代の恩師が突然訪ねていらっしゃることになった。そこで酒食を用意して歓待しようとする。こんなに夜遅くどういうことなのだろう。

 なかなかいらっしゃらないことを心配しているうちに、布団がないことに気づいた。どうすればいいのだろう。出かけている母に電話で聞いてみることにした。しばらく帰れないから、番号案内に電話して貸布団屋を探せばよいとの答えを得た。そうかその手があったのか。分かったと理解した。それにしてもなぜ帰って来ないのかと尋ねようとしてはたと思考が止まった。

 先生はもう何年も前に逝去されていた。実家の母はすでに外出などできる状態ではない。なにかおかしい。

 これが夢であることに気づいて時計をみると丑三つ時だ。実に古典的夢オチである。なぜこんな夢を見たのだろうか。ここ数日の疲労感と体調異変やもしかしたら気圧の急降下が影響したのかもしれない。

 そういう科学的解釈とともに、何らかの不安が映像化したものとも考えられる。恩師に世話になっていた頃はもっとも輝いていた時代だという思いがある。懐古を通り越した回帰願望が出てしまった可能性がある。

 正気に戻って考えることは、有為転変の中で過去にとらわれることは免れることはできないという通念の確認だ。ただ、過去には戻れない。戻れたとしてもそこにすばらしい何かがある訳ではない。今を生きるしかないし、それこそが生きるということなのだ。

 夢の中とはいえ、恩師と少しお話できたのはよかった。そして今もなお教え導いてくださっていることに感謝申し上げたい。

夏の宿題

計画は立てないよりはまし

 教員には夏休みがあるという人もいるが意外に夏は忙しい。合宿の引率が入ると24時間営業のn倍の労働があるし、部活動顧問としても時間外労働が課せられる。決して休めるわけではない。

 とは言っても、日常の多忙さからは軽減されるので夏はインプットの機会として活用することにしている。仕事関係の本5冊とそれ以外5冊は読みたい。この中にはテスト問題を作る素材探しは含めない。地域との関わりを考えて、何らかのイベントに参加したい。とりあえずは客として行くだけでいいが、その後はボランティア参加できるものを目指す。

 一向に上手くならないギターやウクレレの曲を3曲は仕上げたい。仕上げるというのは人前で聞かせられるレベルにするということだ。

 このブログのアクセスを10倍にしたい。芸能ネタ等を使わずに、今のような随筆で人さまのお役に立つものを書くにはどうすればいいか。考えていきたい。10倍というとものすごい感じかするが、かける前の数が微少なのでそれほど増える訳ではない。

 といったことを私の夏の宿題とする。宿題はたいてい終わらないものだ。終わらないときは何とかしなくてはならないものだ。これは教員が言ってはならないことだった。

人任せにはできない

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 残念ながら安倍晋三氏は逝去されてしまった。心から哀悼の意を表したい。国のために生きた政治家として尊敬する。容疑者が政治信条に対する恨みではないと述べているらしい。宗教団体の幹部を狙ったなどとも言っている。もしこれが本当だとすれば、この何とも訳が分からない者の手によって元首相が殺害されという事実が悲しい。理由が何であれ、暴力で現状を変えることは間違いだし、絶対に許すことはできない。

 安倍氏はマクロ経済に着手することで日本の国力の復活を目指したのかもしれない。結果的に復活はせず、国民は金融政策に守られているという安心感だけを得て、成長ができないまま停滞してしまった。既得権を持つ者の利益はある程度守られたが、新興の個人や企業には厳しい政策を続けている。その流れはいまも続いている。結果的に安倍氏の目論見は達成できないままだった。

 金利を下げ、金回りをよくするだけでは経済は動かないという事実が、安倍政権以降の政策で明らかになった。これは残念ながら、いかんともしがたい事実なのだ。日本の将来のためには別の方法がとられなくてはならない。新しいものを生み出すことに価値観を見出し、それを応援することができる社会的なコンセンサスが必要だ。

 安倍氏が結果的に命を懸けて変えようとした日本の状況を私たちは引き継いでいる。残念ながら政府に任せていると同じ事が繰り返されるだけだ。まずは国を変えるという意志を持たなくてはならない。おそらく最も優先しなくてはならないのは自分たちの未来を人任せにしないということだろう。日曜日の参議院選挙の投票はそのための第1歩だ。

鞄を買わなくては

 ここ数年使い続けてきた鞄の持ち手が切れてしまった。他の箇所もかなり傷んでおり取替なければならないと考えていたが今日に至ってしまった。兆候はあったもののあっけなく壊れた。

 自分の身体も同じような状態なのかもしれない。遺伝的にはどう考えてもこの先の展開はよろしくない。にもかかわらず、かなり不摂生をし、メンタル的にも理想からは遠い。少しずつ身体の異変を感じるが、それを口外することも難しい。このブログがその小さな排出口である。

 鞄は買い換えればよい。中古でもいい。使いやすければブランドなどどうでもいい。ものを入れ運ぶための道具としての役割をはたしてくれさえすれば十分なのだ。

 身体は取り換えられない。仮に今さらまったく違う身体になれたとしてももてあまし、結局命を縮めてしまうことになる気がする。最近は人生の最後の段階を考え始めている。

 くたびれた身体でできることはなにか。人に頼らず、むしろ誰かのためになることを続けるために何ができるのかを考え続けたい。

夏越

六月も終わり

 このところ暑さのことばかりを書いている。差し迫った今ここにある危機である以上仕方あるまい。今日は六月晦日であり、旧暦なら夏越の祓が行われた。

 旧暦の行事をそのまま新暦に移すといろいろ不一致が生じる。加えて今年の約一ヶ月早い梅雨明けとなってはその誤差というや多大なるものがある。夏越の祓は半年に一度の罪や穢れを祓い落とし、禊ぎをする行事という。罪悪が塵埃のように取り除くことができるのかという点においては現代人の感覚に合わないが、何らかのけじめをつけようとする精神は共通する。それが夏の終わりにあることに意味があったのかもしれない。それが今年は始まったばかりの感がある。

 どこかに消えてしまった梅雨は恵みの雨でもあったことは確かだ。その恵みがあまり期待できないことになった今夏は、禊ぎの水はどこから得れば良いのだろう。喉は乾いても心までは干からびないように注意するより他はない。

ワンチャン

You have a chance.

 最近、気になってきた流行語にワンチャンがある。One chance からきた和製英語らしい。元々麻雀愛好者が使っていたらしい。麻雀に無縁と思われる人も使っているから流行語なのだろう。

 機会さえあれば形勢を逆転できると言う意味がもとらしい。一発逆転と言うことだ。雀士が一発逆転を使わないのは役名に似たものがあるからだろう。ワンチャンはそのぶっきらぼうな表現からして背水の陣をひくものにふさわしい。

 ワンチャンが流行語になる原因を考えるに、昨今の状況が極めて厳しいという前提があるのではないか。ただ、そのなかにわずかな可能性を考えるときこの言葉の出番がある。諦めていないのは救いだ。無努力無根拠にチャンスを言っている向きもあるので少々心配になるが。

 閉塞的状況の把握とその打壊願望がワンチャンにあるという深読みをしてみた。若者たちがノーチャンと言い出さない社会をつくることがロウトルのやるべきことだ。

中学生レベル

 書店に行くと中学生レベルでやり直すことを歌った学習書というのがある。いろいろな種類があるということはある程度需要があることになる。実は中学生レベルというのは馬鹿にはできない。

 中学校で学ぶことは教養の基礎に当たる。基礎と言っても多岐にわたり、ある程度の深みもある。これらを満遍なく学習しておけばかなりの知識人といえるだろう。

 でも、実際にはすべての分野を高い水準で学ぶことは容易ではない。偏りややり残しが出てしまう。中学生の皆さんには成績は気にしなくてもいいのでとにかくすべての科目に意味があることを伝えたい。必ず後で役に立つものであると言いたい。

食べ物の評価

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 レストランの評判は気になる。しかし、味の良し悪しの評価は個人によって大きく異なる。絶対的なものではないことを忘れてはならない。

 さまざまなレビューがネット上にはあふれている。だれでも評価できるようになった最近の方法は一見優れているかのように見えるが、実はかなり偏見に満ちている。本来個人差が大きい味覚に関する分野を統合して数値化することの意味が感じられない。どんなに多くの人がうまいと思うものでも、ある人には耐えられないものである可能性がある。その逆もある。

 よく行くレストランの評価を見てみたことがあるが、かなりの高評価で絶賛している人もいた。その反面、今まで味わったことがないほどまずいという評価もある。食味の評価はそういうものなのだ。私自身は良くも悪くもない無難な味だと思っている。ネットに書き込むのはそういうことが言いたいかなり特別な人なのである。特別な人の評価はそのほかの人のそれとは異なる。しかし数値にはその評価があたかも現実そのもののように提示されてしまう。

店の売り上げにも評価が影響するため、いわゆるサクラやアンチ的な書き込みをする人も多数いるという。ますます信用できない。そういうものだと思ってこの手の情報は使うべきだ。これは多くの人はわかっているはずなのに、だまされてしまう。思ったよりメディアリテラシーは身につくものではない。かくいう私もその一人であり、反省のために文字化してみた。