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制約も

このブログはたいていスマートフォンで書いています。今日は違いますが。
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 おかげさまでブログを書き続けられている。WordPressを始める前から数えると今日で約13年皆勤していることになる。何事にも飽きやすい私が、これだけ続くとは思っていなかった。それなのに読んでくださる方が増えないのもおかしいけれども。

 今日から短い夏休みに入った。いつも思うのだが、ブログを書こうと思っても休みになると進まなくなる。なぜかと言えばいくらでも時間があると思うからだろう。普段は通勤電車の10分程度で文章を書く。最近はレンタル写真やアフィリエイト広告をつけたりすることも多いので文章作成にかかる時間はもっと少ない。話題を決めて一気に書く。結果として内容は薄いがとにかく継続だけはできている。

 ところが休みになると何を書こうかと悩み、ネット検索など始めると全く進まなくなる。いつでも書けると思うといつまでも書けない。電車の中ではたいていはカバンを抱え、混雑する電車に他人の迷惑ならないように身を縮めて立って片手でスマートフォンで入力する。目的の駅はすぐに着くので雑念は捨てなくてはならない。この時のスマホはネットにつながってはいるがネットは見ないただの入力用ディバイスである。だからとにかくでっち上げられる。拙速を尊ぶのである。

 制約をかけて物事を考えることも時には必要である。もちろんいつもそうであってはならない。熟考熟慮する時間があってこそ、でっち上げもできるのだから。この考え方を生かして速読と早書きの時間を意図的に持つようにしたらいい。

作り話

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 私たちにはフィクションを楽しむことができるという能力がある。これはかなり古い時代から存在する。例えば昔話というジャンルに典型的に見て取れる。

 昔話には定型がある。地域によって異なるが話の始めと終わりに決まった表現をする。もっとも有名なのは「昔むかし」で始めて、「めでたしめでたし」で終わる。これらは決まり文句であって、「昔むかし」が特定の年代を指定するものではないし、話の主人公が悲劇的な結末を迎えても「めでたしめでたし」で締める。この二つのフレーズに挟まれた部分が昔話であり、それは事実であるかどうかは保証しないということになる。会話文におけるカッコのような役割を果たしているともいえる。

 昔話の聞き手は、その内容を全くの真実だとは考えない。だから、この話のモデルは何かとか、証拠はあるのかなどと問いただすことはしない。ただ、全くの嘘であるとも考えない。現実以上の何かがあるということを想定しながら話を聞くのである。

 民俗学では昔話と伝説を区別する。伝説は完全に事実だと信じられているか、それを前提として話が進められるものである。昔々のはなしではなく、ある特定の人物の事績に典拠をもとめ、具体的なものやこと、場所が指定される。どんなに荒唐無稽であっても伝説で語られる内容はあくまで事実なのである。

 昔話を楽しむ思考環境はいまにも連綿とつながっている。フィクションはあくまで歴史とは区別されるものであり、時代の要請や移りゆく人々の願望が反映されている。創作を楽しむことはこの伝統によるものといえる。話の内容がより複雑となり、現実世界の要素が巧みに取り入れられていることがあっても、作り話は史実ではない。

 ところが、この作り話を史実と区別できなくなってしまう人がいる。特に歴史の学習が十分でないと作り話がそれと分からず、すべてが事実と考えてしまう。この錯覚が悪影響を及ぼす。まずは歴史を学ぶべきだ。どこまでが史実でどこから虚構なのかを見分け、説明できるようにしたい。史実と混同せずに創作を楽しむために。

残暑

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 立秋となり、今日からは残暑だ。毎年暦の矛盾を感じるのだが、今年の場合は梅雨、前暑、戻り梅雨、酷暑と続いて、また残暑になる。3回目の夏といった感じさえする。このあといつまで続くのかわからないほどだ。

 気が付けばもう8月が過ぎていく。本当の夏の休みはこれからだが、意味のある時間にしたいと考えている。まだ2冊しか読めていない。目標は10冊だというのに。

終戦直前の悲劇

サトイモの葉に隠れて

 中学生に教える教材としての小説に山川方夫『夏の葬列』という短編小説がある。疎開先で敵艦載機の機銃掃射に遭遇し、自分をいつも助けてくれた姉のような人を恐怖のあまり突き飛ばし、結果的に死に至らしめたことへのトラウマが描かれる。過去との決別のために悲劇の地を再訪した主人公は新たな悲劇を知ることになってしまう。掌編小説としては完成度が高く、限界状況での人間のふるまいやその後の人生観の変化などが分かりやすく描かれている。

 この小説を何度も教えてきてその都度不思議に思うのは、この小説の設定の通りだとすると1945年8月14日に連合軍(アメリカ軍)が日本の本土を空襲することがあったのだろうか、そして明らかな民間人を機銃掃射で攻撃することがあったのかという疑問である。もしそうならば戦争犯罪に近い行為であることになる。

 この件について調べてみると、興味深いことが分かった。山川方夫が疎開していたのは現在の二宮町であったという。ここはその東に平塚、西には小田原がある。湘南地方には軍需工場が多数存在していたらしく、それを殲滅するための攻撃であることは想像できる。しかし、8月14日は日本が降伏を宣言する前日であり、ポツダム宣言の受諾はほぼ間違いがないとされていた時期であったはずだ。地元の史家が収集した記録によると、小田原では8月に何回か民間人が艦載機の機銃掃射で死亡する事実があったという。特に13日には小学校が空襲にあい、教師と用務員が犠牲になっている。さらに14日の深夜、もしくは15日の未明には小田原市内に多数の焼夷弾が投下され、402戸が被災し、12人が死亡したという(一説に死者は48人)。この爆撃が伊勢崎や熊谷を爆撃した編隊が残留弾を消費するために行ったという説もあり、いろいろな意味で許しがたい。戦争はこのように非道な行為が正当化されてしまう。

 「夏の葬列」はあくまで創作であり、事実に基づかなくてはならないというものではない。でも、14日の空襲は実際にあったことだし、民間人への機銃掃射もなかったとは言えない。芋畑を無防備に歩く人への攻撃は作り話だと思いたい。残念ながらそれ以上に非道な、無差別の空襲や、原子爆弾などによる大量殺戮もあることは忘れてはならない。

 この小説は主人公が抱えた原罪の意識をどのようにとらえていくかが読みどころとなる。そこが反戦小説を超えて読み継がれている所以だろう。ただ、やはり戦争というものがもたらす限界状況が人の判断を狂わせるといういかんともしがたい事実を私たちは様々な場面でかみしめる必要がある。

スポンジ

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 振る舞い方が身につく前はどうしても不器用な動きになりやすい。自分だけならよいがそれが周囲をも傷つけてしまう。その連鎖が場合によっては深刻な人間関係の原因になる。こういう場合に大切なのはいかに緩衝材を置くかだろう。

 青春小説では社会的な立ち回りが苦手か敢えて我を通そうとする人物が登場する。それがざま問題を引き起こす。結末はそれぞれだが、多くの場合は彼らを引き止める存在が描かれる。そのブレーキが機能すれば主人公は行動を変容できる。機能しないとき、もしくはその人物がいなくなったときには暴走は止まらなくなる。よくあるパターンだろう。

 現実社会の中で緩衝材的な役割をするのは何だろう。家族がその役割を果たせるときは安心だ。ちょっとしたわがままも受け入れられる。柔軟な対応ができる可能性が高い。しかし、家族の形にもいろいろある。親子関係がうまくいっていない場合はほかにスポンジ役が必要になる。その理想の一つは友人だ。不平不満を聞いてくれる。うなずきながらも聞き流してくれる存在ならなおよい。その友人もいなければどうだろう。

 私自身もあまり人のことは言えないが自分の悩みを打ち明けられる人はほとんどいない。子どものころから弱音を吐くことは敗北を意味するものとして避けられていたし、その後適度なガス抜きは必要だと知っても、うまくそれができない。弱音の吐き方が分からないのだ。極端な行動としてヒステリックになってしまうしかない。これは周囲の人を不幸にする。

 悩みを相談できる期間は社会的に用意されている。ただ、我が国の場合、カウンセリングはよほどの深刻なものしか受け付けないという既成概念がある。そして確かに日常的な悩みまで聞いてくれる第3者は思い当たらない。ソーシャルメディアに書きつけるのは、便所の落書きと同じような心理だ。ただ落書きはほとんど見られないうちに消されてしまうが、ネットの書き込みはたちまち拡散し半永久的に残る。ストレス解散が新たな悩みの種を作る。

 スポンジ役が欲しい人は、みずからもスポンジ役になるしかない。お互いにお互いの苦しみを少しずつ受け取り、受け流す。それが本当に今必要なことであると考える。

条件変更

もしこのブログがヒットしたら

 創作的な目的でもしこうだったならばと考えることがある。設定条件の変更である。大抵の作品はこの手法で作られており、基本的な考え方である。

 現状以外の条件に変更するものとして、時間や場所、年齢、性別、環境などいろいろなパラメータがある。それらを組み合わせたり、何かを大きく変えたりすることで創作上の世界が完成する。多くの場合、大きく変更するものと、それに伴う付帯的変化を設定して話を作る。例えばもし急に他人の考え方を見透かすことができればとか、逆にとんでもないハンディを持ったらといったふうに。

 小説家でなくてもこの妄想は面白いし、意外に役に立つかもしれない。日常の視点から離れることは新しい考え方を導くきっかけになる。

情報の壁

検索すれば分かるだって!

 ネットでニュースをみていると次第に小さな世界に閉じ込められていく。検索によって瞬時に様々な情報にアクセスできるから、一見世界は無限大に広がる気がする。しかし、実際は逆で普段の作業で自分の居場所を少なくしている。

 You Tubeを開くとかつて見たことがある動画と関連のあるものでタイルが埋められる。私は睡眠導入のために精神安定を歌った音響動画をよく見るので大半がそれである。3分で眠れるというなぜか10時間を超える動画を数日見たらそればかりになった。

 ニュースも同じだ。教育問題のニュースを続けてみるとそればかりになるし、株式市場の今後が気になると、しばらくはそればかりがスクリーンに並ぶ。結果として自分の関心のあることばかりを見せられ、それ以外の問題は矮小化される。

 どんなに万能にみえてもネットに頼りすぎてはならないということだ。様々なものを映し出す小窓は実はかなり意図的で強い偏光レンズが組み込まれている。いかに限定的てあろうと自らの目で見るに如くはない。

分解者

 生物学の世界では生物をほぼ最終的に分解するものを分解者と言うらしい。カビなどの仲間がそれに当たる。しかし、実感としては蟻などの昆虫や、ミミズなどが思い浮かぶ。いわゆるスカベンジャーと言われる動物たちも広義ではこの仲間ではないか。

 通勤途中の道端にセミの亡骸が落ちていた。これからはよく見かけることになる。少し時間をおいて通りかかると蟻がたかっていた。炎天下なのに補食の方が優先されるようだ。普段ならば気持ち悪いとはき捨てるところだが、なぜか生命力の強さを感じて少々感動した。分解者としての位置づけはあくまで人間の視点による。それぞれの生物は自らの種の保存のため日々を生きているのだ。

 人は知恵を手に入れたばかりに生きる意味とか、禍福とかを考えるようになった。毎日それで一喜一憂の繰り返しだ。たしかにそれは幸せなことかもしれない。幸せという概念を獲得したこと自体が奇跡的なことなのだから。

適応

進化できるかな

 人体が環境にどう対応していくのかを考察したものはいくつかある。そのいくつかはファンタジーと言える類であり、ホラーとしか思えないモノもある。

 進化という名で呼んでいいものなのかは分からない。ただ環境に対する対応ということに関して言うなら人体は確実に変化していくだろう。さらに人為的な改変も加わる。外見を一時的に変えるだけではなく、遺伝子を操作して根本的に変えてしまうことはこれから普及していくはずだ。人工的な機能を内蔵することもあるだろう。コンタクトレンズ型ウェアラブルデバイスはもっとも実現しやすいものという。何かの漫画ではないが機械伯爵との対決は嘘ではないのかもしれない。

 ただしこういう話の大前提は人類がヘマをしでかさないことだ。環境汚染で自滅したり、核戦争で未来の可能性を断てば何も起こらない。

尺を変えてみる

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 日々の瑣事に取り紛れ身動きが取れなくなったように感じるときは、尺を変えてみるという方法がある。この数日、この数か月、この一年では大問題であっても、10年を単位にすれば文字通りの瑣事になってしまうことがある。

 もっと縮尺を変えて世代という単位に広げたり、時代という単位にしたり、もしくは世紀、もっと上げて地質時代の紀を単位にすればもう今日のことなど目にも見えなくなる。これは一種の逃げの手なのであるが、たまにはこういう方法をとるのも面白い。

 夜空を見上げれば多くの星があるが、その多くはかなり昔の光が届いたものだ。過去の輝きを見ているのに過ぎない。尺を変えるというのはそういうことだなのだろう。今見えているものがすべてではない。そう考えることで救われることもある。