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ハードな時代に備えて

岩間の花

 残念ながら日本の将来を悲観的に考える人は多い。これまで得意分野とされていた分野がふるわなくなり、結果として競争力が落ち込んでいる。高齢化や自然災害リスクなど不可避の負の要因が多数存在することも悲観論に拍車をかける。ハードな時代が来ることは避けられそうもない。

 不安な時代には想定外のことが起きやすい。犯罪の数が増えたり凶悪化する可能性がある。犯罪とまではいかなくても精神的な闇にとらわれる人が増えてくるのだろう。現在すでにその傾向を感じるが、より顕著になっていくはずだ。

 そのような時代を改善する方法はないのか。政治や経済に関する分野には叡智を期待したい。危機的状況にあるというコンセンサスは共有されつつある。立場がある人が決断を下しても非難されることは少ないだろう。非難されても国のためになると思うことは提案してほしいのだが。

 もう一つは心の安定をもたらす文化的な側面の発展だ。優しさや思いやりをテーマにしたものも、破れても立ち直るという打たれ強さを示すことも求められるかもしれない。押し付けでは意味がない。そういうものが必要となる時代を見据えて創作するアーティストが現れてほしい。

 難局を乗り越えられるかどうかは共同体の総合力が関係する。そういう時代に生きていることを自覚して自分のやれることを少しずつやっていくしかあるまい。

進化の不思議

 動物の進化という現象は実に不思議だ。環境に適合するために少しずつ身体の形を変えてゆくというのだが何ともしがたい。偶然形を変えたものが生き残って子孫を残したということなのだろう。

 人間が進化の最終形態のように考えるのは科学的ではない。わたしたちもまた日々形を変えており、未来の人類がいまと同じ姿をしている可能性は低い。それかどのようなものなのかは分からない。

 命というのが可変のものということはあらためて覚えておかねばならない。

言い訳

 最近、このブログで誤字や脱字が増えている。今回はその言い訳をする。我ながらずうずうしい企画だ。

 誤字が増えた第一の原因は私の視力の低下にある。老眼が進んでしまったようでスマートフォンの文字がよく見えない。通勤電車の中で手短に入力する関係で見えなくても勘で決めてしまうことが多い。それが誤字の生まれる要因だ。

 まだある。いわゆる予測変換という便利な方法は時間短縮のためには役に立つ。ところが私のようなひねくれたことを書く者はコンピューター氏の予想を外れる語を使いがちだ。それをよく見ずに確定すると見事に変な日本語になる。

 まだある。私の注意力低下という如何ともし難い現象だ。これが根源にありそうだ。残念だが認めざるを得ない。

 私のできることは、気がついたときに直すことだけだ。時々過去の記事を読み直し、誤字や文意不通の箇所を書き直している。だから私のブログは過去記事が平気で変わっている。その方が誠実だろうから。というのが私の言い訳である。

メニューはございません

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 外食のデジタル化でもっとも顧客にとって顕著なのは注文の仕方である。かつてからそういう店はあったが急速に増えているのがタブレットを客に操作させる方法だ。初めてそういう店に入ったときには大いに驚いたが、いまはかなりの頻度で出会う。

 その手の店の中にもいわゆる紙のメニューを置いている所と全く置いていない所とがある。置いていない店はウエイトレスは席の案内くらいしかしない。後はタブレットでお願いしますと言って去っていく。もっと進んだ?店はタブレットさえ置いていない。自分のスマホかなにかでそれを読み取って店のWEBにアクセスし、そこから注文してくれというのだ。こうなるともうテーブルの上にはQRコードが印刷された紙切れ一枚しかない。

 デジタル化はもちろん重要だ。特に人手不足かつ収益性の低い外食産業においては必要だろう。ただ、なにかが切り捨てられた気がする。それは熟練されたサービスであり、安心感であり、安らぎのようなものだろう。もちろんうまい料理が食べられればいいのであり、それが安ければなおいい。そのための手段として接客のデジタル化は不可欠なのだろう。それが嫌ならば、接客に長けた社員を多数雇用する店を選ぶべきだ。残念ながら、そういう店はどんどんなくなっていくし、あってもかなりお高い店となる。サービスはタダではないのだ。

 では、これからの外食産業はどうなっていくのか。まず、安価を維持するために徹底的な合理化を進めていく路線がある。これは今の主流だ。セントラルキッチンようなところで調理された半製品を冷凍や真空包装で各店舗に届け、調理場では最低限の光熱費で最終調理をする。特別な技能はいらないので、安価な報酬で調理師を雇えばよい。ウエイター・ウエイトレスは高校生か、高齢者を雇用してすぐに交代させる。必要最低限しか雇わない。バイトの単価が上がらない前に解雇する短期契約でつなぐ。接客はほとんど機械化しているので、そこそこ愛想がよければいい。片づけ、食器洗いは最低限にして多くは機械化する。いまでもその気はあるが、自動洗浄のレベルではよくても、心情的にはもう少し洗ってほしいという食器が来ることがある。しかし、この種の店では今後もそれは改善されず、質的向上はまずないだろう。

 もう一つの路線はやたらと高級化していくことだ。安価なチェーン店と同じことをしていてはとても勝てない。そこで店員はいずれも志の高い正社員をそろえ、最高級の接客をする。食器の質、洗浄の度合いなども洗練される。もちろん料理はその都度、シェフが作る。季節によって少しずつ味が異なるのは、シェフのさじ加減がかわるからだ。顧客はとても幸せな気分になれる。チェーン店で同じ名前のメニューを頼むと一桁安い値段で食べられることはわかっていても。

 極端に書いたが、格差が広がる日本社会の未来として十分にありうることだ。外食産業はそれが分かりやすいが、こうした違いは各所に現れるだろう。IT化は人々を全体的に豊かにするという人もいるが、少なくとも過渡期においては格差を助長することになる。

 私たちは振り回されないことが肝心だ。便利なものは使い、便利でも気分に合わない者はあえて使わないという判断をしていかなくてはならない。デジタル化が世の中を素晴らしいものにするという単純な論理に乗らないことだ。

走ってみた

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 相変わらず猛暑が続くが、今日は意を決めてジョギングをしてみた。とっても近くの公園の周回コースを回っただけである。ここは近くに自動販売機もあるし、ほかのランナーもいるから安心だ。少し柔らかめの舗装にしてあるのもいい。

 暑いから走れないというものもあるが、それ以前に体重が増えすぎたのかもしれない。体が重かった。時々また走ってみようと思う。運動不足はいろいろな点でよろしくない。

そこにあるものを最大限に生かす

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私たちにはより良いものを使いたいという願望がある。便利な機能がついているものはそれを使いたい。それは自然なことだ。しかし、その便利という考えを熟慮する必要がある。それは本当に必要なのか。便利なように見えて実は不便なのではないか。

例えば新しい家電を購入するときに、様々な高機能付きの製品を選びたくなる。1万円高くてもその方がいい。店員もそれを勧めるし、情報誌にもそのように書いてある。数年使えば1万円の投資は回収できると考える。しかし、もしその機能を全く使わずにその製品を使い続けるのだとしたら無駄になる。

 こういう論法は今までにもいろいろな人から聞いた。なるほどそういうこともある。ただ、大切な問題は少し違うところにあるのではないか。高機能が保証されていればそれだけ安心感はあるし、可能性という満足感を購入したとすれば使わなくても投資価値があったともいえる。無駄とは言えない。

 問題はその高機能性に甘んじて、自分で工夫することを怠ってしまうことにあるのではないかと考える。機能がなければその分、自分で工夫をしなくてはならない。生産性が下がるかもしれないが、その中で何ができるかを考える。結果として別のやり方が生まれ、下がると考えれていた生産性はかえって向上する可能性もある。こういう努力をしなくなることの方が技術依存の問題点だと考える。

 今ある条件のなかで何ができるのかを考えることが大切であり、それが結局は既成の状況を超越するためのきっかけになる。与えられた幸福よりも自らそれを模索し獲得することの方が意味があるはずだ。

携帯キーボード

 スマートフォンでほとんどの記事は書いているのだが、やはりキーボードがあると効率が全く違う。文字をたくさん入力するときはやはり物理的なキーボードが欲しい。私が小型パソコンを持ち歩くのはそのためでもある。ただいかんせん重い。軽量のPCもいくらでもあるがそういうものは値もはるものだ。私はその一つの解決策としてキーボードだけを携帯して、Bluetoothでスマートフォンに接続している。

 私が使っているのはLogicoolのK380というものでもともとはタブレットの入力用として用意したものだ。しかし、そのタブレットが骨董品となってキーボードの方は使わなくなっていた。それをスマートフォン用の入力機器として使ってみたら非常に便利であることが分かった。

 このキーボードは電池で駆動し、3つのBluetoothを受信できる。キーバードの配列も標準的であり、Windows,iOS、androidのどれにも対応できるようにキーが作られている。重さは423グラムであり、私が普段持ち歩いているポーチに入る。これがあればスマートフォンに入力するのが非常に楽になる。

 キーが丸いのは特徴的だが特に打ちにくいということはない。打鍵音がほとんどないので周囲が静かなところでも気にならないのもいい。キーボードだけを持ち歩いてあとはスマホというスタイルでもいいと感じている。4000円弱でスマホをPC化するという言い方は大げさだが私の使用レベルではこれで十分な仕事ができる。

何を学ぶか

 37年前の今日、羽田空港から伊丹空港へ向かった日航機123便が群馬県多野郡上野村の高天原山の山中に墜落した。墜落後に御巣鷹の尾根と名付けられた場所である。死者520名は現在まで単独機事故の死者数として最大の犠牲者だ。生存者はわずかに4名。悲惨な事故だった。

 この事故の原因は墜落の7年前に伊丹空港で起こした尻もち事故のあとの修理が不完全であったことであると推定されている。後部にある圧力隔壁が破損したことで、垂直尾翼と油圧系統が破損し、事故発生から墜落までの迷走飛行したという。不安定な迷走飛行中で書かれた乗客の遺書が見つかったことは当時の大きなニュースであった。いま考えても痛ましい。歌手の坂本九さんが乗客の一人であった。

この事故の原因は先述したように修理が不完全だったことにある。ただ、修理後もかなりの時間飛行しており、その間には軽微な不具合しかなかったという。結果的にこれが事故を引き起こしてしまった。少しずつ壊れていく現象を感知することは技術的に可能であったのかどうかは素人には分からない。ただ、事例から学ばなくてはならないことはある。犠牲者の鎮魂ができるとしたら、それしかない。

 まずは技術を過信してはならないということだろう。航空機のようなハイテクでなくても身近なものであっても同様のことが言える。修理のあとのモニタリングをしっかりとしなくてはならなかった。何かが起きたときに様々な可能性を考える必要があるということだ。

 もう一つは非常時の振る舞いをしっかりと考えておくことだ。もちろん、同じ状況に立ったものでなければわからないことがある。理屈をこねても現場でなくては分からないことがあるのは確かだ。でもその前にいくらでもシミュレーションを重ねておくことはやはり大切だろう。

 墜落の直前まで操縦士は最大限の努力をしていたことはフライトレコーダーなどの記録に残っている。最後に何をするかが人間にとっては大切だ。大いに尊敬する。ただ、そのような事態になる前になにができるのか。この事故は今でもその意味を私たちに問いかけてくる。

登山の意味

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 そこに山があるから。イギリスの登山家ジョージ・マロリーのエベレスト登山に向けた情熱を述べた名言だ。彼が最終的にエベレスト山頂付近で亡くなっていることもこの名言に価値を与えることになってしまった。エベレストのような特別な人しかたどり着けない山ではなくても、人は山に登りたがる。それはなぜだろう。

 高いところへのあこがれは多くの人が共通して持つものだ。高所恐怖症の人は別にみえる。これは考えてみれば高所を特別に感じるからこその感覚であり、あこがれの表現方法が反対の絶対値に振れているのだともいえる。高い場所は日常を超越することであり、そこに快感がある。確かに山は多くの場合それを満たしてくれる。

 しかし、もう一つ大きな要素がある。山頂は限られた面積しかない。その地を占めるということに意味があるのだろう。特別な空間に身を置くことで、確かに自分が生きているという実感が持てる。山でなくてもいいが、人間にとって山頂は特別で限定された空間という意味では象徴的である。高いところならばどこでもいいかといえばそうでもない。山は少なくても人間の一生を単位に考えればほぼ不動の存在である。地質学的には山も動き、海底が山頂になることもあるというがそれは実感からは程遠い。

 エベレストは誰にとっても世界最高峰であり、富士山は日本最高峰だ。万人に共有できる特別な地は、実はそれほど多くはない。マリアナ海溝は世界最深と言われているが、超高性能の潜水艦でようやくたどり着けるかどうかだ。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地だが、それらの信者以外にとっては面倒な歴史を持った場所に過ぎない。万人が認める特別な場所はやはり山頂だろう。特別な場所を踏むことに登山の意味があるのかもしれない。

 古代のことを研究すると山は聖地でもある。山岳信仰はいろいろなところにあるし、多くの民族に共通する。特別な場所は信仰の場所になり、宗教の対象となる。信仰の具合によっては入山禁止になるか、もしくは山頂に立つことを神に求められるようになる。これも登山する要因の一つだろう。

 さきほど生きていることの確認のために山に登るという可能性を述べたが、生きていることを感じる方法はいろいろある。その一つが死との接点に立ち、彼岸に渡らないことである。死の危険を冒しながらも、生き続けることによって生命を実感することができる。いわゆる冒険である。これができるのも登山の意味なのかもしれない。本当の高山では実際に遭難死する人が後を絶たない。しかし、低山であっても日常とは異なる世界を歩くことは一種の冒険であり、生の実感を獲得できる機会になる。

 登山には憧れるし、遭難者のニュースに接すると悲しくもなると同時にどうしてわざわざ命の危険を冒したのかと思うことがある。今回考えたのはそのいくつかの可能性に過ぎない。そこにあるから登るというだけでは説明できない何かがあるのだろう。