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残響

音のない音

 あるコンサートを聞いて気づいた。よく言われることだが演奏は音符のあるところだけで聞かせるのではない。むしろないところに表現が生まれることもあると。

 演奏中の休符はもちろんだが、演奏前や直後の残響に説得力のある表現がある。これは観客である私の思い込みなのかもしれない。それがもし演奏者が意図して仕掛けているのなら、私はその技法にまんまとやられていることになる。

 日常生活の中にもこれと同じような表現を感じることがある。何も話していないのにある種のメッセージが伝わる。この効果を見直したい。発言や動作だけが伝える方法ではない。

情報処理重視

考えるには時間がかかる
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 あまりに情報処理重視の教育に少し反旗を翻したくなる時がある。そんなに物を覚えて、すぐに忘れるような教育をなぜ続けるのか。先人の生み出した知識の価値をまるで大量生産された商品のように扱うことを良しとする考えがなぜまかり通るのか。わからないことだらけだ。

 もちろん、世界の情勢の変化が急であり、それについていくことが大事なのはわかる。でも、だからといって、何もかも情報の断片として等質化してとらえるのはいかがだろう。今の教育は考えることを軽視しすぎだ。効率的にやればいいという。PDCAサイクルを金科玉条のようにいう教育者は完全になにかに毒されている。知というものがあたかも効率的な作業の一つのように考えているのだ。彼らにはきっと新しい地平は見えない。

 私はもっと晦渋な局面を右往左往する時間があってもいいと考えている。その時間を子供たちから奪うことを良しとしない。効率的に学習することばかりを重視する教育を受けたものは、生産性という言葉を繰り返しながら、結局なにも生み出せまい。

 伝統的に人は多くの無駄を行い、その中で新しい局面を切り開いてきた。無駄がなければ新局面は見えない。それはAIのような効率性を第一に考えるものには見えない世界だ。教育現場にいられるのもあとわずかだから、この無駄に考える時間の大切さを訴え、ひそかに実践していこうと考えている。粛清される前に。

優先順位

 私の仕事の失敗の多くの原因は優先順位の把握の間違いによる。どんな仕事でもそうだと思うが私の場合、仕事の種類が多く、何から手をつけていいのか分からなくなりやすい。

 グーグルが提供するメールやカレンダー、タスク管理のサービスはよく使う。しかしこれもすべてが同じように記録されてしまうのでだんだんわからなくなる。保存性やリマインダーのあることなど捨てがたい機能があるのでまずはこれでいく。

 もう一つがいわゆるバレットジャーナルである。手書きのタスクリストや仕事メモを机上に置く。二度手間になるがこれくらいしないと私の場合はだめだ。最近気づいたが手書きメモはあまり画一的な書式にしない方がいい。平準化しないよう書き方に工夫する。これはリングノートなど開きっぱなしにできるものにする。

 基本的に自分を信用していないのでこれだけでは足りない。信用のおける同僚にやるべきことをつぶやく。別に覚えておいてほしいわけではない。他人に話すとそれなりの自覚が生まれる。運がよれけばリマインダーになってもらえる。

 こんなふうにしているのだが、それでもエラーがある。残念ながらこれは己の現実と認めるしかあるまい。

31日

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 8月31日は小学生にとっては特別な日だった。いまはどうかは知らない。宿題提出を明日に控えてまだやっていないものを親に叱られ、泣きべそをかく間もなくなんとか仕上げるように言われる。

 困るのは天気の記録をつける日記のたぐいだ。今はネットで調べれば天気や最高最低気温などの情報が即座に手に入る。余計なおせっかいとして新聞に夏休み期間の天気と温度のような「神」広告を出した企業があった。私はその時点で小学生ではなかったのでうらやましく思ったものだ。

 夏休みの宿題の山は自由課題だ。私の場合は工作をすることが多かった。低学年の時は水族館というおもちゃを作った。お菓子の紙箱のふたを切ってセロファンを貼り、なかに紙で作った魚や海藻を飾る。一回目は褒められたが、次の年も同じものを出したらこれ以外にしなさいと言われた覚えがある。高学年になると木工をやった。ところが31日の午後になってもできない。ある年、どういうわけが父が休みでそれなら手伝うと助け舟を出してくれた。父は比較的器用であり、凝り性なところもあった。

 虫かごやマガジンラックを作るのに明らかに小学生の能力以上のものを作ってしまう。それだけならばいいのに、なぜか金のラッカースプレーを吹き付けて完成とした。個人的にはなぜ金なのかは分からなかったし、やりすぎな気がした。それでもその父の作品を提出したことで叱られずに済んだ。その作品がどのような評価を受けたのかはなぜか記憶にない。

 8月31日になるとなぜか思い出すのだ。

思い込み

 

歴史上の人物の印象はある程度固定化されている。この人はこういう人物だというラベリングがなされている。その方が理解しやすいからだろう。真実とは違っていても。

 人生は多様で複雑であり、とても一言では言い表せない。でも複雑なものをそのまま把握することは難しいので、どうしても角を取る作業がいることになる。取られた部分は決して不要なものではない。あくまで単純化の過程で切り落とされるものなのだ。

 彼はこういう人物だったというとき、それはごく一部の側面を捉え拡大して述べているのだ。もし自分の獲得した人物評を熟慮する時間と能力とがあれば、思い込みに過ぎないのだと気づくはずなのだ。

 歴史上の人物だけではない。周囲の人への人物像もまた、多分に思い込みの産物であることをときに思いださなくてはならない。

秋の気配

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 残暑が厳しいのは変わらないが、それでも日暮れの街を歩くと、方々から虫の音が聞こえてくるのが秋を感じさせる。気が付けば8月も最後の日曜となり、来週からは新学期にもなる。

 時間の区切れというものはしょせん人為的なものであり、実際は不断の流れの一場面に過ぎない。それだと実感ができないので、いまは何時、季節はいつと命名しているだけだろう。いかなる分節をほどこすのか、そこにどのような意味づけをしていくのは文化による。極端に言えば個人の感性によるものともいえる。だから秋を悲愁の季節と考えるか豊穣の歓喜による季節とするのかは人間側の問題だ。

 食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、芸術の秋、月見、紅葉狩りなどさまざまな秋の捉え方があるが、どれもいかに意味づけするかということになる。ならば、私は私なりに季節を捉えなおしてみようではないか。秋は衰退ではなく復活の季節ということにしたい。陽光は減り、気温は下がるのでマイナスのイメージを持ちやすいが、暑さの支配から逃れ、自分の行動が解放される季節として位置付けてみようと思う。

 こう考えると虫の音が頼もしく聞こえてくる。要するに気の持ちようなのだろう。

好きではないが

I don’t like it, but…

 好きではないがやらなくてはならないことがある。生きているからにはそんなことの連続だ。組織の一員の場合は、特にそういう機会が増える。やらねばならないことが、自らの価値観から遠いとき、いかに振る舞えばいいのだろう。

 倫理的な問題になる場合は、思い切って止めることを選択肢に入れるべきだ。組織から離れることも必要になる。生活がかかっている場合は容易ではないが。

 それほどはない場合、これが大半の事例だろう。その場合は調整するしかない。その手段としては相手を変えるか、自分を変えるか、その両方かだ。指示するものにそのやり方は間違っていると指摘して、納得してもらえばやらなくてもよくなるかもしれない。少なくとも何らかの改良がなされる可能性がある。だが、残念ながら相手が動かない場合は自分の方を変えるしかない。これは仕事だからとか、報酬を得ることが目的だからとか、こんなやり方は続くはずはないから、とりあえず乗ってみるとか、そういう言い訳を作るのだ。嬉しくないがこれがとりあえず取れる手だろう。

 理想的なのは相手の改良案を引き出し、それに自己参加の意識を持つことかもしれない。それであまり好きではないやり方でも自分の意見が反映されたと思える。モチベーションを保つにもよい。

 大切なのは大きな目的に反しないか吟味することだ。喫緊の課題には妥協してもその先の何かは譲らないという考え方が肝要ということになる。

別の道

行き方はいろいろ生き方もさまざま

 不景気になりつつあるだろうか。世情に寛容さが失われつつあるのを感じる。こんなことを書くと印象で判断するべきではない証拠を示せと言われそうだ。なんでも証拠がないと動かないのも今の風潮だと言える。

 山の登り方には何通りもあるように、何も最短ルートを行くのがよいとは限らない。危険だから全員迂回するようにというのも何か間違っている。極端な例だが、このように選択肢をある程度絞って、その中から選ばなくてはならないというのが現代の日常だ。

 それに息苦しさを感じると洒落ではないが生き苦しくなる。その人なりのやり方があっていい。それが一見非効率であったとしても。

 他人に迷惑をかけるのは論外だが、そうでないならば様々なやり方を認めてもよい。それが自分の特権としてあるだけではわがままに過ぎない。他人のやり方を寛容することに世の中を変える鍵があるのだろう。

後半戦の決意

かっこよく走る

 まず、定時退社を目指す。これは逃げではなく切り詰めである。少し前までは、頑張れば得られるものもあった。残念ながら最近は無理が効かない。だから何事も短期決戦だ。やれることを先にやり、それ以上は望まない。これが最近の最適解だ。悔しいが、粘りは効かない。

 年度の後半という意味において何をすべきか、そして何を止めるかを明らかにしたい。これはかなり切実な切り詰めでもあるが身のほどを考えた決断でもある。表現の方法は様々なあるものの要するに何をすればいいのかを納得するための自己啓発である。

 次に結果に関心を持つことだ。短時間勝負ならばその成果が問われる。この評価には耐えなくてはならない。何をやったのか、それが全体の何に寄与するのかは說明する必要がある。このあたりはシビアでありたい。

 長くやって得られることは多い。これまでのやり方はこれだ。失敗しながらも仕事を覚えていく方法だ。しかし、いまはその余裕が持てない。だから、今できる最大のパフォーマンスを目指すがそれ以上は求めない。そういうやり方を目指そうということだ。

 私にはコペルニクス的転回であるがこの歳になって貢献できることはやるべきことを余裕をもってこなすこと以外にない。