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言い当てる

 自分の中に可能性があるとしたらなまだ言語化できていないことに関心を持つことだと考えている。

 自分にはあふれる才能があるなどとは少しも考えていないが、それでもまだできることはあるのではないかなどとかなり楽観的になることもある。そのためには自分の未開拓の側面を知る必要がある。

 ここで言う知るとは言語化のことと考えておく。もっと深層で悟ることもあるかもしれないが、その方面は後まわししよう。自分にできることは何かを手持ちの言葉で探り出す。恐らくできないことに気づいてそれに振り回されるかもしれない。それでもしつこくできることを書き出してみたい。

 同じようなことを多くの人が述べている。私の言っていることはいわば当たり前のことだろう。でもそれを実践できるかどうかは個人差がある。多くの人ができない。それをあえてやってみたい。

なぜ風は吹くのか

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 小説などを読むとき、あらすじを大づかみにとらえて読むのは、一つの方法としてはいいと思う。ただ、単なる事実の因果関係だけを追っていても、作品の世界は理解できないこともある。

 例えば、ストーリーの途中に風が吹くという表現があるとする。風自体は登場人物になんらの作用も及ぼさない。その後の展開にも風が原因で起きることはないとする。こういうときになぜ風の描写があるのかを考えるのが読書の楽しみだろう。

 つまり、作家は何らかの意図をもって場面を設定するということだ。無意味な描写はその意味ではないことになる。なぜ天気が雨なのか、舞台はなぜ港町か、朝の場面がなぜ必要かなど考えてみるとより深い読みができる。もちろん、作家にインタビューでもしたら、気分でそうしたんだなどとはぐらかされるかもしれない。ならばその気分の内容を小説をとおして読者は考えるべきなのだろう。

 小説のあらすじを知ってすべてを理解したようにすること、ビデオを早送りして筋だけ確認する人など、こういう点も考慮してほしいと考える。

まとめる、まるめる

 ものを考えるとき、私は過去の経験から既に獲得しているものの捉え方に当てはめている。これは認知上の基層にあるもので多くの人に共通するはずだ。ただ私の場合はその拘束力がそれほど強くなく、しばしばいきあたりばったりになる。

 いざというときにうろたえることがないように、行動の作法、もしくは型のようなものがあるのだろう。迷いをなくすという点においてこれは大いに意味がある。

 たが、千変万化の事象に対して限られた型に当てはめることには無理があるのは確かだ。詳細をいわばまるめて目につきにくくしている訳だ。厄介なのはまるめられた部分が実は全体の印象に深く関わっている場合、大切なことを見落としてしまうことだろう。

 まとめることは大切で、それがなければ理解できない。理解できなくては何も始まらない。ただ何でも理解しようと大切な部分までまるめてしまうと本質を見失う。

 ときにまとめず、まるめないものの捉え方をする必要を感じる。そのためには何気ない自然の風景をながめたり、抽象的な芸術作品を見たりするのも意味があるのだろう。

 まとめる、まるめる力が知の源泉であるのと同じ意味で、まとめない時間を確保することが大切なのだ。

嵐の予兆なのか

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 個人的な問題を書いておく。前回もそうだったが台風が接近するとどうも体調がおかしくなる。そして夜眠れなくなる現象がある。これはおそらく心身両面に何らかの影響があるからであると勝手に判断している。

 実際の台風はまだ日本の南海上にあり、沖縄に近づきつつある。住まいからはかなり遠い。昨日は陽射がありかなり暑かったが、ときおり大きな雲が通り過ぎた。しかし、まだ悪天候といえるものではなかった。にもかかわらず、軽い頭痛と、抑えられていた秋花粉への反応などが起き、少々つらい一日だったのだ。

 これがよく言う気象痛なのかは分からない。過去にもそういう事例を多く経験しているので、あるいはその例に当てはまるのかもしれない。気圧の変化などが関係しているという。ただそれにはまだ原因となる低気圧(台風)が遠すぎる気もしている。

 もう一つはいつか前も使ったしゃれだが、「気のせい」が原因かもしれない。つまり精神的な要因で一種の思い込みだ。台風が来ると体調が崩れるという過去の経験が何度か続いたため、それが偶然の重なりであっても因果関係を考えるようになってしまったということである。おかしな話だが、こうした条件反射は存在するらしい。

 さしあたって今日はほとんどよく眠れなかった夜を超えて一日をどう過ごすかだ。世の中は連休というが私は仕事がある。そして二連休に入る。今日やっておかなくてはならない仕事を伸ばすとよろしくない事態になる。台風などに負けてはいられない。あるいはこのプレッシャーが台風よりも強いのかもしれない。

生活の中の美

 考古学資料のなかに魅力的な芸術を感じることがある。恐らく作られたときは獲物を狩るか、神に祈るかといった実用的な目的を持っていたはずのものだ。それが例えば展示ケースに並べられると美術品に見えてくる。

 今わたしたちが何気なく使って、意識することなく捨てているのものの中にもそうした美は隠されているに違いない。あまりに日常的だと気がつかなくなる。だからものを粗末に使うようになっていく。

 生活の中に美を見つけるにはときにいつもと違うやり方をするのがいいのかもしれない。見方を変えることによって日々の積み重ねの中に消えてしまった美しさを発見できるはずだ。そういう余裕だけは持っていたい。

捨てること

 整理の苦手な私の言い訳である。盛んに捨てることを奨励し、本来の意味とは異なる断捨離という概念まで当てはめて知的営みを軽視する動きはいつまで続くのだろうか。大量生産、大量消費を美徳としてきた時代が行き詰まったからといって、それを個人の怠慢に帰結していく発想には社会的欺瞞を感じる。

 捨てることを前提としたものの作り方や買い方を改めていかねばならない。使えるものはとことん使う。様々に応用して活用することこそ現代の状況に合っている。そのためにはメンテナンスの手法や経験を蓄積した専門家や、修理が手軽にできるメカニズムの構築などを考えていくべきなのだろう。

 捨てれば片付くという発想は自己欺瞞と社会的損失を拡大するだけだ。

校歌

校歌覚えている?

 卒業した学校の校歌を歌えるだろうか。校歌のことを考えると様々な物語が思い浮かぶ。

 流石に幼稚園に園の歌があったのかは思い出せない。小学生時代は転校を繰り返していたので4校に通ったことになるが、そのうちの1校はどうしても思い出せない。また入学した最初の学校は新設間もなかったらしく校歌がなく、行政自治体の市の歌を歌った。やたらと難しい歌詞と曲、作詞は森鷗外と自覚したのは何年も経ってからだ。

 中学校からは対外試合の応援などで歌ったからよく覚えている。住宅地の小さな学校で残念なほど狭い校庭だった。ここではいろいろな大切な時を過ごしたが、残念なことに廃校になってしまった。校歌には過密都市になる前ののどかな風景が歌われていた。

 元女子校であった高校の校歌は複雑で合唱曲のようだった。通して歌える生徒は多くなかった。それでも、試合の時の応援には声を揃えて歌った。およそ応援には向かない優雅な曲であったが。

 大学の歌は応援歌の方が有名で校歌(正式にはそう言わないが)は知られていない。でも野球の応援などで歌ったのでいまも歌える。

 校歌のことを考えると過去のいろいろを思い出す。ところで卒業した学校がすべて存続している人はどのくらいいるのだろう。その人はかなり幸せだ。

性能の定義

使いやすさを優先したい

 新しいコンピューターを買うとき、いわゆるスペックに拘るのがこれまでの私の考えだった。性能が上がればできることが増える。所有欲も満たす。しかし、そういう高機能は使わないことも多い。

 いま使っている家庭用のラップトップはかつてなら選ばなかったレベルのCPUなのだが、殆ど動画を扱わない私にとってはなんの不自由もない。すごく遅いというレビューは信憑性に欠ける。恐らく何をするかで必要な性能は変わるのだろう。浮いた値段で何か他のことをするほうが実りが多いはずだ。

 如何に使うかということが機器の性能以上に重要であることを確認しておきたい。こだわるべきこととして使いやすさという面を再認識したいということである。

そこに至るまで

 

今に至る道

ものごとの評価をする際についおかしてしまうのがいまあるのものの姿だけで判断するという誤りだ。なんでも簡単に手に入ると考えられる現代は物の価値が下がった。それとともに忘れてしまったことがある。

 目の前にあるモノやコトが今の形になるまでには様々な物語があったのだろう。試行錯誤の末にここにたどり着いたはずだ。中には身を削るような悲劇も含まれていたはずだが、大抵の場合、それは深層にあって見えない。その過程の一つ一つに関わった人への敬意が抜け落ちてしまっている。

 こうしたことに気づくためには歴史を学ぶ必要がある。人や国、地域に歴史があるようにものにも来歴がある。その想像ができてこそ、物事への敬意と、深い意味での批判が可能になるのだと思う。

シナリオのネタ

いま考えている短い演劇のシナリオのことを書く。自分のためのメモだ。

作成中

 この舞台には何かが足りない。足りないことを積極的に利用者する。具体的には観客の想像力だ。ないものを勝手に想像してもらって完成させる。

 例えば大道具などが足りない。これは能舞台のような日本演劇の伝統があるから、客も受け入れる準備ができている。森の中に教室にも、戦場にも天国にもなる。何か象徴的なものを置くだけでいい。

 あるいは役者が足りない。本来配役すべき役者がいない。これは観客に感情移入してもらうことで見えない役者を作り出す。見えない、存在しないから、逆になんでもできる。

 こういうシナリオを書きたい。少しだけ構想はできている。本筋とそれに絡むサイドストーリーとの関係が未完成だ。少しずつ形にしていこう。