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点の風景

May I have the time?

 仮に時間を往来できるものとして過去のある時点に突然移動したとしたらどう思うだろう。かなりの寝不足のまま乗り込んだ長距離移動の電車内で妄想を始めている。

 面倒な想定を重ねることを避けるために、移動した時点で自分自身は移動することはできず、移動先の人やモノとの交渉はできないのものとする。そういう小説を読んだ気がするが、それとは違ってあくまで無作為にタイムスリップすることにする。

 飛んでいった先の風景はどう見えるだろう。過去の世界はどうだろう。例えば昭和の高度成長期の街の風景はたくましくもかなり危ういものに映るはずだ。その先の展開を知っている者にとって過去の風景に飛び込むのは覚悟がいる。懐かしい風俗、流行の言葉、今はなき道具など心惹かれるものであふれているはずだが。携帯、スマホのない時代はもう一度見てみたい気もする。

 未来に飛んだ場合はどうだろう。もしかしたら自分の死後の世界かも知れない。驚くべき光景が展開されている。手持ちの価値観では許されない行動、似ているが意味の違う言葉、不思議な人間関係など様々想像してしまう。未来は経験したことがないので、よいふうにも悪いふうにも妄想の幅が振れる。そしてきっと最後に思う。この世界に私はいないのだと。

 未来はやめよう。行くなら過去だ。それも大昔がいい。世界史で学んだことを実見するのはどうだろう。そういうのは大抵乱暴だから、何もない日常に飛ぶのがいい。止めたいのは最近の過去だ。やり直したいのにやり直せない。こんな地獄はない。

 くだらないことを考えていたら乗り換え駅だ。少し眠気も冷めた。車内の人は相変わらずスマホに操られている。私も駄文を書くのにスクリーンを擦り続けている。他の時代から来た人が混ざっていたら伺いたい。私たち変でしょう? と。

13℃

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 今日の東京の最高気温は13℃だった。数日前まで29℃あったことを考えればすでに別の季節であることは確かだ。しかも今日は雨が降っていた。

 いいこともある。雨の中を大通りを歩いていたら、信号のない横断歩道で両側の車がすぐに止まってくれた。さすがに寒い中を歩く者を無視できなかったのであろう。運転するものに優しさを思い出させた冷たい雨であった。

 明日は小回復するとのこと。すでに夏の思い出は褪せ始めている。いまは先に進むしかあるまい。

人間としての評価

魅力的な人間とは

 よく言われることだがいわゆる知能指数だけでは人間は計れない。学校の試験のような出題者が予め想定する解答がある問題ならば知能がものをいうが、答えのない問題に関してはそれだけでは対応できない。

 最近、学校に行く意味がないという人がいる。一斉教育をしている日本の学校は無意味だという。学力が高い生徒にとっては退屈な授業であり、低い生徒にも逆の意味で無意味だという。

 確かに従来の講義形式の授業であればわざわざ学校で自分にあっていない授業を受けるより、自分にあった問題集を解く方がよほど有益だ。しかし、この考え方は測定可能な学力だけしか考えていない。

 学びには、自己を制御したり、周囲と調和したりする行動も含まれる。自他を学びに向かわせ、利益を共有する力がいるのだ。これを身につけるのは集団の中に身を置く必要がある。

 学校は知識だけではなく、感情や協同の涵養の場にしなくてはならない。知識の伝達ではなく、伝達される知識に意味があり、それを活用するためには一人ではできないことをしなくてはならない、ということに気づかせること。それが学校の存在意義だろう。

 そのためにはまずテストの点数だけで生徒や学生を評価してはならない。もう少し広範の人間性を視野に入れるべきだ。

記憶の怪しさ

 有名なエピソードに「ショッピングモールの迷子」というものがあるらしい。これは人の記憶が如何に危ういものであるかを物語るものだ。

 成人の被験者に家族から聞いたエピソードとして4つの話を聞かせる。実はそのうちの一つのショッピングモールで迷子になったことがあるというのは実験者が勝手に加えたもので、事実ではない。ところが、4つのエピソードをすべて本当の思い出だと思い込んだ人が全体の4分の1に及んだという。

 記憶は過去だけではなく、現在や未来にも影響を及ぼす。記憶として残っていることが行動の規範になることもあるからだ。しかし、ショッピングモールで迷子になったことがない人が、その経験をもとに何を考えたり行動したりすることがあるということになる。この程度のことなら罪はないが、これをたくみに利用すれば他人の記憶を操作できることにもつながる。

 この実験が知られてから、裁判で過去の記憶を証拠として扱うことが慎重になったという。虚偽記憶とか過誤記憶などと分類される様になったのである。人の記憶はかくして曖昧で移ろいやすい。

 そうはいっても、私たちは記憶の中で生きている。もし、一切の記憶がなくなれば世の中は大変ワイルドになる。安心して歩くこともできない。記憶は私たちが生きる支えだ。

 ならば、この曖昧な世界をどう生きてゆけばいいのだろう。まずは自分の記憶を絶対的だと思わないことだ。他人の記憶も同じだ。その脆くも頼らざるを得ないものをなるべく出し合って、折り合いをつけていくしかないのだろう。これは人が生きることの基本なのかもしれない。

大気の入れ替わり

 気象学的には正しくないのかもしれないが、今日空気が入れ替わるようだ。正確には寒気が到来して、季節が進むのだという。

 この時期になると仕事は一段と忙しくなる。いろいろなことに結果が求められ、その多くは達成できずに悩むことになる。そして、それに妥協しながら冬を迎えていく。そういうことを何年も繰り返している。

 短期的には挫折の連続だが、中長期的には確実に何かを達成できているはずだ。そうでなければ今の自分はないはずなのに、つい今日の失敗ばかりが気になってしまう。

 季節が変わるのはあるいは大切なことなのかもしれない。時間の進行が意識できるし、確実に次の場面に進行したと自覚できる。うろたえることなく前を向くことにしよう。

後押し

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 小学校や中学校の頃の記憶は実はかなり薄れている。自分が中学校の関係者であるにもかかわらず、自らの中学生活は印象が薄い。でも、今でも覚えているのは自分を後押ししてくれた仲間や教員だ。

 人間の記憶というものは残念ながらあてにならない。昨日の朝食のメニューを思い出せないのは決して脳に異常があるわけでない。覚える価値を見出さないものはすぐに忘れるし、忘れたくないこともいずれは消え去ってしまう。これは紙に書いてもビデオにとっても同じだ。記録してもその時の気持ちは消え、記録の読者にしかなれない。

 でも、自分のことを助けてくれたという記憶はなぜが残る。詳細は忘れてしまうが、深い情動というか気持ちの流れというものがいつまでも再現できることがある。私たちの記憶というのはそういうものなのかもしれない。

 教員などをすると、人のためになることをしたいという甘い夢を持つ。知識を授けることで進路を開拓できる力を授けることを目的にする。それも正しいが、勉強は結局は自力で行うものであり、どんなに名講義をする先生に習っても自分で学習しなければ分かったつもりにしかなれない。大事なのは何かに立ち向かうことを後押ししてくれる存在だ。教員でなくてもこれはできるが、教員はそれを職業的にやりやすい立場にある。さらに生徒の皆さんも受け入れやすい。道端の他人よりはアドバイスはしやすいという意味である。

 ならば私たちの仕事はやる気をおこし、困難に立ち向かう勇気を与えることや、失敗したときにそれでもいいのだと慰めることが第一だということになる。私自身、消えた小中学校の思い出の中で、自分を救ってくれた人たちのことは覚えている。中には名前を思い出せない友もいるが、確かに彼らのおかげで今の自分がある。

代弁者

Who is your leader?

 いわゆるオピニオンリーダーという存在が不在になっている今、それでも人は自分の代弁者を探そうとしている。それがどんなに怪しい存在でも自らが代弁者と認めれば、小異は省みられなくなる。これは少し危険だ。

 不安定で不透明な時代にあり、しかも閉塞感が漂う。自分の努力はなかなか報われず、あくせく考えるより、気の利いた発言ができる相手に同調してしまう。そういう状況にいまはある。本当にその人の発言は適切なのか。その発言の背景にあるものはなにかといった基礎的な手続きを飛ばし、巧言令色に飛びついてしまう。

 情報社会はこうしたまやかしを排除できるはずだった。適当な発言をしてもすぐに嘘が露呈するはずだ。しかし、実際はそうではない。情報の洪水の中で個々の見解を吟味することはなくなり、手っ取り早く理解できるコメントを信じ込んでしまう。

 こうした事態はかなり危険だ。心地よい表現はしばしば毒を含んでいる。その時は良くてもそれが蓄積すると社会悪に転じる。独裁者のような存在を生み出した時代はいつもそうだった。現代はそれに近いのかもしれない。

 不器用だが自分で考える人をもっと称えるべきだ。メディアで発言の多い人物の発言を疑うべきだろう。気の利いた発言を繰り返す人物はきっと何か裏がある。彼らは言論で商売しているタレントであることを忘れてはならないだろう。

ゆがんだ地図

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 メルカトル図法で描かれた地図は面積や方向が実際とは大きく異なる。グリーンランドはオーストラリアよりはるかに小さいし、南極は草むらのようにつながってはいない。何かを見るときに何を中心に考えるかによって全く異なって見えてしまうということを地図は教えてくれる。

 ロシアはウクライナの一部の州を住民投票の結果を生かして併合すると言っている。占領しておいてその地の住民に投票をさせるという似非民主主義はどう考えても通用しない。たとえば日本に某国が侵略して、この県の住民をあらかた追い出した後に、残った人たちに日本に残るか、それとも自分たちの仲間になるのかと聞いているという風に置き直してみるといい。

 こんな理不尽なことがまかり通るのはロシア、少なくともその為政者が持っている地図はゆがんでいるのだろう。本来ロシアの領土であるべき場所が、こころならずも他国によって支配されている。その不正をただすのだと。私たちの持っている地図とはかなり違う図法で描かれている地図を持っているようなのだ。

 これはこの地域の戦争のことだけではなく、人生の様々な方面で現れる。違う地図を持っている者同士が共存するにはどうすればいいのだろう。それを考えていくべきだ。もしかしたら相手の地図を非難するだけでは目的は達成できないのかもしれない。

集中できる場所

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 このブログの名前は架空の別荘にしかも書斎があるという想定でつけた。実際の住宅環境は恥ずかしくて言えない。読書するとき、何かを考えるとき、ものを書くときには集中できる場所がほしい。それが自宅にある人は幸せだ。そうではない場合どうすればいいのだろう。

 職場はいそがしく、しかも仕事の山で気が滅入るばかりで落ち着いて本も読めない。帰りのコーヒーショップなどで試みることもあるが、隣の客がおしゃべりだった場合は目的を達成できない。もっと強敵なのが無駄ににぎやかなBGMだ。こどもが多い店は対象外だ。こどもには高校生も含む。レンタルオフィスのようなところはいい。ただ、いちいち金がかかると気軽には使えない。

 図書館はあらゆる意味でいい。静かだし本もある。ただ、パソコンを開くのは気兼ねがするし、打鍵音も気にしてしまう。以前にも書いたスマホとBluetooth接続するキーボードは音がほとんどしないのでこれを使うことは多い。

 ただ、図書館も開館時間が短かったり、閲覧席がすぐにいっぱいになったりするので万能というわけではない。結果としてたどり着いたのが、駅の周辺のベンチである。人通りは多いが、立ち止まる人は少なくおしゃべりに邪魔されることは少ない。基本的にあまり座っている人はいないので座席確保は容易だ。屋根があるところでは全天候型となる。これは少ないが。そして、文字通りのラップトップにすればコンピュータも使える。机のある席が確保できれば、100円ショップで手に入れたスマホ立てと先の携帯キーボードの組み合わせで入力装置が完成する。

 というふうに最近は駅周辺のベンチやテラス席のようなところで隙間時間を過ごすことが増えている。真のノマドワーカーだ。しかも低予算型、低機能型の部類である。この方法を実践するために最も必要なコンピテンシーは「忍耐力」と「恥ずかしがらない力」だろう。

読書感想文のすすめ

感想文は嫌な思い出?

 意味のない宿題の代名詞とも言えるのが読書感想文である。無駄であり、害悪だと難ずる人もいる。だが、私は敢えて読書感想文を勧めたい。特に大人に。

 読書感想文が宿題であるのは確かに問題だ。宿題ともなれば他者と共有される品質が要求され、評価されることを意識してしまう。ただ、感想というのは極めて個人的なものであり、どうあるべきかという基準などない。科学的評論を読んでロマンを感じる人もいれば、ミステリーに哲学を感じる人もいていい。感想に正解はない。

 読書するときに何を感じたのかを書き残すのは意味がある。まとまった文にならなければ断片的なメモでいいと思う。何を感じるかは読書のタイミングによっても変わるはずだ。そもそも自分自身が心身ともに刻々と変化しているのだから。

 何を感じたのかをあとから見直すことも意味がある。自分の変化も分かる。大切なのは素直に自分の言葉で書くことだろう。とんでもない誤読をしている可能性もあるがそれも含めて読書感想文に書いておくとよい。

 私の場合は野帳にメモのような感想を書くことにしている。かつては一字一句正確に書き写して引用していたが、いまは自分の言葉でまとめ直している。肝心の機微情報は削ぎ落とすことになるが、自分が感じ取ったことだけでも残せば意味があるのではないかと考えている。