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やる気を引き出す

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 すでに何度も記しているように私の仕事はやる気を引き出すことに尽きる。実際に学習するのは生徒諸君であり、教師が教えたつもりになったとしても、表面的な短期記憶を賑わすだけで賞味期限は短い。

 食べ物の譬えを続けるのなら、うまい料理を提供するのではなく、その料理の作り方を教えなくてはならない。自分で再現できなれば学習の効果は十分とは言えないのだ。料理をすることの楽しさを教え、上手にできたときの達成感を自覚させる。これがもっとも大事な任務なのであろう。

 言うは易し。実際に現場に立ってみると料理を提供することは簡単だが、厨房の外にいる生徒を呼び寄せ、いかに調理が楽しいかを伝えるのは難しい。面倒なことをせずに自分が結果を提供し、それを覚えされる方が楽だ。しかし、くりかえすが大切なのは提供された料理ではない。その料理を作る能力だ。

 私はやる気を引き出す方法をいろいろ考えている。テクニックはいろいろあるが、その根本は学ぶことの面白さと真剣にまた謙虚になることの快感を教えることなのだと考えている。自ら学び、その思いが純粋であるほど効率的に学習ができる。それを教えることが私の仕事と心得ている。

マルチタスクできない

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 一度にいろいろなことをこなせる人をかつては聖徳太子の能力に例えた。確か七つの話を同時に聞いて対応できたとかいう。根拠がある話ではない。聖徳太子伝説は様々あるが、異能譚の一つであろう。最近は7つくらいでは収まらない。コンピュータの出現でマルチタスクは当たり前となってしまった。

 しかし、いくら高性能のコンピュータが普及したとはいえ、それを操作する生身の頭はそれほど高性能ではない。特に私のような旧型はすでにかなりがたが来ている。パソコンを操作していて困るのは違うウインドウなりタブに移った瞬間にこれまでやっていたことを忘れてしまうことだ。これはいかんともし難い。それだけではない。通知が来たり、たまたま間違ったタブを開いたときに気が散って別のことを始めたりすると、もう前のことが進まなくなる。注意散漫というより、分裂しているといった感じのありさまだ。

 少なくとも私はマルチタスクには全く向かない。一つ一つを愚直にこなして何とか人並みにそろえるのが関の山のようだ。それなのにパソコンを使うたびに先に述べた罠にはまる。これは精神衛生上とてもよくない。私の疲労の原因のかなりの割合にこの問題があるような気がする。

まねぶ

何を学ぶ?

 学ぶという言葉の語源説明に真似ぶから転じたという説がある。言語学的にどうなのかは検証する価値があるが、民間語源説としては有名であり、かなりの影響力を持っている。この考え方は再評価されるべきではないか。

 真似が単なるコピーというのなら、やはりもう時代には合わない。複製の技術は恐ろしく進歩した。知の分野においてもただ同じことを繰り返すだけならばコンピューターの方が完璧にこなす。どうも真似するのは内容ではないらしい。

 最近、成功体験者の学習法を紹介する書籍がよく読まれているようだ。あの大学に入学した人はこのようにふるまったとか、何を読んだとか、どうノートを作っているとか。そういうやり方への関心が高まっている。

 はっきり言ってこうすれば東大に入れるといったノウハウとしてその手の本を読むことには疑問を感じる。例えば、こんなにきれいにノートをとっていますよ、とか、レイアウトはこうするのが一流大学の方式ですといった類である。汚いノートでも優秀な人はいくらでもいるし、手帳の作り方も人それぞれでいい。

 大切なのは考える際に何を重視し、どのような手順で考えているかなのだろう。ノートに関して言えば書き方はどうであれ、自分なりのまとめや、何に使えるかといったメモを付加している人は概して優秀だ。自分の考えを言語化しているからだろう。

 こういう学習に対する態度は参考にすべきだろう。何をしたかではなく、何を意識しどう振る舞うかを真似るべきなのだ。ここで古典的な芸能や武芸に伝わる師弟の関係を再考したい。なんのためにそんなことをするのか理解しないまま、ひたすら師匠のまねをし、その意味がようやく分かったときには師匠の域に達していたり、超越していたりする。この説明不可能の行動の裏には学ぶことの奥義が隠されているのかもしれない。

 この考えを現代に置き換えるならば、学習とは決して情報の伝達でも、処理の手順でもなく、学びに対する意識や態度に関わるということになる。教育の方法もこれを踏まえたものにしなければなるまい。

下がったときこそ

 株式投資では下がり相場でこそ買いを発動すべきだという。下がったものはいずれ上がる。安く買って高く売るチャンスだというのだ。まったくその通りだと思うが世の中が不景気に向かう中で株を買うのは勇気がいる。余裕資金があるものがさらに利益を得るというのは何とも皮肉なものだ。

 株の話は門外漢なのでここまでにして、メンタルの下降局面でも同じことが言える。落ち込んだときこそ次なる好調の準備だと考えるべきだ。飛び上がるためには一旦かがまなければならない。いまはその状態なのだと割り切ることが大切だ。

 このブログを続けてお読みいただいてくださっている方はお気づきのはずだが、文章の多くは自分を励ますために書いている。現実は厳しいがなんとか乗り越えられると文字にすることで予祝のように自分に暗示をかけようとしているのだ。

 私と同じように不器用な人のためにももしかしたら役に立てるかもしれない。下がったときこそ次の飛躍の機会が近いと考えよう。

非効率的習慣

 おそらく無駄なことをしていると思われるかもしれない。ただ、自分にはこれがあっているようだ。笑われても続けるしかない。

 コンビニで売っているリング式の小さなメモ帳にやるべきことを書き出すことにした。いわゆるトゥードゥーリストである。これを持ち歩く。職場についたらスタンド様のものに立てかける。プライベートな用件は自分しか分からない略語や記号で書く。解読される可能性もあるが、おそらくそこまで私に興味がある人はいないだろう。

 百均で買った手帳には少し長期の予定を書いている。使うのは月間予定のページだ。

 デジタルにも入れる。予定はグーグルカレンダーやタスクに入力する。分量があるものや長期的に残したいものはOneNoteに入れる。これだけで結構なルーティンだ。

 さらにルーズリーフ式のノートに要点を書く。これは会議メモも兼用のいわゆるバレットジャーナルである。

 このように予定を管理するだけでいろいろなことをしている。無駄なことをしているがこうすることで私の場合はようやく納得できるのだ。

日光浴

Hello, sunshine.

 シニア世代に欠かせないものとして日光浴があるらしい。脳の機能低下は加齢の現象の一つとして仕方がないことだが、その予防、もしくは緩慢化のための方策として日光を浴びるということがあるそうなのだ。

 私はいまは通勤のために朝に日光を浴びる生活をしている。でも、すぐに電車に乗ってしまうので、実際に日光浴をしている時間は限られている。職場に着いてしまえば照明の中で生活している。

 退職した後はどうなるのだろう。しばらくはバイトをして食いつなぐつもりだが、それもできなくなれば悠々自適と言う名の中途半端な生活が始まる。先輩はサンデー毎日だと笑っていたが、笑えるうちはまだいい。私の場合は仕事をしない人生は耐えられないだろう。金になるか否かは別にして何かをやり続けたい。この辺はおそらく醜態を晒すことになること必定である。

 さて、その中で日光を浴びる生活はいつまで続けられるのだろう。自分の身体は特に丈夫でもないし。年齢相応の諸問題を抱えている。だから、いつかは立てなくなるだろう。問題は脳の老化だ。脳は感情の制御に関与するので厄介だ。いつまで正気を保てるのか。実はこれが一番の問題である。

私には長寿願望はない。ただ、晩年に他人に迷惑をかけたくないという思いは強い。自分の親のことを考えると、医師とは無関係に他者に迷惑をかけてしまうのが人間の性らしい。それをなんとか最小限にしたい。そのためにも日光浴はしていこうと考えている。

価値の再確認

こんないい時計でなくても

 新しいものが好きなのは変わりがない。どう批判されようと高機能や独自のギミックには惹かれる。使うことがないにしてもそういうものを持っているというだけで満足感を覚える。そういう人は多いだろう。私もそうだ。

 しかし、悔しいが何でも揃えてはいられない。経済的にも保管場所も、そして私自身の能力の余裕も。それらがすべて足りなくなっている。

 こういうときは発想の転換をして納得することにしよう。敢えて昔の商品に価値を見出していこうという作戦だ。使い古しているものの価値を再発見するのである。ただ見つけるだけではなく言葉にしていくことが大事だ。魅力的な説明を考える。

 例えば私は一万円に満たないソーラー電波腕時計を使っている。もう10年近くほとんど毎日使っている。目立った機能はない。この機種としてはほぼ最低スペックだ。表面がプラスチックなので細かい傷がつきやすい。これは磨き粉を使うと消えることが分かったので一旦は消したがまた付きはじめている。

 こういう中古の時計を再評価したい。まず壊れないことは何よりもいい。機能が少ないということは壊れる可能性が低いということだ。電池交換もせず動き続けているのは素晴らしい。時刻補正もする。なぜか月に一度か二度しか電波を拾わないが、時刻合わせはそれで十分だ。表面の傷はそれがもたらす使用感がいい雰囲気を醸し出している。自分の成長を見守っているかのようだ。耐えられなくなったら磨き粉で拭けばいい。あっさりと傷は消える。柔らかいのもいいものだ。スマートウオッチのようにメールの着信通知は来ない。バイタルチェックもできない。それは余計なことに気を取られる心配がないということだ。

 こんなふうに考えてみればいま使っている時計も満更でもない気がしてくる。アップルとかグーグルの時計など何になろう。物の価値は見方次第だ。いくらでも変わる。

誰が縛っているのか

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 中国では言論統制がなされているとはよく報じられる。特定のニュースが意図的に報じられないとか、ネット検索ができない用語があるといかいうことだ。しかし、このインターネットが普及し、人々の国際的な往来が活発なグローバル社会においてその程度で統制などできるのか。いつも疑問に思っている。

 習近平国家主席の異例の長期政権の中で、言論統制が進行しているといわれる。しかし、日本を含めて海外に渡航する中国人は多い。また高学歴かつ、高度な技術力をもった人材も多数存在している。かれらが統制や検閲の存在を知らないはずはなく、実際に海外で目にしたことが中国の国内での知識と相違することなどすぐに分かるはずだ。それなのになぜ統制が効いているのだろう。

 為政者による技術的な情報統制には限界がある。処罰を重くしたところでいずれは破綻する。なのにそれがいつまでも進行しているのは、縛っているのが政府ではなく、国民自身だからなのだろう。つまり、自分自身のアンテナをへし折り、聞こえないふりをすることで海外の影響を食い止めているのだろう。その下地は教育にあるのかもしれないし、政府の意向にそって生活をするものが社会的成功をおさめ、反するものの陰惨な結末をいくつも目にし、耳にしているからかもしれない。縛っているのは自分自身なのではないか。

 中国のことを想像で言ったが、これは日本人にも言えることだ。言論の統制などないと思っているが、さまざまな不文律はあると言われている。これが注意深く意識から外される。自由に発言しているかのように見えて、その枠組みのなかで思考し行動する。はみ出すことを自主規制しているのかもしれない。

 言論の統制というものは意外にも簡単に達成できることになる。何が原因で人は口を閉ざすのか。目の前の異常事態を見逃すのか、政府の圧力という単純な判断では本質は見えない。

You can’t miss it.

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 外国人の入国者が急増しているようだ。水際対策を緩和したことで日本はお安くお得な観光地になった。何度も書くが外国人の立場になれば今がチャンスだ。自国のインフレの影響が生活を苦しめる前に日本で憂さ晴らしをしておこう。

 そんなわけで外国人に道案内をする機会も増えるかもしれない。最も最近は英語ができる日本人は増えているので大丈夫だと思うが、私はちょっとおぼつかない。いや大分不安だ。英語は長い間学んできたが、話す方は特にできない。いろいろな人に聞いてみると、会話力は実際に話す機会がないとつかないという。いくら本で学習しても実際に話す機会がなければ習得はできないというのだ。逆に書けなくても文法が分からなくてもとにかく話せるという人はいる。確かに日本語の文法を理解して日本語を話している人などごく少数だ。

 道案内をした後の決まり文句がYou can’t miss it.であることは知っている。そこまで案内ができるだろうか。自分のミスの方が心配になっている。

母親役

 人のことは分かるが自分のことは分からないということはよくある。私の場合、自分の年齢についてかなりごまかしている。本当は体のあちらこちらにガタが来ているのに、それほど変わっていないかのようにふるまい、実際に自分の年齢に関する自覚が足りないことがある。

 そんな甘い認識が時々破られる。例えば自分と同い年という人の姿を見たとき、その老け具合に驚くのだ。自分はそうではあるまいなどと思っても、むしろその人の方が健康的であったりする。若いころアイドル的な存在だった女優が、老け顔になり母親役などをやっているのをみたときはショックは大きい。確か自分より若かったはずなのに立派なおばさんではないか。などと思うが自分はその上のおじさんであることを棚に上げてしまう。

 容貌が衰えるのは仕方がない。加齢とはそういうものも含む。ただ、若いころの美意識とは異なる別の美しさがあることにようやく気付いてきている。