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年賀状の準備

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 年賀状の印刷の受付を知らせる広告が出始めた。印刷されたはがきもすでに店頭に並び始めている。今年はどうしようか。

 虚礼だなどといわれて減り、ネットの普及とともに年賀状は過去の遺物になりつつある。それでも実物のもつ意味は消えないはずで、本当に挨拶をしたい相手にはやはり紙のはがきがいい。本当は手紙の方がもっといいが、さしあたり安否を伝えるだけでいいのならばはがきがいいのだ。

 私はあまり多くの枚数を出さないかわりに、すべて手書きで行ってきた。しかし、今年はどうしよう。もう出さないという手もあるし、印刷してとにかく送ってしまうという手もある。日々疎くなりつつある旧知の人々に、せめてまだ生きていることを伝えることで、自分自身の存在理由を確かめられるのなら、やはり出しておこうか。

 悩んでいる。

第三希望

 時々思い出してはとらわれてしまう感慨がある。今自分がやっていることは本当にやりたいことではなかった。第二希望ですらないと。せんなき思いが心をしばりつける。

 詳しく言えば第三希望でもない今の状態を嘆くのはたやすい。人生は上手く行かず残酷でさえある。ネガティブな思考は下に伸びる螺旋階段を進み始めてしまう。そんなときは無理にでも思考のあり方を変えるしかない。

 科学の理論によれば世界は絶えず分岐して様々なな世界が存在する可能性があるという。理屈では分かるが納得はできない考え方だ。でも、仮にそうだとすればもしかしたら別の世界には第一志望を叶えた自分が生きているかもしれない。

 彼が本当に幸せだろうか。満足度の高い日々を過ごしているのだろうか。その可能性もあるが、正反対のことも考えられる。それを選んだために起きる悲劇があるのかもしれない。第二希望を叶えた自分もそうだ。何があるのか分からない。

 第n希望を生きる今の自分がまったく不幸かと言えばそうではないことは確かだ。何がよくて悪いかなど分かりはしない。できるのはいまの第n希望の人生を精一杯生きるしかないのだ。

 こういう思考のループをしているうちに降りる駅が来る。やらなくてはならない仕事が締め切りを迎える。どうしようもない私を頼りにしてくれる人がいる。ここで迷いは一旦隠れる。また思い出すまで。

不注意

 注意書きがあるのを読まなかったのかと叱責されたことは少なからずある。後から考えるとなぜこんなに大きく書いてあったのに気づかなかったのかと思う。これはなぜなのだろう。

 おそらく、もっともだめな反省法は自分の気が緩んでいたからという考え方なのだろう。精神論に持ち込むともう何も言えない。これは人に助言するときも同じだ。できないのはお前のせいだと言っているのと同じだ。存在を否定する人は自分自身もそのまま否定される可能性が高い。

 ならば、どうすればいいのか。まずは認知の手順を考えるべきだろう。私たちは何かをするときに過去の経験をもとにする。だから、新しい手順が加わると緊張し、混乱する。その方法を確認すればいい。確認の手順をルーティンとして捉えるべきだ。

 目の前に見えていても気づかないことがあるということを前提にして、確認の作法を型として意識して繰り返すのがいいのだろう。

他人事ではなく

 ASDやADHDの人への接し方を述べる文章を読んで気づくのは、他人事ではないということだ。

 いわゆる発達障害と呼ばれるものの多くはスペクトラムという状態で現れるという。どこからが障害でどこからが正常といった区分はなく、連続体で続いている。だから、私自身にもそのような現象があり、これを正常とみなすか否かは相対的なものなのだ。むしろ個性の一部に名前がついたものとも言えそうだ。

 それぞれの症状で対処法は異なる。共通するのはやり方をはっきりと示し、臨機応変を強要しないことらしい。強い症状を持つ人の中には集中できるものがあり、邪魔が入らなければ素晴らしい才能を発揮する場合があるということだ。高学歴の人に発達障害に分類される人が一定の割合で存在するのは、その力を上手く利用できたからだろう。

 これに該当する人への接し方のコツを書いた文章を読むとそのまま自分への処方箋のように思えてくる。まずはセルフカウンセリングから始めることにしよう。

最終目的から

 物事を考えるとき、結局それがどこに行きつけばいいのかという最終目的をまず考えるべきだ。いろいろな夾雑物があっても、結局何がしたいのかを整理すれば様々な迷いは消えるかもしれない。

 複雑でわかりにくい世界の中にいると、その詳細の対応にすっかり疲れてしまう。あれこれ悩むうちに本当に大切な目標に向かう推進力が損なわれ、挫折してしまうことも多い。あるいは迷走して本来の目的がなんだか分からなくなる。私たちの毎日というのはこのようなものだ。

 最終的にどの場所にたどり着けばいいのか。それを想像してから、今いる場所からの道筋を考える。途中のストーリーは考えない。目標地点から現在地までの道筋を時間を逆にして考える。それができればもう目標は達成間近だ。たいていの場合、目標地点が分からず、そもそもこのような考え方ができない。あるいはできたとしても、途中にある様々な要素に翻弄されて本来の目的を見失ってしまうことになる。

 ものの考え方には器用な方法と不器用なやり方とがある。私の場合、主に後者の積み重ねで生きてきた。しかし、時にはうまくやりたいという気持ちになる。その時には目的から逆算するという発想を思い出したい。

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次の月食

次に見られるのはいつ?

 明日、皆既月食になるという。晴れればちょうどいい時間に見られる。星の重なりが生み出す現象に過ぎないと知っても気になるものである。

 月食は比較的頻繁にある現象だが、それでも見られる偶然は嬉しいものだ。小学生のころ、東京で見られる日食や月食のデータを見て、2000年代は遠い未来だと思っていた。その頃自分はどのような生活をしているのだろう。果たして生きているのだろうかなどと漠然と考えていた

 その2000年はとうに過ぎ、さらに22年も過ぎている。残念ながら博士にも大臣にもなれていない。日々の生活に満足できていない己がある。逆に言えば何とか生きていて、ブログを書けるだけの生活はできている。これは幸せということなのだろう。

 日食や月食があると次の機会はいつなのかが気になる。恐らくその時までは生きていないだろうと溜め息をつき、いやそれでいいのだと考えたりする。

世代想像力

 思いやりという言葉の指す範囲は広範だ。残念ながら私達には基本的に他人の感情を理解する能力はない。ただそうではないかと想像するだけだ。

 年齢の違う相手への想像はさらに難しい。子どもの頃、大人たちの考えが理解できず、大人になると子どものことが分からなくなる。自分も子どもだったはずなのになぜか理解ができない。

 老齢の方々のことも理解が届かない。どうしてそういう行動を取るのか、なぜそのようなことを言うのか。理解が一つ一つ止まってしまう。認知症などの身体的要因もあるが、そういう障害がない人でもどうしても分からないことがある。

 こういうときに働かせなくてはならないのが想像力だ。子どもは、老人はこう考えているのかもしれないという可能性をどれだけ思いつけるか。その中の蓋然性をどれだけ忍耐強く考えられるのか。それしかない。

 人は変わりゆくもの。そしてその変化は決して外観や身体能力だけではないということを再考したい。

比喩

 だれでも使う修辞に比喩がある。修辞といったが多くの人にそういう意識はない。ごく自然に使う。「ような」などの語を用いる直喩は日常的な表現方法だ。私たちが比喩を使うのはなぜか。使うことにどのような意味があるのだろうか。

 比喩にもいろいろな種類があるが、最も分かりやすい直喩は例えるものと例えられるものが明示的に分かる。この例えるものと、例えられるものの関係を考えてみよう。例えるものは発言者にとって身近なものであり、何かを述べるときの基準になりえる。対して例えられるものはその正体が不明確なこともあり、それを例えるものを使って説明使用していると言える。

 別の表現をすれば既知の事実を使って未知の事実を説明するときに使われるのが比喩ということになる。例える材料が多い人はこの手法をふんだんに使うことができ、表現を深めることができることになる。自分の知っている事実を使って、未知の事実を説明するための手段ということになる。

 ならばこの比喩の方法をうまく使いこなすためには、自らが様々な経験を積み、人々の共通体験を知ることが必要だ。これは実はとても大切だと思う。これからの話し方にこの見識を生かしたい。

海を見ること

 波打ち際で海を見ることにはそれなりの価値があると思う。なぜ波が起こるのか。波のエネルギーはどこから生まれどこに消えるのか。それを思うだけで静かな気持ちになれる。

 日常の様々なことが些事と考えられるのは海があるからだ。海が遠い人は夜空を仰ぐといい。私たちは自分の存在の小ささを知り謙虚な気持ちになれる。

 あらゆる誘惑や疑惑、欺瞞、悪意その他のマイナスな感情を海に放とう。空に投げよう。海は、空はそれを受け容れてくれるはずだ。

懐かしい曲

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 ネットラジオから昔聴いて感動し何度も聞いた曲が流れてきた。久しぶりに聞くと確かにいい曲だと思うが新しい発見もある。

 流行歌ということばがあるが、流行にはいくつかの要因がある。楽曲のよさはもちろんだが、それに加えて聴く側の環境、時代、世相などの要因が絡む。世間的な流行はなくても個人的に魅了される歌というものもある。それも、聞く側の問題が大きく関与している。だから、自分の要因が変わってしまうと聞こえ方も変わってくるということになる。

 昔聞いていた曲は概して単純で素直なものが多い。メッセージが分かりやすい。メロディーラインも素直だ。それでも十分にドラマチックであり、叙情的だ。そこに惹かれたということだけは思い出せる。しかし、なぜ妄信的にのめり込んだのかよく分からない。それが楽曲なのだろう。