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自己暗示

 色々な本に書かれていたり、スポーツの選手やコーチが言う言葉に自己暗示の大切さがある。苦しいときこそ笑顔を作れ、作り笑いが本当の幸せをもたらすことがあるというのだ。

 最近はこれを精神論ではなく脳科学の観点から説明する人もいる。ポジティブな行動をすると脳が活性化し、上手くいくことが多いのだという。かつては歯を食いしばって頑張れと言っていた野球の監督が、いまは無理にでも笑えという。事実優勝するチームの多くはチームに明るい雰囲気がある。

 自己暗示とは自分を意図的に騙すことに他ならない。そしてどうも人間は騙されやすいらしい。自己暗示は効果的に使うべきだ。また教育おいてはほどよい自己暗示の方法を教えるべきなのだろう。

非現実的現実

 私たちが生きている世界は限りなく偶然の積み重ねでカオスなもののはずだ。同じことは二度と起きない。同じものには二度とめぐりあえない。それなのに、この現実を巧みに忘れる方法を知っている。

 二度とない現実をあたかも繰り返しのように考えることができるのは、一つの叡智である。尖っている詳細を削り落として、別のものを同じものとしてしまう。それを無意識で行えるのは進化の過程で獲得した生きるための戦略なのだろう。

 適度な鈍さは大事だ。あまりにも先鋭化すると不自由でたまらなくなる。いい加減は無責任ではなく、変化の多い毎日を生きるためのスキルなのだろう。

相づち

What’s up?

 一見意味のない相づちがある。うんとかああとか、そうだねとか。私はそういうのが苦手で随分相手を不快にすることがある。

 What’s up? もその類という。疑問の形を取っているが答えなくてもよく、鸚鵡返しに言うことも許される。もっとも軽い安否の確認の方法で、存在を意識させることだけで事足りるらしい。やあとかよっとか、そんなものに近いという。

 意味がないわけではない。人間関係の始まりを意識させるきっかけであり、自他を認めることの重要な役目だ。私がこれが苦手なのは、いまだに適度な人間関係における距離感が掴めていないからだろう。

 相づちは適当な量がある。やたらと打てばいいというわけでもない。多すぎるとかえって無理に聞いているような雰囲気を相手に与えてしまうそうだ。確かに聞きたくない話を遮るための相づちはある。もういいです。分かりましたと言わんばかりに首を振るのも同じ効果がある。

 相づちは重要なコミュニケーションの手段であるのにも関わらず、誰かに教えられるということはない。経験の中で適度な方法と量を獲得していく。リアルな人間関係を築く機会が減った世代はどのように相づちを覚えるのだろう。まさか安易にいいね! と言って、大きな誤解を生み出してはいないだろうか。

睡眠儀式

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 最近は疲労度が大きいのに眠れないときが多い。いびきをかいてしまうなどの眠りの質も問題だ。ここ数か月、私が心がけている睡眠儀式が「眠れる音楽」を聴くことである。

 YouTubeには睡眠導入の音楽と称するものがたくさんある。何分で眠れるという題名のものもあって面白い。ただ、ほとんどが数時間の尺をもっており、中には12時間近い長さのものもある。これは一晩中流していてもいいということなのだろう。

 私の場合はこうしたチャンネルから適当な音楽を流し、パソコンの蓋を閉じてイヤホンで聴く。横になってイヤホンから流れている単調な音楽を聴いているうちに眠れるというわけである。寝た後は耳からイヤホンが自然にはずれるので音楽に起こされる心配はない。

 これが私の睡眠儀式である。かつては飲酒などで無理やり寝たが、浅い眠りになり疲労回復にはならない。音楽療法(?)の方が私には向いている。今日もまもなく睡眠の時間だ。イヤホンの音量を微弱にして聴き入ることにしよう。

 

悲愴ソナタ

 ベートーヴェンのピアノソナタ第8番悲愴を最近よく聞き直している。第2楽章の甘美なメロディは特に有名だ。カンタービレの指示があるように演奏者の個性が出やすくそれも興味深い。

 音楽史的には激動の時代を生きたベートーヴェンの精神的な側面が反映されているという。悲愴というタイトルだが、なぜか力を感じるところもある。悲嘆に打ちひしがれるような状況の中にあってなんとか立ち直ろうとする人間の強さも表現されている。

 最近この音楽が心にしみるようになったのはやはり、周囲の状況があまりにも難しく、漠然とした不安が横溢しているからだろう。逆風をまともに受けながらそれでも前に進む姿をこの楽曲に幻想しようとする自分がいる。

感謝

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 明日は勤労感謝の日だ。起源的には新嘗祭が関係する。その年にとれた作物に対する収穫感謝の祭日が、天皇制と結びついて発展して宮廷行事となったものである。天神地祇にまつる行事というが、実際には穀物を育てた人々の営みに対する賞賛と感謝の日であった。

 今日では勤労は多様化していろいろなことが仕事になっている。ここ数年でまたいろいろな仕事が生まれた。その一方で消えてなくなる仕事もある。やがてなくなるであろう仕事もあると感じている。コンピュータの驚異的な発展により、人間の仕事は軽減し、さらになくなっていくものもある。かつては教員はなにがあってもなくならない仕事だと言われていたが、最近はそれを言う人は少ない。

 仕事ができることにまず感謝しなくてはならない。働いて給料をもらえること、家族の生活を支えることができるという事実はなによりも幸福だ。働かずに楽をしていきたいという人もいるが、私は働ける限り働きたい。それが誰かのためになっていると実感できるならなおよい。

 先に述べたように仕事をコンピュータに奪われる可能性がある。その前に国際的な競争に敗れて職を失う可能性も大きい。それらがクリアされても、自分自身の能力が足りなかったり、加齢による限界も見えてくる。いろいろあるなかで働けることにまずは感謝したい。

ピンぼけ

 ピントがぼけた写真を見ると可能性を感じることがある。ピントをぼかせば新しいものが見えるかもしれないと。

 最近は目の筋肉の衰えがはなはだしく、いろいろなものが見にくい。いわゆるピンボケの状況がしばしばある。こういう時、無意識のうちに現状を改善しようとして焦りを覚える。でもこのピンボケ状態を記憶することができたら、新しい世界を見つけることができるのかもしれないなどとおかしなことを考えるようになった。

 その状況にしか見えない風景がある。それは異常ではなく、特殊で貴重な経験なのかもしれない。そう考えれば、いまの状況を嘆くばかりではいけない。

体力は大事

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 この歳になって思うのはやはり体力は大事ということだ。頭と体は関係ないとか、首から上と下では別の話などと言っていた先輩のことを思い出すが、やはりそれは間違っている。脳も体の一部であり体力は必要なのだ。

 アスリートのような身体能力は必要ではなくても、ちょっとくらい無理ができるような体力はやはり必要だ。深く考えるときには体力がいる。集中してものを考えるときにはいろいろな体内の組織が活動しているのだ。だから、誰にとっても体力は必要であり、若いころに体を鍛えることを怠ってはならない。若い人にはそう言いたい。

 私の場合、体力が消耗すると集中力が落ちるだけではなく、脳の働きそれ自体が鈍化する。最近それを強く思う。もっと粘り強く考えたいと思っても、体が受け付けない。そう感じるのだ。だから、体力は大切だ。今更手遅れかもしれないが、せめて歩いたり階段を昇ることを躊躇することがないように心がけたい。

AIブロガー

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 人工知能で文章を書くことはすでに出来る。いくつかのキーワードを与え、それを結び付けるように指示すれば文章を作成してくれるらしい。私の駄文などすぐに抜かれてしまうはずだ。すでに抜かれている。ただ、いまだにAIは意味のレベルまでの理解はできていないようだ。そこに人間の(私の)生き残る価値がある。

 コンピュータにできることは大量のデータからある言葉を使うときの用例を瞬時に検索し、その用法を選び出して、ほかの用語との組み合わせを再び検索によって選び出して合成することなのだろう。一見意味を考えているかのように思えるが、扱っているのは過去のデータであり、言葉に含まれている意味を考えているわけではない。しかも、私のように偏屈でなおかつ発表している作品がほとんどない人間の文章をAIに担当させることは難しい。出来上がるのは私の文章ではなく、平均的なものになる。

 平均的なものがおかしいかといえばそうでもないらしい。顔のパーツのデータを複数集め、その平均をとって合成すると結構な美男美女になる。誰でもない平均顔は意外といけている。文章もそうで一見理想の文章ができているように思える。

 でも、それは自分の文章からは程遠い。AIに自分の代わりをさせることはできない。自分の文章を書いてくれていって頼むと、ものすごく平均的なものを作ってくる。それがどんなにしゃれていて内容が良くても私の文章ではない。AIというのはそういうものらしい。だから、我々が文章を書くことは大切な営みだし、続けるべきなのだろう。

 このブログはAIで書きました・・・はずはない。下手すぎる。

要するに…中毒

 今回も自分に対して向けた文章である。最近、よく話を聞き終わらないうちに「要するに」「つまり」とまとめてしまう思考を自覚している。忙しい毎日はこれは都合がいい。詳細に立ち入らず骨子のみを把握しようとする。それはそれで間違ってはいない。ただそればかりだと肝心なものを落としてしまう。

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 文章を読解するときに、構造を考えながら読むというのは国語教師の指導のたまものである。大体、初めに話題を振って、時にはそれが問題提起型になり、具体例を挙げて、そのあとに自分の言いたいことと絡めて、結論を述べる。ほとんどの文章はそのように書かれている。今書いている文章もそのような感じだ。

 忙しいとそういう読み方をして、細部を飛ばし読みする。人の話を聞くときもそうだ。愛想のために述べている部分を抜かすと、言いたいこととそれを言うための具体例とを繰り返す。本題の最初に言いたいことを短く言い、具体例のあと結論を言う。基本的には文章と同じだ。もちろん、思い付きで話を続ける人の場合は単純ではないが、基本的には同じだ。

 こういう風に考えると「要するに」の思考がでる。いろいろ書いてあるが、いろいろ話しているが言いたいことは何なのか。それだけを知れればいい、という考えだ。これは恋愛映画を早送りにしてみる精神と同じだ。本当は言いたいこととは外れている部分に自分にとって重要な情報があるのかもしれない。あるいは筆者、話者の意見形成の本当の要因が隠されているのかもしれないのにも関わらず結論を急いでしまう。

 忙しく情報量が多い時代には仕方がないのかもしれないが、速読速聴だけが能ではない。時には熟読、傾聴が何かの現状打破につながることもあるのではないか。大切なことを忘れてはいないかと思うのである。