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感じ取るもの

 とても残念ではあるが、歳を重ねると感受性の感度が落ちる。これは自己防衛の方法として獲得してきたものだ。いちいち細かいことに感じ入ってしまうと先に進めない。その結果不利益になることもある。世の中そういうものという割り切りが、日常を過ごすためには必要である。

 ただ、これも度を過ぎると新しい事態に対応できなくなる。過去の事例と結びつけて分類に落とし込むと、新芽の存在を見逃してしまう。これが老年の問題点だ。見逃すことが続くと結局過去の世界で生きることになる。現実は毎日変わるのでだんだん追いつけなくなる。

 これを防ぐにはどうすればいいだろう。今起きていることや、若い世代の考え方に触れる機会を意図的に作るしかあるまい。かといって若者の輪に加わることは難しい。世代を超えたサークルのようなものに加入している人はそれができるかもしれないが多くの場合は不可能だ。

 ならばせめて若い世代の支持を集めている文化現象に触れてみるのがいい。音楽やファッションの世界にも興味を持とう。漫画や小説も少しは読むといい。おそらくその多くは性に合わないはずだがそれでも日常とは異なる体験ができる。それが感性の老化を緩やかにするのなら、それもいいではないか。

 実はこの話、若者に対して行う先輩の価値観を知ろうというメッセージの裏返しとして考えた。

高温予想

 週間天気予報によると、3月7日(火)以降は最高気温が20℃近くの日が続き、最低気温も10℃を超える日がありそうだという。この時期としてはかなり気温が高く、桜の開花が早まる可能性もあるという。暖かくなるのはよいのだが、季節には段取りがあり、それなりの意味があるはずだ。春が駆け足になることを手放しでは喜べない。

 日本気象協会の予報では東京のソメイヨシノの開花は3月18日ということだ。とても4月まで花は持たない。少し前、温暖化の影響で桜は3月に咲くようになるということが科学ニュース扱いで取り上げられ、まさかそんなことはあるまいという感想を持ったものだが、すでに現実になっている。近隣の桜祭りが花期に間に合いそうもないため中止するというニュースがあった。祭りなら残念で済むが、生活に関するものになると静観できない。

 まずは体調を崩さないようにすることが私の課題だ。ここ数年春先に弱い。気をつけなくては。

教え合い

 コロナの影響で遠慮していた授業の方法に話し合いやいわゆるペアワークがある。これは、実は効果的な方法なので封じ手が解禁されることはとても嬉しい。

 私たちが何かを学ぶとき、最終的な目標は自分の言葉で表現できることだ。それを実現するためには結局は学んだことを他人に説明することが一番であると考える。教員が知識を伝達することは効率がよさそうに見えて実は中長期的には効果が出ないことがある。大量の知識を暗記して吐き出すことはすでに機械が行う分野であり、いま必要なのは自分の知識とすることだ。これは古典教育でも同じである。単なる知識の短期的な保管の作業はあまり意味がない。

 教え合いを授業の中で実践するにはどうすればいいのだろう。自由にやってくれでは質的な保証ができない。かといって教員がすべてのグループに入ることも無理だろう。ならば、生徒同士での学び方、教え方に工夫をするしかあるまい。

 例えば短い古文(日本の古典文学)を学ぶとき、グループごとに何文かを割り当てて教員の代わりに授業してもらうのはどうだろう。必ず二つのグループに指名し、そのうちのどちらかに発表させ、どちらかにコメンテーター役をしてもらう。そして生徒の説明が一通り終わったら、必要事項や訂正事項があれば教員が補足する。この方法では読解はあまり進まないが、そもそも全文を細かく訳す必要はない。授業でできなかったところはプリントか何かで配布すればいいことだ。

 発表するにあたってグループ内で教え合いは自然に生まれるはずだ。苦手な生徒はそこで方法を学ぶし、特異な生徒は人に教えることでより知識が確定する。こういう方法をとると面白いかもしれない。いずれにしてもこれは教員にかなりの覚悟がいる。自分が教えた方がはるかに早く効率的に授業が進められるのに、生徒の作業を見守らなくてはならないからだ。

 ただこの方が身になる知識になることは確かだろう。すべての授業で行うことは無理でも、大半の授業をこの形態にしてみようと考えている。私は見守り役だ。そして、やがて自分より優秀な学習者に育つのを発見することになるはずだ。

相手にしないことは攻撃の一つ

 悪意のある相手がいる場合、現実社会ではそれを察することがある程度はできる。そして、そういう相手にはあえて近づかない。どうしても接しなくてはならない場合は最低限のコミュニケーションで済ませようとする。これは逃げではなく正当な方法だ。

 ところがこれがネット上になると誤解が生じる。悪意のある者は素知らぬふりをして近づき、いきなり暴言を浴びせる。彼らの目的は人を傷つけることによる自己確認だから、発言には大抵の場合、相手を動揺させることが第一の目的で、責任は伴わない。反論でもしようものなら嬉しくなってさらなる悪意をぶつけてくるものだ。

 こういう相手にモラルやルールを説いてもほとんど意味がない。彼らは相手にしてもらうことが目的であり、それが生甲斐である。彼らにとってもっとも辛いのは誰にも相手にされないことなのだろう。

 だからネット上の悪意は無視の一択だ。これは決して逃げではなく、自分が悪意ある者にくだす鉄槌である。そしてサイレントマジョリティーはその悪意あるものに批難のまなざしを向けていることを、場合によっては哀れみさえ覚えていることを知るべきだ。

 Z世代はことにこのことが苦手と聞く。あなたの考えるほど世界は単純ではない。

小型メモ

 最近は1番小さなサイズのリングメモ帳を持ち歩くことにしている。自分の記憶力にまったく自信かないからである。フリクションペンとともに持ち歩きメモを取る。細かいことは書けないが思い出すきっかけだけでも書いておくといった感じだ。

 と言ってもどの店で何を食べたかとか、下手な短歌の草稿、そしてこのブログのネタになりそうなことばかり書いている。ほとんど有益ではない。

 ただ、メモを取る習慣をつけておくことが大事だという偉い先生の言説を信じているばかりである。困ったことにこのメモをしょっちゅうなくす。スマホのメモは書いたことを忘れてしまう。困ったことである。

翻訳されやすく

 長く続けているといいこともある。このブログは私の日々の雑感を書き連ねているので、そんなに役に立つ情報はない。あくまで一人よがりの考えが並んでいる。それなのに時折、海外からのアクセスがあり、リアクションをいただけることもある。うれしいことだ。

 その方のサイトを訪問すると当然ながらその国の言葉で書かれている。英語ならなんとか読めるが、ロシア語やイタリア語、スペイン語になるとお手上げである。そこで機械翻訳を使うことになる。

 ラップトップのパソコンでブログを読むと、翻訳の提案が飛び出すので、それに従うと大体の意味は分かる。明らかにおかしい日本語は推測で解釈する。細かいニュアンスは読み取れない。これを割り切ればスペインの教育関係者のブログも読める。

 自分の日本語が機械翻訳でどのように訳されているのか心配になってきた。私の文章は多分に生硬、不明瞭なところがある。故意に曖昧な言い方をすることもある。これを訳せるのだろうか。

 そこで考えた。ときにはやさしい日本語を使い、極力機械翻訳でも誤訳されない文章を書くべきではないかと。今日の文章などはそれに当てはまるまい。本当は英語、イタリア語などで書ければいいにこしたことはないが、せめて分かりやすく書くことにしようかと思う。そういう文を書くときは断りを入れることにしよう。

 その前に誤入力、誤変換をなくさなくてはなるまい。老眼にはきつい作業であるが。

離れる

 時々は少し離れたところに行ってみることが大事なのかもしれない。日常の枠組みの中にどっぷりとつかっていると、世界はどんどん狭くなり窮屈に思えてしまう。それは錯覚なのだろう。

 現実世界は窮屈でもなければ閑散としてもいない。ちょっと離れてみればそれが分かるかもしれないのだ。私たちはそのことを思い出す必要がある。当たり前だがすぐに忘れてしまう。

 離れるために何をすればいいのかを考えよう。ただ、戻ってくることも忘れてはなるまい。逃げるのではなく離れるのだ、

殿戦

 ものごとの最後を完璧に終わらせるのは意外と難しい。どこかに失敗はつきものだ。殿(しんがり)は何かと傷が多い。

 私はそろそろ次の人生を模索したいと考えている。引退ではなく発展だとはどこかで聞いたフレーズだが、私もそうでありたい。まずは次なる収入の口を探すことが先決だが、同時に新生活への最適化を目指す必要もある。

 とりあえずは身体が動く限りは今の経験が活かせる職を探そう。コネクションも大切だが、自己開拓もしたい。そしてできれば起業が理想だ。そうはうまくいかないのは分かっているので、雇われの身となることに躊躇はない。

 殿の将としてはまずは名誉を守ること、そして次に生き残ることに全力を尽くすことだろう。何ごとにも呑気な私であるが、そろそろ大切な時期に入る。スリルを楽しむことにしよう。

あえて悪条件に

 物事が停滞し閉塞感が横溢する中にあっては一歩踏み出す勇気が必要になる。私自身が非常に憶病であり、いつもと違ったことをすることを避ける傾向にあるので、この方面については人に誇れるものがない。ただ、いつまでも同じ場所にとどまることはできない。ならば一歩踏み出すきっかけは何だろう。それが分かれば新しいことに挑戦できるかもしれない。

Photo by Damon Hall on Pexels.com

 勇気のきっかけとして、差し迫った危機が契機になるであろうことは誰にでも想像できる。死活問題となれば動かざるを得ない。ただ、そういう状況はできれば避けたい。失敗すれば死というのは穏やかではない。また、そういう状況で変化したとしてもおそらく幸福感は得られないだろう。せいぜい生き延びて安堵するくらいしかない。

 ならば、それに準ずることを意図的にすることが必要だろう。あえて安住の領域から踏み出すことで小さな危機感を創出するということだ。例えばルーティンの中から何かの要素をあえて減らしてしまうことがある。それをやれば確実に成功率は上がるが、あえてやらず代替のことを考えなければらない状況を作り出す。例えば、のどが乾いたらすぐに自販機で買うのではなく、それがなくても渇きを満たせる方法はないか。スマホで調べなくても間違わずに目的地にたどり着く方法はあるのか。少ない予算で何かを作り出す方法はないかといったことである。

 こういう経験の繰り返しをしているうちに、新しいことを考える下地が出来上がっていくように感じる。物事が便利になりすぎると、それに依存しすぎて新しことに踏み出す勇気が失われる。条件がそろわなくてもやってやろうという気概が今の私には欠けつつある。そしてそれは私だけではないようだ。

人柄

 人柄というのは説明不可能なものかも知れない。理屈ではなく、オーラのようなものが訴えかけてくるのだ。

 福祉施設を見学して説明を受けた。いくつかの施設を回ったが、その一つのリーダーは素晴らしい人だった。何が違うのかと考えたがよくわからない。仕事の中身をよく伝えていただけたのがよかったのかもしれない。仕事を心から誇りを持って行っているのだろう。それが伝わってきた。

 自分もまた人からどのように見られているのか気になることがある。一朝一夕で変えられるものではないだろう。これまでの生き方が形になるはずだ。恐ろしいが、己のあり方にはせめて自分だけは評価しておこう。