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戦いの扉

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ロシアの侵攻が止まらない。その中で我が国でも本格的な軍備をすべきだという議論が出てきているようだ。人類の歴史は時に振れが大きくなる。平和の反動で戦争が起こることもある。それが恐ろしいことだ。

無責任に軍拡を唱える人はおそらく戦場に立つ勇気はない。人殺しが公認される戦争は私たちの想像を超えている。誰もが戦うことは恐ろしいと考えるのに、戦わざるを得なくなるのが人類の進化上の限界なのか。

戦いの扉はいとも簡単に開かれてしまった。扉の向こうから強烈な吸い込みが起きている。いろいろなものが戦場に引き込まれていく。高みの見物を決め込むはずが、いつの間にか関係者になっている。戦争というものの吸引力は凄まじい。

戦争に対して私は無力だ。せめて、反戦の気持ちを書くことで、密やかな抵抗を試みる。この戦いはすべての人を不幸にする。どちらも敗者になる。ロシアのような大国が戦争をしてしまったことが残念でならない。

国際チームも

国旗のない国際大会もいいのでは

オリンピックは国と地域の代表という枠組みが大前提である。それには意味があるが、そうでないものも対極にあっていいのではないか。スポーツのあり方を考えると別の可能性がある。

チームスポーツは一体感とか連帯感が必要であるから、同じ共同体の成員で組むのが自然だろう。しかし、それが国籍である必要はない。国際大会が盛んな競技ではむしろ国を超えた仲間意識が生まれる可能性に満ちているはずだ。ならば、そのような試合をもっと盛んにするべきではないか。

国威発揚のために国家が税金などで援助している事実がある。マイナースポーツは特にその依存度が高いようだ。国を後ろ盾にしないと試合に出られないという事実があるのも確かだろう。それを克服するためにはどうすればいいのだろう。

チームごとにスポンサーなりサポーターを獲得する必要はどうしても出てくる。企業名の入ったチームになるかもしれない。一定のルールは必要だ。

運用方法には多くの課題があるが、国際チームで競技される試合が実現すればスポーツの新しい局面を見ることができる。人類平和のためにも貢献するかもしれない。

建国

建国記念の日といっても現在の日本人にはその意味を考える人は少ない。革命で国家建設を勝ち取ったとか、新しい憲法が生まれた日とかではなく、多分に伝説的な初代天皇の即位日をむりやり太陽暦に当てはめた末の産物だからだ。

初代天皇の神武天皇は『日本書紀』によると辛酉年春正月、庚辰朔とあり、この旧暦元旦を紀元前660年2月11日と算定したということである。もちろん科学的根拠はなく、この年に古代国家が成立していた保証はない。おそらく日本という意識すらなかったかもしれない。

神武天皇は橿原の地で即位したと言われる

自然発生的な国家においてはいつがその始まりだとは言えないというのが事実だろう。前に述べたような明確な事実があり、それを区切りとするのならば記念日はある。日本にはそれがないのはむしろ長い歴史をもっていることの誇りでもあるのだ。だから、建国記念の日の意味は他国とは異なる。

グローバル化の中で、日本という国が自立できないことが明確になったいま、あえて国とは何かを考え直すことがこの祝日の意味の一つだろう。最近、没落国家と自国を言ってはばからない人が増えたが、その中で何をすべきなのだろうか。国のために命を落とした先人たちの思いと、国を捨てて自己の利益を優先する人との間にあるのは何なのか。何が正しく、間違っているのか。それを考える必要があると思う。

感染者差別

オミクロン株の流行が想定以上であるので医療機関はすでに対応が難しくなっている。いわゆる陽性判定にしても、検査をしなくても医師の判断で出せるようになったようだ。みなし陽性というそうだ。これにはいろいろな問題があるようだが現状を乗り切る手段として敢行されている。問題なのは陽性と判定された人々への周囲の心理的な問題にある。

パンデミック初期の頃、感染は対策をせず無節操な生活をしている者が罹ると報じられてきた。飲酒や深夜の会合などの関係者に感染者が出たからだ。しかし、よく考えてみるとそれは条件の一つに過ぎず、その頃でも原因は分からないが感染した人もいた。極端で分かりやすい例が抽出されて報じられたのだろう。

コロナ禍は人の心も蝕む

ただ、こうした見解はすぐに普及しやすい。不注意が感染を招く。感染した人は用心が足りない人だ。あるいはさらに進んで社会常識にかけたり、反社会的であったりするのだと。そういう人が含まれていたとしても、それが必要十分条件ではない。そうでない人も感染したのだ。

オミクロン株の感染に関してもそのときの誤解がまだ解けない。感染した人を悪し様にいったり、言わなくてもそのように考え、有形無形の差別をする人が少なからずいる。私たちの科学的認知の限界を見せつけられている。

逆もある。本当かどうかこれこそ怪しいが、報道によればコロナウイルス流行は何者かの陰謀であり、マスクをする必要などないと主張する団体があるのだという。デモ行進までしてマスクを取ることを訴えたとか。フェークニュースでないとすればこれも逆の意味で冷静な判断ができなくなっている例であり、差別の変化型である。

現実を整理し、冷静に判断する必要がありそうだ。また、影響力のある方々には繰り返し科学的な知見を説明してほしい。これは分かりやすいほうがいい。またその知見も解明が進むごとに更新されるものであることを訴えてほしい。おかしな差別を防ぐためにはまずはそれだろう。そして一人ひとりのリテラシーをあげるということを続けなくてはならない。

戦争回避を

 ロシア軍がウクライナに侵攻するのではないかという憶測が出ている。オリンピック終了がその機会であると具体的に考える人までいる。ロシアがウクライナの領土を求める理由はいくらもあるというが、それも逆から見れば別の論理になる。どんな釈明が成立するのだとしても戦争は回避すべきだ。

 ウクライナの歴史といえばクリミア半島をめぐるロシアの執念が想起できる。世界史の授業でもこの件は大きく取り上げられていたので知っている人は多いだろう。私もその程度の知識しかない。もともとこの地にはウクライナ人のほか、多くのロシア系、ベラルーシ系の人が住み、さらには隣国のモルドバ系の人や、モンゴル帝国にルーツを持ちイスラム教徒のクリミア・タタール人、さらにはユダヤ人もいるという多民族国家だ。だから、ロシアに対しての思いも様々であり、中には独立もしくはロシア併合を望む国民もいるというから複雑だ。

黒海沿岸は複雑な歴史を持っている

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 どこの国でもそうだが歴史の積み重ねによって多様な人々が同じ土地で同居しており、それゆえのトラブルもある。しかし多様性はその地域の強みにもなり、うまく生かせれば利益を生むことの方が大きい。おそらく、かなり長い年月をかけて現在の国民国家という枠組みはなくなっていくのかもしれない。夢のように長い物語の末の話だろうが。

 戦争による現状の変更は一時的には達成できても長期的には無駄になる。多くの人的犠牲が出るし、怨嗟はいつまでも続いて別の戦いの種となる。それは歴史から学ぶことができる教訓だ。ウクライナは確かに複雑で一筋縄ではいかない。しかし、性急に力による変更を加えてもゆがみが大きくなるばかりなのだろう。関係国の思惑がさらに話を複雑にしている。

 日本人としてできることは少ないが、戦争の不毛さは訴えることができるだろう。この国もかつて戦い未だにその傷が癒えない。確かに経済的には復興できたが、隣国からは時に恨まれ、結果的に大きな損失を受けている。やるべきことは戦争ではない。ほかの方法を考えていただきたい。

活躍の場

 オミクロン株の感染力は凄まじい。感染者数の発表に関してはまた実感のわかない大量の域に行ってしまった。いろいろな人が感染する中で、考えなくてはならないことがある。

 組織の中で重要な役割を果たす人が何らかの事情で行動できなくなったときどうすればいいのだろうか。組織全体の力が低下してしまうというのは避けられまい。でも、バックアップするシステムを作っておけば被害は抑えられる。それどころか、現状打破の糸口になる可能性さえある。

新しい組織のあり方は

 そのためには複数のチームを持っておくことや、誰もがリーダーの視点を持てるような組織づくりを目指す必要がある。かつては日本は上下関係を基本とする個人間の関係が組織の基本になっているといわれた。いまでもその影響は多分にある。

 この国難を機に組織のあり方を変えていくのもよいのではないか。

機械の声

 駅のアナウンスなどで使われる機械による音声案内が、最近範囲を広げている。かなり人の声に近づいているものの、やはり味気なさを感じてしまう。

 電車の接近を知らせる放送はかなり前から機械の声になっていた。明瞭でありブレがないのはよい。微妙にアクセントや間が不自然に感じるのは許容してしまう。

 車内に流れる次の駅の案内は人の声の録音が多い。路線によって少しずつ違うのはそのためだ。個人的には東京メトロ半蔵門線の案内の声はとてもよいと感じている。

 コロナ対策感染予防を呼びかけるアナウンスは機械音声であり、かなり不自然に聞こえる。これなどもプロに委託すればよいのにと思う。安心度が違う。

 先日、常磐線に乗ったところ感染予防協力を呼びかけるアナウンスが、沿線のラグビーチームの選手と外国人監督だった。それぞれ日本語と英語のアナウンスをした。おもしろいアイデアだと思った。

換気注意

 オミクロン株のコロナウイルスが爆発的感染を広げている。職場でもその対応のために定期的な換気を実施している。ただ、少々問題がある。

 一年の中でも気温が最も低く乾燥しているこの時期に窓を開放することには別のリスクがある。身体を冷やすことによる免疫力低下はその最大懸念事項だ。

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 感染予防が目的であれば単なる換気だけではうまく行かないのではないか。具体的な方法を指南していただきたい。換気せよという注意喚起が果たしてどの程度有効で、どのようにすればいいのかを。

遠隔地由来の津波

 トンガ王国で起きた海底火山の大規模な噴火は、広範囲な地域に影響を及ぼしている。特に津波は想像以上に深刻なものであり、日本でも被害が出ている。

 15日におきたという海底火山の噴火は衛星画像からもはっきりとそれとわかる規模のもので、100年に一度もしくは1000年に一度の規模のものであると報じられている。この噴火の影響で日本でも気圧の変化が観察されたことから、相当な迫力を持つものであったとわかる。日本からトンガまでは約8000㎞離れており、同距離の場所としてはアラブ首長国連邦あたりでありかなり遠い国であるにも関わらず。

 今朝の報道によれば17日にも大規模な火山噴火があったとのこと。詳細は未詳ながらも再び津波の発生がないのかは確認しなくてはなるまい。トンガをはじめとする近隣諸国の人びとの生活が心配だ。さらに噴煙や会場に浮遊した噴出物の問題もさることながら、農業地帯であるオーストラリアやニュージーランドへの影響が懸念される。国際的な救援を考えるべきだろう。

 さて、標題の日本の津波に関しては15日23時55分に奄美大島で1m20㎝、岩手県久慈港では16日2時26分に1メートル10㎝の潮位上昇を観測したという。かなりの高さである。東日本大震災の津波で再確認したが、津波は通常の大波と違い、波面が全体的に持ち上がるため陸地がそのまま飲み込まれる。だから数センチでも被害が出ることが多い。報道によると北米でも同様の津波が観測されている。現時点での報道では噴火地点に近い場所よりも、遠隔地の方が津波の高さが高くなっていることもある。油断はできない。

 遠隔地で起きた地震により、津波が発生し被害が出た記録といえば1960年のチリ地震津波をあげる人は多い。私が生まれる前のことなので内閣府の公開している「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1960 チリ地震津波」を参考にしてみると、「昭和35年5月24日早朝来襲したチリ津波は、北海道から沖縄までの太平洋沿岸各地に被害を与えた。体感する地震がなく、気象庁の対応も遅れ、完全な不意打ちであった。南米沖で発生した遠地津波は、1586年以降19例もあったのだが、その認識が不足していた。」とのことで、地球の裏側で起きた地震がまさか大きな津波被害をもたらすとは考えていなかったというのだ。死者・行方不明者139名、負傷者872名が当時警察の発表の被害者数だが、この報告書によれば、返還前の沖縄の死者3名が含まれていないということである。

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 東北地方の太平洋側の住民は古来から何度も津波被害にあっており、他地域より備えはあったのにもかかわらず、体感なき地震による津波には対応できなかったことになる。また、インターネットのない時代、広報はマスメディアにたよらざるを得ず、情報不足がもたらした被害であったと今ならば言える。16日の深夜から未明にかけてスマートフォンなどで津波警報が鳴り続けた。数多く寄せられたクレームに対し、神奈川県知事はその方法に問題があったとして謝罪したが、情報があるということの重要さは忘れてはならないだろう。

 遠く離れた場所に由来する津波も決して侮ることはできない。このところインドネシアや南太平洋で大きな地震が相次いで発生しており、油断はならない。日本は自国で発生する地震への備えとともに、海を隔てた地域へのアンテナもつねに張り続けていなくてはならないのだ。

現役エンジニアから学ぶならテックアカデミー

東京でなくても

リモートワークが普及する中で、企業の中心を都心から移す事例が出ている。一極集中のもたらす弊害やリスクを回避するためには良い考え方だ。

帝国データバンクが2021年9月3日に公開した「首都圏・本社移転動向調査(2021 年 1-6 月間速報)」によれば、2021年1月から6月の時期に首都圏(東京・神奈川・千葉・埼玉)から他の地域に本社を移転した企業は186社であったという。6月までの統計で150社を超えたのは過去10年では初めてということである。その後もこの傾向は続いていると考えられ、300社を超えるとこの時点で予測している。移転先で最も多いのは大阪で茨城、静岡、北海道が続く。同調査は首都圏への転入数も発表しているが、昨年は2010年以来の転出超過になったようだ。

コロナ対策のさまざまな方策は、企業が首都圏にある必要性がないことを証明した。むしろ過密な都市に企業を置くことのリスクを露呈したといえるだろう。加えて我が国には天災のリスクがある。首都圏にはこの先必ず何らかの災害があることは専門家も認めている。もちろん、それは首都圏のみならず日本全国に当てはまるのだが、首都圏がその中心地になった場合のことを考えると、本社機能を集中させるのは意味がない。

地価や物価が比較的安価であり、うまく誘引すれば労働力も確保しやすい地方都市に本社を移転すれば、様々なリスクを分散できるようになるだけではなく、首都圏では得られないメリットがある。もはや東京である必要はない。ブランドでTOKYOを使いたいのなら、支店をおけばいいだけの話である。その意味があるとしたら。

こういう発想はやがて民間、個人にも及ぶのかもしれない。ほどほどのインフラがある地方都市があるのなら、そこに移住したほうがいい。そしてそこに移転した企業か、それに関連する仕事をすれば生計は立てられる。環境の悪い首都圏よりもかえっていい生活ができる。多少不便でもそのほうが人間的だと考える人が出てくるのではないか。

現状では日本の人口の約3分の1が関東地方に集中している。それがもし少しずつ他地域に移動して行けば、密集による弊害はなくなるだろう。逆にそれぞれの地域にライフラインを整備するという問題も発生する。環境に他する負荷も考えなくてはならない。ただ、首都圏を移転するというより、ほどほどの地方都市をいくつも作るという発想の方がいいようだ。