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成人

成人の日は私にとってはもう刺激のないものになっている。成人の定義がまったく現実とあっていない。精神年齢的にはもっと上の年齢を設定すべきだと思うし、経済的にはもっと下でもいい。早く独立して稼げるような仕組みもあればいいと思う反面、しっかりと人格形成をしたほうがいいとも思う。つまり成人の境は非常に曖昧で難しい。

日本の少子化は全く収まりそうもない。この後の時代には大量の高齢者がなんとか自活をして生き、そして力尽きていく。若者はその煽りをうけて苦しい生活を続けるか、もしくは画期的な方法でこれまでにない社会を作る。私は後者になると考えているが、そのためにはあまり年寄りが出しゃばらないほうがいい。

Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

新成人には申し訳ないがいまの日本では黙っていても幸せになれるような状態ではない。自己開拓で新しい時代を作るしかないのだ。起業独立を考え続けてほしいし、過去にとらわれてはならない。誰も知らないことを始める必要がある。

ただし、踏み外してはならないのは利他的な観点だ。自分さえ良ければいいというのは成人の先輩たちが犯してきた大失敗だ。一見良さそうに見えるが実は致命的な結末がある。他者を不幸せにする方法はすぐに自分に跳ね返る。だから、自分を含めた周囲の人を幸せにするという視点を持ち続けるべきであるし、その範囲を広げていかなくてはならない。

だから独立することがだけが能ではない。場合によっては協働し協力することが必要になる。お互いが目的をもって協力すれば相乗効果でより素晴らしいものが生まれるはずだ。もちろん意志をもった者同士が意見を言い合えば衝突もある。それを乗り越える方法も確立していくべきだ。

みなが幸せになるためには何が必要なのか。今何が足りないのかを考えればそこに自立の緒がありそうだ。実は私自身もそれを常に探している。成人になるというのは社会や世界を考えながら生きるということではないかと考えている。



孝行のこと

古典の世界では親孝行が一つの普遍的テーマになっている。儒教の影響だろう。親孝行は無条件の命題だ。だから若い世代がいかなる犠牲をはらっても親に奉仕することが美徳とされている。

では実際にすべてがその理想にかなった人ばかりだったかといえばもちろん否である。孝行話が称揚されるということはそれだけ孝行をすることが困難であったことの裏返しであったはずだからである。姥捨伝承のような棄老伝説はそれが極端化したものであろうが、現実にはそこまではいかなくても完全な高齢者庇護が実現できるわけはあるまい。厳しい現実がこれまでもあったのだ。ただ孝行が社会全体の徳として認識され、実現できるか否かは別として行動規範として共有されていたことは事実だ。

それでも自然のなりゆきで老人が他界し、後継者がその後をつぐという人生の循環がなされているうちはよい。個々の人生には厳しい局面があるが、社会全体としては安定が保たれているのだから。現代の高齢社会のあり方を考えると、孝行するべき若い世代が極端に少なく、老いていく世代が多すぎる。孝行は理想を超えて、非現実的なファンタジーになっていく。もう孝行の幻想からは逃れなくてはならない。

近世の孝行譚を読んでいると共通するのは滅私の考え方である。自分の快楽を犠牲にしても親に尽くそうとする人の姿が描かれている。それを支えていたのは儒教的な精神環境だろう。今の私達にはその考えはない。それぞれの個人には幸福を追求する権利があると考えられ、誰かのために自分の人生を差し出すことは好まれない。これでは社会はバラバラとなり強者が弱者を踏み台にして利益追求をしていくことになる。現代生活はそれを具現化しているともいえる。

自己をなくさず、自分本位にもならないという選択はあるのだろうか。自分の幸せを追求することはすばらしいと考える段階ではこの道は開かれない。他人のことを考えるより、自分の将来を考えることに精一杯だからだ。

そのためには私達の考え方が進化しなくてはならない。個々人の幸せは一人の幸福追求では達成できないということを知識ではなく行動で実践できるようなるべきなのだ。地球環境の問題はそれを可視化する。自分さえ良ければいいと思ってやっていることが、やがて環境そのものを破壊し、自らの首を占めることになるのだ。

孝行の対象が自分の親だけではなく、地域や共同体、世界全体に及ぶようにしなければ私達は立ち行かないのだということを毎日の行動で示せるようにならなくてはならないのだろう。すでに知識としては獲得できている。しかし行動は別になっている。自分の人生をすべて捧げる必要はないがだれもが自分以外の存在のために何らかの行動を常に続けること。それができるようになれば、人類の歴史はまだ安泰かもしれない。多くの生物が進化に行き詰まり絶滅したことを考えると、人間が同じ轍を踏むことも考えられる。ただまだ分からない。

第6波到来

 コロナ感染者が増えだした。世界的にはすでに多くの国々で感染者が激増していたのに日本は異常なほどの低水準であったが、ここにきてその波に飲まれつつある。多くの人が予想していた通り、年末年始の人々の移動も要因になるはずで全国的に広まる可能性が高い。感染予防には万全を尽くさなくてはなるまい。

 オミクロン株感染者もすでに1200名近くに達し、市中感染としか考えられない事例も増えている。報じられているようにこの新種は感染力は強いが重症化の率は低いようだ。とはいえ確率の話であり、個々の状態はそれでは計れない。警戒は欠かせない。

 ただ、私たちはなんどもの流行を経験し、単に閉じこもるだけでは立ち行かなくなることを悟りつつある。動けるものは動かなくてならない。動かせるものは動かさなくてはならない。こうするとまた別の意味の格差が生まれるという可能性もある。条件が悪い人を助ける方法も確立しなくてはならないのだろう。

 分配という言葉は先の選挙での争点になっていた。一見理想的な話のようだが、経済の専門家に言わせればそうでもないらしい。格差ができるのは資本主義の宿命であり、格差がないことは資本主義がうまく機能していないことなのだという。なんとも残念なことだが、そもそも貨幣経済そのものが差を生み出すことで利益をもたらす仕組みであるのだからある意味当然ともいえる。

 だから、首相が一時固執したような金融課税のような方策は資本主義国としては要注意なのだそうだ。富裕層が見切りをつけるとその国の経済が立ち行かなくなる。むしろビジネスチャンスが多い方がいいというのである。政府も最近その方向に転換しようとしているようだ。

 富裕層が増えれば経済活動が活性化するのかといえばそうでもないような気がする。格差が拡張すれば結局大きな社会問題になる。等しく豊かにという社会主義的方策を続ける中国も、どうやら資本主義の軛からは逃れられそうもない。

 制度的な分配策よりも自主的な篤志を促す方策の方が結局はいいのかもしれない。自主的に困っている人や頑張ろうとしている人に援助できるシステムを作るのはどうだろうか。寄付に対するより大きな減税や褒賞をより分かりやすい形に示すのもいい。昔の日本はかなりのムラ社会ではあったが、同一集団に対しては相互扶助の機能も働いていたようだ。その長所は生かすべきでないか。

 コロナウイルスが大流行するたびに思うのは、人間は支えあわなくては無力だということだ。嵐が吹くときは助け合わなくてはならない。

潜在能力

 帝国主義による主権の維持に失敗した我が国には、平和と協調こそが国体を維持する唯一の方法と痛感させられる局面を経験している。だから、平和を構築するには協調しかないと考える人は多い。

 しかし、その後の急速な発展によりあたかも自国でなんでもできるかのような錯覚に陥ってしまった。悪しき選民思想のようなものが根拠なき優越感を醸成したのである。

 最近、その旗色が悪くなるとまたもや精神的帝国主義のようなものが芽生えてきている。隣国を従えて発展すべきなどと。その実力はない。資源なき国にはもとから、他国との協調なしでは存在の力はない。むしろ自他を利することで存在感を訴えるしかないはずだ。

 この国の潜在能力には計り知れないものがある。ただそれはいざというときに発揮されるのであって、そうでなければいつまでも眠り続ける。ともに生きる道を歩みだすべきだ。そのためにはもっと隣人を知らなくてはならない。

日本型雇用体系

 これまでもよく述べられて来たことだが、生産性の確保や向上のために人事面にも流動性を高めるべきだという議論がある。終身雇用を前提とする制度が諸悪の根源のような言い回しだ。人事の硬直が仕事の保守的傾向を強調しがちであることは容易に推測できる。

 ただ、ならば能力主義なり、業績主義だけでよいかというとそうでもないのではないか。経験が蓄積されることも必要であり、職能を磨き上げてきたことが日本企業の強みになっていた。それがいま効率主義によって揺らぎつつある。「働かないおじさん(おばさん)」の話はよくでる。解雇が難しい日本の雇用形態では仕事と個人の能力がミスマッチする可能性が高く、その結果として働いていないように見える社員を一定数生み出してしまう。でも、それは経験をもつ社員をうまくいかせていない現実の裏返しでもある。経験に応じてふさわしい仕事にシフトしていける日本の雇用体系を活かしきっていないのだ。

 私は終身雇用体系の利点をいかしつつも、新しい雇用形態を目指すべきだと考える。イノベーションには新しい考えが必要だと言うが、私は多様性の方が大切だと信じている。優秀な若手はもちろん欠かせない。しかし、経験豊富な人材もいなければ本当の新機軸は得られないのではないか。

 社会情勢が不安定になると極端に走ることは歴史が教えてくれる。能力主義がいいと考え、たまたま成功例が出ると、それに一気に追随する事態になるかもしれない。だが、日本型企業を他国に勝るものにするならば、テクノロジーと伝統・習慣が適度に調和したシステムへと成長させる必要があると感じるのである。

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顔パス

 とある外食業界で支払い時の顔認証システム導入の報道があった。今のところ希望者が企業の認証システムに自分の顔を登録し、商品の支払いに顔認証を選択するとクレジットカードやバーコード提示をしなくても決済まで可能ということだ。未来社会構想に近づいた感がある。

 顔がマイナンバーなどと結びつけられ、それが金融機関に提供されるようになると、方方で顔認証決済がなされるかもしれない。顔パス時代になる。レジ係はいらなくなるか、客を気分よくしてくれるウルトラ会計担当しか残らなくなる。あとは梱包を手早く美しく安全にやるサッカーが必要だ。それも機械に乗っ取られる可能性がある。

 顔バスが実現するためには個人情報保護が問題だ。しかし、この流れではプライバシーの問題は後まわしになる気がする。


国際封鎖が起きても

 オミクロン株の正体が分からないまま、混乱が生じているがこういう時こそ冷静を意識しなくてはなるまい。南アフリカへの渡航について制限がなされることについて関係各所から様々な意見が出ている。いまは状況を把握するまでは停止するべきだろう。差別とは無関係だ。

 逆も考えなくてはならない。日本が同じような立場になった時、各国は日本への渡航や日本人の入国を拒否することになる。仮に日本が実は発症国ではなく、たまたま他国では発見されなかったのが、日本の病院で発見報告されたとする。その場合も一時的には日本への出入国は制限されることになるはずだ。

 ただ、すでに例えば香港でも症例が発見されていることを考えれば、すでにオミクロン株は南アフリカ共和国だけの問題ではない。いまさら鎖国をしても何の意味もないことは確かだ。事実を把握するのには時間がかかるが、一時的に国際封鎖のようなことが起きる事実だけは考えておくべきなのだ。

 たまたま今の日本は新型コロナウイルス感染者が激減しているだけであり、すぐに次の波が来る。その時にまた新しい変異株が発生することも考えられる。科学者はそれにいちいち対応するワクチンや対処薬を作り続けるしかないし、政治家は国民の冷静さを保つような政策をとり続けるしかない。そして私たちは振り回されないように、世の中の動向を自分の目でしっかりと見ることだ。

惑わされずに

 南アフリカ共和国で発見されたという新型コロナウイルスのオミクロン株は、感染力の強さが懸念されている。未知のウイルスであるのでどのような症状が出るのかは予測しがたい。この報道をきっかけに世界中の株価に影響があったという。もっとも株式の世界は様々な要因が複合し、さらには群集心理が左右するので一概には言えないことだが。

 日本では奇蹟と言ってもいいほど発症者が減っている。しかし、これは一時的なことのようだ。隣国の韓国は日本とほぼ同じ条件かむしろ防疫に成功してきたのに今になって感染者が爆増している。欧州の感染者はさらに多いが、これらは来月もしくは数か月後の日本の状況かもしれないのだ。幸い、日本人の律義さもしくは臆病さは保たれており、いまだにマスクを外して歩く人は少ない。むしろに日常化してファッションの一部になっているともいえる。

 先日、ウイルス研究の専門家に話を聞く機会があったが、ワクチン接種は科学的にも意味があるらしい。陰謀説を始め、さまざまなデマを流す人々のことを憂えていた。中には自らは接種をして、ソーシャルメディアではワクチンは危険だと吹聴する輩もいるらしい。それが商売と結びついているというのだから厄介だ。

 ワクチンの有効性についても私たちは最終的には自己判断をするしかない。ただ、それでも科学や社会学のリテラシーを持っていないと迷信やデマに振り回されることになる。

行き交う人

 通勤電車の乗車時間は大体決めている。日によって前後することはあるが、平均的にはある時間発の車両に乗っている。私のような方は多いのではないだろうか。

 同類の方の中には顔を覚えてしまった人もいる。この方とはいつも駅前であう。この方とはもう少し自宅よりの角で行き交う。というふうに場所と関連づけて覚えてしまった。その方の名前や仕事は知らない。ただ、ほぼ毎日お会いするという点においてはすでに赤の他人とは別次元の存在になっている。

 私が遅刻気味のときはより自宅近くでお会いすることになる。私にとっては足を早めよという指標である。逆に私が定時に家を出たときは、お会いする方々の出会いの位置によってその方になにかあったのではと微かに考えることもある。そういえば今朝はお目にかからなかったと思い出すときは心配することもある。わずかな時間だが。

 相手が私のことを認識しているとは思えない。恐らく私のように考える人は少ないだろう。山道を行き交う登山者のようにせめて挨拶でもできたら世の中は随分変わると思う。

 儚い夢物語である。

地域格差

 人口減少に情報社会が相乗すると地域格差は一層広がってしまう。

 政府が用意したSociety 5.0の広報ビデオには交通不便な場所に住む高校生らしき人物が登場する。生活に必要なものは無人操作のドローンが配達し、人工知能を搭載した冷蔵庫がレシピを提案、昼食のパンはいつもの商店に予約と支払いまで済ませてくれる。

 学校へ向かうバスは自動運転で利用者が指定した場所にバス停がなくても停まる。そこには憧れの先輩がいて同乗することになる。

 夢物語であることは差し引こう。いかに便利になったとしても過疎地に若者は住み続けてくれるだろうか。人口減少が進んで都市の生活費が今より下がることは考えられる。それでもドローンしか通えない場所に住み続ける意欲は継続するのか。そこを考えなくてはならない。

 バスを降りた後の学校も不安がある。都会の学校と遜色ない質を保てるのか。希望が持てる学園生活を提供できるのだろうか。そして広報動画のように素敵な先輩が通って来るのだろうか。

 格差の問題を解消するのは技術だけの問題ではなさそうだ。東京にいなくても不利ではないと実感できるシステムや、地域ならでは価値の創出が欠かせない。