タグ: 社会

自分で考える面倒な作業

 AIがより実用的なものになった時点で私たちの能力はどうなっているのだろうか。様々な無駄を省き、効率的に物事を進められるようにプログラムされるはずの人工知能に我々はただ従うだけになるのだろうか。

 便利なのものができると得られることと失われることがある。例えば私たちは火を使う際に苦労することはない。ガスコンロをひねればすぐに加熱は出来る。電気式なら炎さえいらない。その代わりガスや電気がなければ火をおこすことは難しい。かつては誰もができたことが誰にもできなくなっている。

 AIが完成しなくてもすでに私は初めて訪れる場所にナビゲーションなしで行くことは困難だ。私だけではなく多くの人たちに共通するはずだ。地図を読む力も落ちている。

 何も考えず、面倒な作業をしないで済むことは幸せなのだろうか。恐らく数知れない利益を齎す一方で、痛切な重大事を見失う可能性がある。先のカーナビの譬えでいえば、ナビに従うあまり、閑静な住宅街に迷い込む経験は何度かあった。確かに近道なのだが、果たして進路としてふさわしかったのだろうかと考えると疑問が残る。近道を選べばいいのではないという選択は今のカーナビにはできないようなのだ。

 どんな時代になっても自分の行動に自分で責任を取ることができる能力を持つこと。取れなくてもせめて自らの判断が幾ばくかの影響があったと考えられるほどにしておくことは大事であり、これからの教育関係従事者の目標となるはずだ。

新しい社会

 政府が推進するSociety5.0という未来構想はビッグデータとAI技術を駆使して、仮想空間と現実空間をリンクさせるという構想だ。科学技術で未来を豊かにするという考え方自体は近代科学至上主義の延長上にある。経済的な発展と環境問題や精神的な満足感との調和はそう簡単にはいかないとは思うが、この構想はあくまで理想を語っている。

 総務省のサイトで公開している動画を見るとわかるが、登場する人物の大半は日本人であり、写り込んでいる未来の製品の多くは日本企業の製品である。この点においてすでに現実離れをしている。私達はアメリカや中国や韓国、その他の国のICT機器を使い、ネットワークも外国のものである。日本の製品は部品レベルとなっているのが現状だ。果たしてAIが日本人向けのサービスを展開してくれるだろうか。

 グローバリゼーションの流れを止めることはできないのは事実だ。Society5.0はおそらく非日本社会になることなのだろう。日本人が自分の国のことを自分で決められない社会になるのかもしれない。そして、これは日本だけの問題ではなくなっていく。総務省のキャッチフレーズは人間中心の社会であるが、ここでいう人間が何を何を指すのか、誰のことなのかは再考しなくてはならないようだ。


大声の独り言

 大きな声で独り言を言う人は昔からいた。何らかの障害がある場合とそうでなくともいわゆる心中思惟が言語音声化しやすい人はいるものだ。加齢も関係するかもしれない。私も気づけば声を出しており周囲から呆れられている。

 最近はその範疇に入らない人でも独り言をしゃべっている風景をよく見かける。耳にはイヤフォンをつけて。その機械がワイヤレスだと一層独り言感は強まる。

 お分かりいただけたかと思うがこれは独り言ではなく、そこにいない誰かとの通話なのだろう。周囲からは相手の声が聞こえないので完全に独り言に聞こえる。

 先日などは激怒している人を見た。例のワイヤレスイヤホンをつけているその人の前には誰もいない。ただ何かを激しく叱責しているのだ。怒りのあまり周囲が見えなくなったのだろう。個人情報も結構聞こえたが、誰も知らないふりをしている。

 コミュニケーションに場所の制約がなくなったことは、技術の進歩だ。しかし、それに追いついていないのが私たちの振る舞い方なのだろう。

分配の方法

 18歳以下の国民に10万円の分配をするという法案について議論がなされている。結論から言うと反対である。私の家族に該当者がいないという理由ではない。困窮の度合いに無関係に金を配るというのは愚策であり、財政破綻をしつつある我が国の国益に大きく反する。

 かつては貧乏人の子沢山という言葉があった。しかし、いまは財力がなければ子どもが作れない時代だ。子どもがいるということは資産があるということにもなっている。もちろん、これには個人差があって一概に言えることではない。それでも子どもの数で金を分けるというのはいまの時代には合っていない。

 子どもをつくれば将来にわたって支援金が出るというのなら話は別だ。しかし、今回の給付はあくまで一時的なものであり、国民の分断を生む以外の効果はないように思える。一部の政党の選挙に勝つための戦略であって国益に沿うものではない。

 収入が少なく、善良な(犯罪を犯していない)国民に対して分配するのが優先順位としては先だろう。経済的な保証ができれば希望も持て、就職も可能となり、結婚も可能だ。働いているのに収入が増えない層へ手厚く分配する方法を考えるべきではないか。

 補助を受けるべき人々の基準を明確にしなくてはなるまい。年齢で区切ることは簡単だがそれではバラマキだ。前回の国民全員への給付が経済効果をあげていないことを考えたい。

 分配しなくてはならないのは現在の厳しい現実を乗り越えるための知恵や、相互扶助の精神の徹底だろう。富めるものが篤志の心を持ち、社会のために消費することの美徳も伝えるべきだ。政治家だけの役目ではないかもしれないが、きっかけは作ってほしい。

Photo by Karolina Grabowska on Pexels.com

失言というレベルでは

 麻生太郎氏の失言は日常的な出来事なので受け取る方もかなり麻痺しているが、今回の発言は選挙前ということもありかなりの影響をもたらすかもしれない。失言というより、事実誤認、さらには政治姿勢の根本に触れる問題発言だった。

 北海道のコメがうまくなったのは、農家の努力ではなく温暖化の影響という意味の発言をこともあろうに北海道の応援演説でおこなったという。応援された候補者には気の毒と言うしかない。温暖化とコメの生育の関係に科学的な証明ができていないこと、品種改良による努力を軽視するものであることなどそれだけで問題がある。それよりも国際的な動きとして持続可能性が喧伝され、その一つとして気候変動の減少と考えられている温暖化をあたかも天恵のごとく捉えること自体が政治家としての資質を問われるのだ。

 麻生氏は人間的な魅力のある人だと言われ、政治家でなければ好人物かもしれない。しかし、無知無配慮のリーダーのもとで生きる国民は不幸だ。これまでの失言歴だけでも普通の政治家であれば失職しているはずだが、経験と人脈が何とか支えてきた。ただし、自民党にとってそして国民にとってこの方はそろそろ政治以外の方面で活躍していただく方がいい。

戦争は

 戦中の証言として当時を記憶する方から話を聞く機会を得た。その中で戦争末期の日本の捕虜に対する扱いが劣悪であったと語っておられたのが印象的であった。

 戦争の記憶が薄らぐとともに一部が美化されていく傾向があるのは感じていた。多い傾向として一部の好戦的な人たちが突出して多くの善良な人を無理やり戦争に駆り立てたというものだ。これが正しくないのは戦争を遂行しているのは誰なのかという問題と関わる。

 確かに戦争を遂行していたのは限定された人物だっただろう。しかし、それを行っていたのは普通の国民であったことを忘れてはならない。戦争という特殊な状況が人間を狂気に駆り立ててしまうことを再認識すべきなのだ。戦時中の出来事を意識的もしくは無意識的に美化していく流れを注意深く見つめ、あらゆる正当化の糸口を監視しなくてはならない。

国会議員ならば

 短期決戦といわれている衆院選はいかに印象に残るメッセージを出せるかが鍵となっているらしく、本日の街頭演説にもキーワードが述べられていた。名前を連呼するだけでは投票にはつながらない。そういう意味では健全な選挙に少しだけ近づいたかもしれない。

 自民党政権が批判を浴びる中で、対案を出し切れていない野党のあり方にも歯がゆさを感じる。私は特定の政党を支持する者ではないが、批判ばかりで実質のない候補者には投票しないつもりだ。今日は少々気になることを聞いた。その候補曰く、昨今の政策は地方とのバランスを考えるあまり都市生活者の利益が侵害されているというのだ。選挙区が人口密集部であることを意識し、地元の利益を優先する見解であった。

 これはこれで間違ってはいないが、国会議員のあり方として問題を感じる。選挙区の利益を確保する必要があるのは分かるが、都市対地方の構造を打ち上げて、まるで地方が都市生活者のパラサイトであるかのようにいうのはおかしいのではないだろうか。都市生活者の権利を守るという名目のもとで地方住民を軽視することの弊害を考えないのだろうか。少なくとも国会は国の代表であり、地方の代表ではないことを考えていただきたい。

冷たい日本人

 興味深い記事を読んだ。他者を救済する人の割合をランキングすると日本は他国を引き離して最下位となるのだそうだ。調査項目には寄付をしたり、ボランティア活動歴、知らない人を助けた経験、支援団体の数などがあるが、そのどれもが世界の水準からかけなれて低いらしい。

 日本に住む私の実感として、この調査の結果は大いに疑問がある。確かに東京に住んでいると他人に対する配慮が少ない人を多く見かける。中には相当わがままな人もいる。しかし、世界最下位になるほどの状況には見えない。秩序正しいので、満員電車の中でもめったにトラブルは起きないし、ゴミを捨てて迷惑な人も少ない。であるにもかかわらずなぜこのような結果なのだろうか。

 思うに伝統的な日本の価値観にウチとヨソの枠組みがあることがその原因のひとつだろう。自分と同じ集団に所属していると意識する相手に対しては過剰なほど気を使うが、そうでない相手は無視しようとする。その枠組みがたとえば人種とか宗教とかそういうものではなく、きわめて個人的な感情に基づくので他人から分かりにくくなっている。

 それを日本人の特徴と考えればそれでいいし、何も他国のそれと合わせる必要もないかもしれない。ただ、社会がグローバル化するなかでこうした小さな集団主義は不利益の面ばかりが目立ち始めている。自分の集団だけで生活が完結できる間はそれでよいが、もうどうしてもそうはいかない。集団の枠を広げていってもそれでも追いつかない。もはやヨソ人と関わらなくては何もできない。

 ヨソ人に関心を持つことの延長上にボランティア活動や寄付行為などがあるのかもしれない。世界はつながっていて統一のルールのようなものがあるというのは一神教の世界では大前提にある考え方だろう。日本にはそういう考え方はない。似たようなものとしてお天道様があるが、規範性は薄い。だから、かかわりのないものへの関心が薄いのかもしれない。世界はつながっていて、他者を救済することは世界を救うことになるという考えは、日本人にとってはかなりの学習を必要とする考え方のようである。

 経済的な衰退傾向も自分たちさえよければいいという考えを転換すれば好転するかもしれないと考えている。寄付でなくてもいい、他者のために金を使うのだ問う思いが資産家にあれば、世の中はよくなっていく可能性がある。人助けは自分を助けることでもある。情けは人の為ならずとはよく言ったものだ。「冷たい」日本人がこれから何をするべきなのか。実はその行動にこの国の命運がかかっている気がする。

女性候補

 衆議院議員選挙の立候補者のうち政党に所属する女性は全体の18.4%で、均等を求める理念からは程遠いことが分かった。

 与党の自民党は9.7%と全く目標に及ばず、公明党は意外にもそれより低い7.5%とこの国の女性の地位を向上させる思いがうかがえない。それでは野党はどうかといえば立憲民主党も18.3%にとどまっている。

 政党別で女性の比率が最も多いのは社民党で60%である。唯一女性候補の方が上回った。ただし、立候補者数15人の小党であり、解散前の議席数は1で議員となるにはハードルが高い。

 各党とも候補者不足をその原因として挙げているが、そもそも女性を政治家として育てるシステムが各党にあるのか。タレント議員を思い付きで擁立して集票するという方法で女性を使う以外に方法はないのか。政治家として必要な経験とキャリアを用意して議員に立候補させる仕組みを各党が考えていかなくてはならないのではないかと考える。

 女性議員が増えるだけで政治がよくなるとは私は思っていない。大切なのは性別ではなく資質だ。それでも、多様性は必要でありその大きな柱の一つは性別だ。無理に均等にする必要はないが、現状ではなりなくてもなれないという性的ハンディが大きすぎる気がする。

改革、再生、復興

 岸田首相が誕生し組閣人事が昨日のニュースだった。わずかながら世代交代があったことは喜ばしい。女性閣僚が3名に止まったのはやはり人材不足なのだろうか。

 最近の大臣には兼務項目を併記する傾向にある。今回も記憶できないほど多くの肩書きがある大臣が複数いる。本来職掌の中にありそうなものもあり、仕事をすることのアピールなのだろう。

 それにしても再生とか改革とか、そういう名のついている役職が多い。それがいまの日本の現実なのだろう。世間では実際には何もできないとか、短命であるとかいろいろ噂するものがある。国民としてはそのどちらもが国益に叶わないので、世評を裏切ってほしいと願いたい。