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ゆがんだ地図

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 メルカトル図法で描かれた地図は面積や方向が実際とは大きく異なる。グリーンランドはオーストラリアよりはるかに小さいし、南極は草むらのようにつながってはいない。何かを見るときに何を中心に考えるかによって全く異なって見えてしまうということを地図は教えてくれる。

 ロシアはウクライナの一部の州を住民投票の結果を生かして併合すると言っている。占領しておいてその地の住民に投票をさせるという似非民主主義はどう考えても通用しない。たとえば日本に某国が侵略して、この県の住民をあらかた追い出した後に、残った人たちに日本に残るか、それとも自分たちの仲間になるのかと聞いているという風に置き直してみるといい。

 こんな理不尽なことがまかり通るのはロシア、少なくともその為政者が持っている地図はゆがんでいるのだろう。本来ロシアの領土であるべき場所が、こころならずも他国によって支配されている。その不正をただすのだと。私たちの持っている地図とはかなり違う図法で描かれている地図を持っているようなのだ。

 これはこの地域の戦争のことだけではなく、人生の様々な方面で現れる。違う地図を持っている者同士が共存するにはどうすればいいのだろう。それを考えていくべきだ。もしかしたら相手の地図を非難するだけでは目的は達成できないのかもしれない。

国内生産

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 身の回りにある衣料、電化製品などの多くは中国や東南アジアなどの工場で生産されていることは周知のとおりだ。かつては1ドルが75円くらいまで上がったために国内で製造しても採算が取れないというので海外に生産拠点を移したからだ。

 結果的にこの方法は国内のサプライチェーンを弱体化した。さらに様々な技術が海外に流出し、いまでは日本製以上の性能の製品が作られているものも多い。利益重視で動いてきた各企業と、それを監督できなかった政府や関係機関の失敗である。

 コロナウイルス流行で貿易不可能もしくは制限がされる状況となり、ウクライナの戦争で原料確保が難しい状況が生まれ、さらには歴史的な円安が進行する中で、改めて国内生産の意味が問い直されている。日本で作っても利益が上げられるかもしれないと考える企業が増えたようだ。

 エネルギー資源がない我が国にとって、円安の影響は大きい。単に日本で作ればよいということにはならない。ただ、生産拠点を日本に戻せばそれに関係する雇用は生まれる。農業資源なども国産に切り替える方法で新しい可能性が生まれるかもしれない。環境汚染などの問題にも直面することになるが、昭和のような惨状は再現されないはずだ。ものづくりの在り方が変わるかもしれない。

 おそらく、大量生産大量消費の方法ではなく、高品質長期使用、修理による継続使用のビジネスモデルが日本には向いている。ある程度、国内で循環させていけば為替相場のよくないときはそれで対応できるのではないか。さらに、かつての日本がそうであったように独自の進化がなされていけばかえって世界的に評価されるものもできるかもしれない。

葬儀は誰のため

 銃弾に斃れた安倍元首相が国葬されることになった。賛否は分かれる。否定的な意見がやや優勢だ。安倍氏がもし発言できるとしたら、自分の葬儀を国葬にしてほしいだろうか。私はよくわからないがおそらく断るのではないかと考えている。

 国葬は何のためにあるのか。国民が喪にふすためというならばこの行事はやらない方がいい。安倍氏の業績は大きいが、国民の大半には不利益しかもたらさらなかった。つまり、日本経済をその場限りの延命策で持ちこたえさせられたのは大きな功績だが、イノベーションもしばしば発言された女性の活躍も達成できなかった。

 国葬をやることに意味ないかといえば、私はなくはないと考える。これを口実にいろいろなことが始められるのはいいことだろう。統一教会などカルト宗教と政治の関係を見直す機会としてはいい。また安倍氏の死去にかこつけて日本に訪れる弔問使節を外交の相手として活用することは大切だ。

 議員を銃撃してはならない、政治は暴力によってはいけないというメッセージは出るのだろうか。狙撃手の家庭環境には大いに同情するものの、何があっても言論を暴力で消してはならない。それをすれば民主主義は終わるというメッセージはでるのだろうか。安倍氏の功績を評価する以前にこのメッセージを国民にしなければならないが、果たして行われるのか。はなはだ疑問だ。

 葬儀は死者を弔うための行事に見えて、実はまだ生きているものたちが自らの立場を確保したり有利に運びたいがゆえの闘争だ。つまり、棺桶の外側の問題なのである。日本がこの国葬を外交にいかに生かすのかが今後の課題なのであろう。

介護職員の待遇改善は急務

お元気な方を支えたい

 高齢社会が進行する中で介護職の必要性はますます大きくなるばかりだ。ところが介護職員の不足は深刻て、介護する側も高齢者しかいないという状況にある。その原因の一つが介護職への社会的評価が低いことがある。

 高齢者の世話はかなり大変なことは間違いない。私も親の高齢者施設の訪問をして痛感している。人にもよるが幼児よりも手がかかり、しかも手強い。尊厳を保ちながらも、できないことは補わなくてはならない。

 かなりストレスのたまる仕事だ。心をつくして介護しても必ずしも理解されるとは限らない。逆に事実無根の非難がなされることもある。この人に虐待されましたと言われれば、職員の気持ちは折れてしまう。

 その悪循環が続けば介護職のメンタルも持たない。それほど大変な仕事なのだ。それなのに待遇が悪すぎるのはなんとかならないのか。日本人の給料が安いのはまず改善すべき課題だが、加えて職能による評価の再検討も必要だ。大学を出て標準的な能力を身につけることだけに好評価を与えてきた時代はそろそろ終わりにしていい。

 介護職は高度な経験と技能、さらにはメンタルの健全さも要求される。特殊能力が必要とされる仕事であることをもっと評価しなくてはならない。

自動運転

安全な道でありたい

 高齢者による運転ミスの問題は今後ますます増えていくはずだ。私自身の問題としてもやはり、いざというときの脳の瞬発力が残念ながら減退していることを感じることがある。高齢化社会にあってこれは宿命であり、まさに焦眉の急の課題だ。

 自動運転の技術は我が国においては国家的な事業とすべきだろう。完全な自動運転は難しい段階でも、あきらかなアクセルとブレーキの踏み違えがおきたときに対処する制御システムを先行開発し、実装すべきだろう。オールインワンよりも実態にあったものを先にというのはこの場面でも言える。

 例えば駐車場での車の誘導の自動化は設備投資的にも実現しやすいものだろう。コンビニの駐車場に入ったら、あとは自動で駐車スペースに停められる。公道に出ると自動が切れるというのはいまの技術でも可能なように思える。

 逆走を知らせる警報の設置もできるはずだ。GPSの精度はわからないが、道路脇に物理的な誘導装置を設置しておけば解決できそうだ。

 恐らく素人のわたしがこんな戯言を言う前に技術者のみなさんはもっといい考えを持っているはずだろう。それがなぜ実現できていないのかを問題とすべきだ。高齢化社会のなかでどのように安全を保つべきなのかを真剣に考える必要がある。期限はすぐに来る。後回しはできない。

口のある風景

 

歯を見せて笑いたい

 出勤途上、見慣れない風景に気づいた。マスクをしていない人が増えた気がするのだ。もっとも比較的空いた路上のことであり、電車内は相変わらずだ。顔の全面を見ること、とりわけ街の風景とともに見ることが稀になってしまったため、新鮮な感動を覚えた。

 無知を覚悟で言えば、マスク生活は目元への関心を高めたのではないかと思う。アイメイクの技術は格段に飛躍した。結果としてあまり大差のない美人が大量に生まれたように感じる。

 これも語弊を恐れず言えば、どんなに顔の上半分を飾っても不完全なままだ。やはり、鼻や口があって顔は完結するのだ。そして口のある。顔はやはり美しい。これは万人に向けていっている。モデルや俳優はもちろんだが、街を歩く普通の人でも同じだ。

 顔を隠す生活はいつまで続くのだろうか。防疫上不可欠なのは分かっている。ただ、精神衛生上の問題を考えるとこの異常事態からは早く脱する必要がある。

ハードな時代に備えて

岩間の花

 残念ながら日本の将来を悲観的に考える人は多い。これまで得意分野とされていた分野がふるわなくなり、結果として競争力が落ち込んでいる。高齢化や自然災害リスクなど不可避の負の要因が多数存在することも悲観論に拍車をかける。ハードな時代が来ることは避けられそうもない。

 不安な時代には想定外のことが起きやすい。犯罪の数が増えたり凶悪化する可能性がある。犯罪とまではいかなくても精神的な闇にとらわれる人が増えてくるのだろう。現在すでにその傾向を感じるが、より顕著になっていくはずだ。

 そのような時代を改善する方法はないのか。政治や経済に関する分野には叡智を期待したい。危機的状況にあるというコンセンサスは共有されつつある。立場がある人が決断を下しても非難されることは少ないだろう。非難されても国のためになると思うことは提案してほしいのだが。

 もう一つは心の安定をもたらす文化的な側面の発展だ。優しさや思いやりをテーマにしたものも、破れても立ち直るという打たれ強さを示すことも求められるかもしれない。押し付けでは意味がない。そういうものが必要となる時代を見据えて創作するアーティストが現れてほしい。

 難局を乗り越えられるかどうかは共同体の総合力が関係する。そういう時代に生きていることを自覚して自分のやれることを少しずつやっていくしかあるまい。

森英恵さん逝く

 日本の代表的なファッションデザイナーの森英恵さんが逝去されたというニュースがながれた。ファッションにはあまり興味はないがそれでもハナエモリブランドは知っている。蝶のデザインの模様は印象的だった。偉大な先人の功績を讃えたい。

 実はわたしにとって森英恵のブランドは、表参道にショップができたことが縁の始まりだった。といっても小学生にとってはやたらと入りにくい服屋で値段が高すぎるのでいつも外からみるばかりだった。もっとも当時の表参道には海外のブランドショップが並んでいていたために、その中では親しみを持てるものであったと記憶している。

 新聞記事によれば、森英恵氏がデザイナーになったきっかけは海外で日本の衣服が安価な量販品として扱われていたのをみて心を痛めたことにあるという。すこし前の我が国が中国や東南アジアの製品を見下していたのと同じだ。日本製品に付加価値をもたらしたのはデザインであったという。

 印象的な蝶の模様もオペラの蝶々夫人に代表される可憐だが運命に逆らえない弱い存在からの脱却を秘めるものであったかもしれない。日本の伝統美が現代にも通用することを示してくれた。後進のデザイナーの目標にもなっていたと考える。

 価値を創出する人がこれからの時代にはとても大切になってくる。服飾品デザインはその象徴であるが、それ以外でもさまざま場面でデザインは大切になってくるのだろう。

メニューはございません

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 外食のデジタル化でもっとも顧客にとって顕著なのは注文の仕方である。かつてからそういう店はあったが急速に増えているのがタブレットを客に操作させる方法だ。初めてそういう店に入ったときには大いに驚いたが、いまはかなりの頻度で出会う。

 その手の店の中にもいわゆる紙のメニューを置いている所と全く置いていない所とがある。置いていない店はウエイトレスは席の案内くらいしかしない。後はタブレットでお願いしますと言って去っていく。もっと進んだ?店はタブレットさえ置いていない。自分のスマホかなにかでそれを読み取って店のWEBにアクセスし、そこから注文してくれというのだ。こうなるともうテーブルの上にはQRコードが印刷された紙切れ一枚しかない。

 デジタル化はもちろん重要だ。特に人手不足かつ収益性の低い外食産業においては必要だろう。ただ、なにかが切り捨てられた気がする。それは熟練されたサービスであり、安心感であり、安らぎのようなものだろう。もちろんうまい料理が食べられればいいのであり、それが安ければなおいい。そのための手段として接客のデジタル化は不可欠なのだろう。それが嫌ならば、接客に長けた社員を多数雇用する店を選ぶべきだ。残念ながら、そういう店はどんどんなくなっていくし、あってもかなりお高い店となる。サービスはタダではないのだ。

 では、これからの外食産業はどうなっていくのか。まず、安価を維持するために徹底的な合理化を進めていく路線がある。これは今の主流だ。セントラルキッチンようなところで調理された半製品を冷凍や真空包装で各店舗に届け、調理場では最低限の光熱費で最終調理をする。特別な技能はいらないので、安価な報酬で調理師を雇えばよい。ウエイター・ウエイトレスは高校生か、高齢者を雇用してすぐに交代させる。必要最低限しか雇わない。バイトの単価が上がらない前に解雇する短期契約でつなぐ。接客はほとんど機械化しているので、そこそこ愛想がよければいい。片づけ、食器洗いは最低限にして多くは機械化する。いまでもその気はあるが、自動洗浄のレベルではよくても、心情的にはもう少し洗ってほしいという食器が来ることがある。しかし、この種の店では今後もそれは改善されず、質的向上はまずないだろう。

 もう一つの路線はやたらと高級化していくことだ。安価なチェーン店と同じことをしていてはとても勝てない。そこで店員はいずれも志の高い正社員をそろえ、最高級の接客をする。食器の質、洗浄の度合いなども洗練される。もちろん料理はその都度、シェフが作る。季節によって少しずつ味が異なるのは、シェフのさじ加減がかわるからだ。顧客はとても幸せな気分になれる。チェーン店で同じ名前のメニューを頼むと一桁安い値段で食べられることはわかっていても。

 極端に書いたが、格差が広がる日本社会の未来として十分にありうることだ。外食産業はそれが分かりやすいが、こうした違いは各所に現れるだろう。IT化は人々を全体的に豊かにするという人もいるが、少なくとも過渡期においては格差を助長することになる。

 私たちは振り回されないことが肝心だ。便利なものは使い、便利でも気分に合わない者はあえて使わないという判断をしていかなくてはならない。デジタル化が世の中を素晴らしいものにするという単純な論理に乗らないことだ。

何を学ぶか

 37年前の今日、羽田空港から伊丹空港へ向かった日航機123便が群馬県多野郡上野村の高天原山の山中に墜落した。墜落後に御巣鷹の尾根と名付けられた場所である。死者520名は現在まで単独機事故の死者数として最大の犠牲者だ。生存者はわずかに4名。悲惨な事故だった。

 この事故の原因は墜落の7年前に伊丹空港で起こした尻もち事故のあとの修理が不完全であったことであると推定されている。後部にある圧力隔壁が破損したことで、垂直尾翼と油圧系統が破損し、事故発生から墜落までの迷走飛行したという。不安定な迷走飛行中で書かれた乗客の遺書が見つかったことは当時の大きなニュースであった。いま考えても痛ましい。歌手の坂本九さんが乗客の一人であった。

この事故の原因は先述したように修理が不完全だったことにある。ただ、修理後もかなりの時間飛行しており、その間には軽微な不具合しかなかったという。結果的にこれが事故を引き起こしてしまった。少しずつ壊れていく現象を感知することは技術的に可能であったのかどうかは素人には分からない。ただ、事例から学ばなくてはならないことはある。犠牲者の鎮魂ができるとしたら、それしかない。

 まずは技術を過信してはならないということだろう。航空機のようなハイテクでなくても身近なものであっても同様のことが言える。修理のあとのモニタリングをしっかりとしなくてはならなかった。何かが起きたときに様々な可能性を考える必要があるということだ。

 もう一つは非常時の振る舞いをしっかりと考えておくことだ。もちろん、同じ状況に立ったものでなければわからないことがある。理屈をこねても現場でなくては分からないことがあるのは確かだ。でもその前にいくらでもシミュレーションを重ねておくことはやはり大切だろう。

 墜落の直前まで操縦士は最大限の努力をしていたことはフライトレコーダーなどの記録に残っている。最後に何をするかが人間にとっては大切だ。大いに尊敬する。ただ、そのような事態になる前になにができるのか。この事故は今でもその意味を私たちに問いかけてくる。