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変装ではなく変身を

 ハロウィンが近い。このところコロナ自粛が続いていたが今年はどうなるのだろう。単なる乱痴気騒ぎならばやめた方がいい。

 ハロウィンはアメリカを中心に行われている子供の祭りだ。収穫祭と祖先崇拝とがその根本にあるという。原始的な宗教が背景にある。それがなぜか日本では大人が参加する変装大会のようになってしまった。死者のふりをして町を練り歩くというのは、日本の祭りにも通底する何かがある。ただそれを意識することは少なく、先にも述べた仮装パーティーとなっている。

 大人が喜んで変装をしようとするのはなぜだろう。もうそこには信仰的なものはない。自分のために変装をしている。現状に甘んじてがんじがらめになっている状態をなんとか打破したい、という想いは変装という行動で晴らそうとするのだろう。実際は顔に何を塗ったところで状況に変化は起こらない。

 本当に必要なのは一時的な変装ではなく、変身することだ。それにはかなりのエネルギーがいる。今と違うなにかに変わることを目指していればいつかは変われるはずだ。それができてこそ、自己肯定感が得られる。とりあえず覆面してみて、そのうえでもっと大きな変化を期待し続ける。そうすればいつかは変身もかなうはず。そのように考えている。

陰性証明

 コロナウイルスに関する陰性証明をもらいにPCR検査を受けた。翌日、メールでお墨付きを受けた。墨どころかインクも使っていないが。

 勤務上の要請で陰性の証明が必要になったので受けてきた。検査所では明らかにアルバイトの皆さんがマニュアル通りの説明を繰り返していた。検査所と書いたが雑居ビルの一画を借りたものでおそらく様々な遍歴があつたと考えられる老朽化の跡が見えた。

 無事に手に入れた証明書だが、職場ではスマホの画面を提示すればいいと言われた。でも、おそらく私は印刷して提出することになるだろう。証明書は紙でなくてはならないという思い込みから私はまだ抜け出せない。

芸能の海外展開

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 日本の芸能界は国内では有名でも海外では通用しないということが多い。これは日本国内で十分な市場があり、満足できる成果が出ていたからに相違ない。それはそれで幸せなことだと思う。しかし、今後のことを考えれば海外展開を考えるべきではないか。

 いわゆるシティポップと呼ばれる日本の歌謡曲が海外で評価されているらしい。日本の音楽は海外の様々な要素が取り込まれており、その上に日本テイストが盛られているため独自の楽曲になっているという。それが海外では目新しく感じられ、評価される原因となっている。さらにアニメに関連する音楽やファッションなどはユニークな日本文化と認識されている。ならば、これらを海外でパフォーマンスするアーティストがもっと出てもいいのではないだろうか。

 韓国は芸能界が一定の成功を収めている。国家の補助も奏功しているかもしれないが、背景には国内だけでは十分な利益を上げられないというという制約がある。だから、海外で売る。グループに必ず、英語や日本語、中国語ができるメンバーを入れる。初めから海外展開を前提とした活動をしているのだ。この考え方は日本には今まではなかった。外国語ができる芸能人は特別扱いされ、できすぎると親近感がない存在になることさえあった。実は中国語ができても、フランス語が話せてもそれを武器として活動するという者は少なく、そうしたスキルは隠し持つものであった。日本には十分なファンの数がおり、利益を上げるのにリスクをとって海外展開する必要はなかったのだ。

 これからはわが国も海外に展開せざるをえない。人口減や経済の低成長による購買力の減退は、生活必需品以外の製品は手に入れようとしないことにもつながる。そんな中でアーティストが生き残る策としてユニークさを維持しながらグローバル展開をすることにある。少数ながらそういうアーティストが現れつつある。彼らのことをもっと知るべきだろう。

戻ってきた賑わい

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 今日は東京の都心に出かけた。好天であったせいかかなりにぎわっていた。外国人らしい姿も多くもとの街の賑わいが戻ってきたようだ。経済的な停滞は大きな問題だが、少なくとも都心の様子はかつてと変わらない。

 コロナウイルスの克服にはいまだ至らず、感染者の数も多いままだ。しかし、インフルエンザのレベルの警戒感になりつつある。特効薬がないのは同じだからだ。油断はできないが、あまりに警戒しすぎてもいけないということだ。世論がそのように流れてきている。マスクを外す人も出始めている。それを非難する人も少しずつ減りつつある。

 私はといえば、マスクをつけることがすっかり習慣化してしまった。つけないでいると何か不安だ。感染不安ではなく、様にならないという思いがしてしまうのだ。これも問題だと思う。いろいろな意味でこの数年間で生活や精神状態は激変してしまった。

停電

停電は困る

 帰りの電車が停電のため止まってしまった。停電が理由というのは個人的に初めてだ。

 原因は分からないがこのところこのような案件が増えてきている印象がある。基本的な技術やメンテナンスの能力が低下しているのではないか。この件だけで決めつけるのは無意味だが、心配である。

 高度な技術にはいざというときに使えなくなるという可能性もある。それを見越して物事を計画しなければならないということだろう。第2第3の手段を確認しておかねばなるまい。

自転車道の整備を

 自転車の運転について取り締まりを強化したというニュースに接した。基本的には賛成であるが実態とあっていないところもあるのが問題である。

 歩道を駆け抜ける自転車は非常に危険だ。音もなく近づき、人の間をすり抜けて行く。一歩間違えば大事故だ。実際、自転車と人の事故は多く、死傷事故になることもあるという。

 では車道を走れというがこれも無理がある。車道は排水のためなのか両端か低くなっており、自転車が走る部分は斜面化している。また路上駐車があれば中よりに入らなくてはならない。かなり危険だ。

 理想的には自転車専用レーンを造るべきだろう。これから造る道には義務付けるといった方策がほしい。道幅の制約があるのですべてには施せないが。始めることが大切だと考える。

誰が縛っているのか

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 中国では言論統制がなされているとはよく報じられる。特定のニュースが意図的に報じられないとか、ネット検索ができない用語があるといかいうことだ。しかし、このインターネットが普及し、人々の国際的な往来が活発なグローバル社会においてその程度で統制などできるのか。いつも疑問に思っている。

 習近平国家主席の異例の長期政権の中で、言論統制が進行しているといわれる。しかし、日本を含めて海外に渡航する中国人は多い。また高学歴かつ、高度な技術力をもった人材も多数存在している。かれらが統制や検閲の存在を知らないはずはなく、実際に海外で目にしたことが中国の国内での知識と相違することなどすぐに分かるはずだ。それなのになぜ統制が効いているのだろう。

 為政者による技術的な情報統制には限界がある。処罰を重くしたところでいずれは破綻する。なのにそれがいつまでも進行しているのは、縛っているのが政府ではなく、国民自身だからなのだろう。つまり、自分自身のアンテナをへし折り、聞こえないふりをすることで海外の影響を食い止めているのだろう。その下地は教育にあるのかもしれないし、政府の意向にそって生活をするものが社会的成功をおさめ、反するものの陰惨な結末をいくつも目にし、耳にしているからかもしれない。縛っているのは自分自身なのではないか。

 中国のことを想像で言ったが、これは日本人にも言えることだ。言論の統制などないと思っているが、さまざまな不文律はあると言われている。これが注意深く意識から外される。自由に発言しているかのように見えて、その枠組みのなかで思考し行動する。はみ出すことを自主規制しているのかもしれない。

 言論の統制というものは意外にも簡単に達成できることになる。何が原因で人は口を閉ざすのか。目の前の異常事態を見逃すのか、政府の圧力という単純な判断では本質は見えない。

You can’t miss it.

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 外国人の入国者が急増しているようだ。水際対策を緩和したことで日本はお安くお得な観光地になった。何度も書くが外国人の立場になれば今がチャンスだ。自国のインフレの影響が生活を苦しめる前に日本で憂さ晴らしをしておこう。

 そんなわけで外国人に道案内をする機会も増えるかもしれない。最も最近は英語ができる日本人は増えているので大丈夫だと思うが、私はちょっとおぼつかない。いや大分不安だ。英語は長い間学んできたが、話す方は特にできない。いろいろな人に聞いてみると、会話力は実際に話す機会がないとつかないという。いくら本で学習しても実際に話す機会がなければ習得はできないというのだ。逆に書けなくても文法が分からなくてもとにかく話せるという人はいる。確かに日本語の文法を理解して日本語を話している人などごく少数だ。

 道案内をした後の決まり文句がYou can’t miss it.であることは知っている。そこまで案内ができるだろうか。自分のミスの方が心配になっている。

近江鉄道無料の1日

近江鉄道

 10月16日、琵琶湖東岸を走る近江鉄道が1日運賃を無料にすると発表して話題になっている。他聞に漏れず赤字経営の地方鉄道である。まさに出血覚悟のサービスであるが、目的は乗車体験者を一人でも増やすことにあるらしい。

 地方で生活をするとすぐにわかるが、鉄道はあるとありがたいがめったに乗らない。車があるので駅までわざわざ行くのは面倒であり、一時間に数本しかない便を待つことができないのだ。乗らないから経営は苦しくなり、さらに便数が減る。悪循環である。独自経営ができずに第三セクターとなって命脈をようやく保っている路線が大半だ。

 1日無料とは大胆だが、損して得取れの商人の心意気が感じられる。とにかく、鉄道の存在の知名度を上げ、乗車経験から客に戻ってきてほしいということなのだろう。継続的な効果があるか否かはなかなか実証的できないが、やる意味はある。

 鉄道やバスは路線を新設するのは非常にたくさんの手続きがいる。失ってしまうと取り戻すのはかなり難しい。維持するのにも莫大な資金がいる。あまり効率的な商売ではないのかもしれない。ただ、地域の利便性を確保することは計り知れない利益がある。交通会社のみに任せず、受益者が様々な形で支援ができる方法を考えなくてはならない。銚子鉄道のように鉄道業務以外で収益を狙う方法もある。大都市圏ではなく、しかも観光資源に乏しい地域の鉄道は苦しい。しかし、廃線になると多大なる不利益が出るという鉄道はいくつもある。


 それぞれの鉄道がどのように生き残るのかを考えることはこれからの日本の在り方を考えるうえで非常に参考になる。また、我々は部外者ではなくあくまでステークホルダーとして参加すべきなのだ。

代弁者

Who is your leader?

 いわゆるオピニオンリーダーという存在が不在になっている今、それでも人は自分の代弁者を探そうとしている。それがどんなに怪しい存在でも自らが代弁者と認めれば、小異は省みられなくなる。これは少し危険だ。

 不安定で不透明な時代にあり、しかも閉塞感が漂う。自分の努力はなかなか報われず、あくせく考えるより、気の利いた発言ができる相手に同調してしまう。そういう状況にいまはある。本当にその人の発言は適切なのか。その発言の背景にあるものはなにかといった基礎的な手続きを飛ばし、巧言令色に飛びついてしまう。

 情報社会はこうしたまやかしを排除できるはずだった。適当な発言をしてもすぐに嘘が露呈するはずだ。しかし、実際はそうではない。情報の洪水の中で個々の見解を吟味することはなくなり、手っ取り早く理解できるコメントを信じ込んでしまう。

 こうした事態はかなり危険だ。心地よい表現はしばしば毒を含んでいる。その時は良くてもそれが蓄積すると社会悪に転じる。独裁者のような存在を生み出した時代はいつもそうだった。現代はそれに近いのかもしれない。

 不器用だが自分で考える人をもっと称えるべきだ。メディアで発言の多い人物の発言を疑うべきだろう。気の利いた発言を繰り返す人物はきっと何か裏がある。彼らは言論で商売しているタレントであることを忘れてはならないだろう。