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東急百貨店本店閉店

 来年の1月末日で渋谷にある東急百貨店本店が閉店することが発表されている。併設されているbunkamuraも休止するということだ。一つの時代が終わる。

 渋谷には長らく駅前の東横店と道玄坂の先の本店とがあり、東横店がいわゆるデパートであり、本店はブランドショップとして少し上の商品を扱うというイメージがあった。今やどちらもなくなることになる。その代わり、ヒカリエやスクランブルスクエアといった複合的なビルが幾つも建っている。百貨店という業態から転換しているのだ。

 すでに既存の百貨店が一種のテナントショップになっているのが現状だが、さらに一企業の直営というスタイルを放棄して専門店の集合体という形でしか勝負ができなくなっているということになる。付加価値をどのように創出するのかがデパートの唯一の生きる道のようで、イベントや劇場、映画館、美術館などとの複合施設にすることも行われている。東急百貨店本店もその路線を進んだが、時代の波には勝てなかったようだ。

 子どものころは本店は敷居が高くて入るだけで緊張した。大人になってからは美術館や映画館に何度も行くことになった。再開発の上、別の施設になるとのことだが、いまのスタイルがなくなることは寂しい。

化石賞

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 今回も日本に化石賞が送られた。これは化石燃料から脱しようとする世界の情勢から取り残されていることを知らしめるための不名誉な賞である。批判であり皮肉だ。

 日本はこの賞の常連であり、不名誉な状態を続けているということになる。ただ、それにはいくつかの事情がある。日本はエネルギー資源の乏しい国でありながら、先進国としての立場を維持するための産業活動を続けるのにはエネルギーの確保が不可欠だ。二酸化炭素排出を抑えるために欧米の多くは原子力にシフトしている。それは日本はとれない選択肢なのだ。今回批判された事業の一つに石炭にアンモニアを融合して二酸化炭素の排出を抑えようとする技術が挙げられている。石炭の掘削を正当化する方法として認められないとされたのだ。

 日本には水素エネルギーなどの新技術の開発や、そのほかの基礎研究を続ける科学者がいる。彼らの成果が世界に貢献する日が来れば、化石の汚名は返上できるかもしれない。それまでの間、何ができるのかを考えるべきだ。

切り取り

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 動画サイトなどで再編集して必要なところだけをつなぐことを切り取りというらしい。日常的な言葉なので新鮮味はないが、あきらかに新しい用法だ。かつてならそうは言わなかった。

 葉梨法相の発言が問題になっている。法務大臣の仕事は死刑許可のハンコをおすだけだと言ったと報じられた。これに本人は反論して自らの発言のテープ起こしを披露し、「法相になり3カ月になりますが、だいたい法相というのは、朝、死刑のはんこを押しまして、それで昼のニュースのトップになるというのはそういう時だけ、という地味な役職なんですが、」と述べ、後段で外務省の仕事と比較しながら(武井俊輔副外相のパーティーでの発言だった)法務省の仕事も国家を支える仕事でありながら、集票には結び付きにくい役職という共通点があるので、支援していただきたいと述べているという。

 この釈明を聞くと、死刑の認可という業務の重さに対しての認識がないことを再確認してしまうのである。犯罪者といっても人権を有するものであり、場合によっては冤罪の可能性もある。その最終チェックを司法を通過して行政に任されているというのは、それほど国家が人に死を与えるのには重大な意味があるということなのだろう。話の枕として置くこと自体が不適当であり、特に言葉によって人の行動を規制する法務の代表にはふさわしくない発言だったと言える。

 政治的な問題は私には分からない部分があるので、想像で述べるのはここまでにしよう。切り取りの話題に戻れば、これだけほとんどの言動が動画や音声で記録される時代において、立場ある人が公的な場で発言する場合は、どこを切り出されても問題がないように配慮した発言が求められる。これには論法の工夫がいるのかもしれない。本当に言いたいことと、言いたいことをいうための材料が明らかに区別できるような言い方をしなければ、発言者の真意は届かない。また悪意ある者に利用される可能性がある。

名画への八つ当たり?

 ヨーロッパの美術館で名画に液体をかける過激な活動が相次いでいる。人類の共通の財産になぜそのようなことをするのか。

 これが至って正常な人たちの活動であるということに注意しなくてはならない。石油掘削に抗議するというのだ。環境保護活動なのだが、そこに温暖化対策の進まない現代社会への批判があるという。それがなぜ美術品の破損に向かうのかは飛躍があるが、要するに現状に対する強い憤りを示したいということなのだろう。

 環境保護運動というのは得てしてこのような方面に走りやすい。捕鯨船に対する攻撃も明らかに行き過ぎたものであったことを思い出す。彼らがそういう行為に走るには現状がなかなか変わらないという焦りからくるものと思われる。彼らなりの正義を通すための手段ということだ。

 しかし、その表現の方法は間違っている。美術品をけがしても環境保護団体への理解は深まらない。別の方法をとるべきだろう。悪質な方法は敵しか作らないからだ。

 それにしてもなぜそこまでして世間に訴えたいのか。何を目指しているのかについては、私としても冷静に考えなくてはならないと思っている。

進路の複線化

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 日本の学校制度は様々な選択肢を用意してあるが、実際には大学を卒業したホワイトカラーが他を圧倒するという社会の在り方を維持するように設計されている。いわゆる「学力」で振り分けられた「エリート」が多くの利を得るというやり方だ。

 もちろんそういう方面のエリートは必要であろう。情報処理に長け、高度な判断力を持つ人材は必要だ。特にマクロ視点やメタ認知ができる人材はこれからますます必要になる。大学はもっと真剣に勉強をするところになるべきだし、そこを卒業できたものにはそれなりの報酬を用意するべきだろう。でも、それだけでいいのだろうか。

 人間の尺度は今の様な学力試験だけではないはずだ。人の価値はもっと多様に評価されるべきだということは多くの人が感じていることだろう。例えば職人といわれている人々はそれなりの評価を得るべき存在である。さまざまな技術を支えている人々にも評価すべき人がいる。そういう人が一般大学卒である必要はないし、大学を卒業することが社会的ステータスの基準になること自体が間違いなのではないか。

 もし、今までとは異なるタイプのエリートを尊重する方法を考えるならば、場合によっては職業高校の評価をもっと上げる必要があるのかもしれない。あるいは学校とは別組織の教育機関に社会的な評価を与えることが必要だろう。技術者や芸術家といった人材は大衆教育にはなじまないかもしれない。しかし、彼らの地位を上げることでそれを志す人は増え、結果的に技能の底上げができる。結果として社会全体の利益になる。

 このようなことは昔から言われている。私の独創ではない。しかし、これだけ情報化社会になり、グローバル化がすすんでも一向に人間の評価の多様化が起こらないのはなぜだろう。もしかしたら、こういうことからイノベーションは起こるのではないか。

公共性と営利性

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 社会が変動し、なおかつ縮小傾向の経済状況にあって、日本の状況は不安定になりつつある。一部の資産家が社会的な影響力を持つ組織を支配し、自らの営利目的に従って社会を動かすことも実現しやすくなっているのかもしれない。

 最近よく言われるのが効率性とか生産性という言葉だ。日本の組織は生産性が低い、それは不要な人材や競争力の低いセクターの団体や企業を保護しているからだという論調が多い。これには検証がいる。本当にそうなのだろうか。確かに国際的競争力は低くなりつつある。それでも総体的には強固な組織を維持できていることにはまったく意味がないのだろうか。

 この手の論にはどこかに誇張が隠されている。そしてその裏には意図的か無意識なのかは分からないが一部の優位な人が損をしないような仕組みが隠されている。営利の追求こそが社会をよくするという飛躍が巧みに織り込まれている。ここには大きな陥穽が待ち構えている。

 その一つが公共性の問題だろう。果たして営利性の追求だけで社会は成り立つのか。営利追及の中に公共性の視点がなければ、少しづつ社会は壊れていくのではないかという危惧を私などは持ってしまう。アメリカの巨大企業が世界に大きな影響をすでに持っているのは周知のとおりだ。各企業にはいまのところ公共性に対する配慮がそれなりになされている。でも、どうだろう。その組織のいずれかに何らかの危機が訪れたなら、公共性を維持できるだろうか。最近のTwitterの動向をみているとどうも怪しい気がしてならない。

 我が国が(おそらくアメリカや中国など以外のどの国でも)大切にしなくてはならないのは、そうした巨大な営利活動に翻弄されないことだろう。また自国の企業も単なる資本追求の段階を脱し、社会的公共性を意識していくべきだろう。そのためには企業や組織のリーダーのみならず、多くの国民の意識をこうした考え方にしていく必要がある。

 産業界ではパブリックアフェアーズなる概念で公共性が語られる。これは公共性のなかに商機を見出そうという裏の目的もあるようだ。ただ、単一の企業や組織にとっての利益ではなく、社会的な目的を考慮に入れようとすることには賛同したい。

見せ方

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 スタジオジブリの作品の世界観をテーマパークにしたジブリパークが開園したという。日本のディズニーランドとなるのか短命で終わるのかはこの後の見せ方によっている。

 愛知県長久手市の愛・地球博の会場跡地の公園に作られたジブリパークは一部の施設だけが開業した。ジブリ作品の世界を再現した施設が中心で、乗り物などの設備はないようだ。ジブリ作品を見たことがある人であれば、作品世界の中に入り込んだような錯覚を得られるならば、行く価値はある。ただ、それだけであると繰り返し訪れることはないかもしれない。

 この中にはオリジナル作品を見せるコーナーもあるという。ここだけでしか見られない短編作品だ。これが定期的に変更されるのならばリピーターを生み出す可能性はある。媒体販売やネット配信などもしない。行かなくては見られないものが必要だ。新作を作り続けることが無理ならば、過去の作品のメイキングや再編集でもいいだろう。いわゆるディレクターズカットならば意味がある。

 さらに単にかわいいキャラの並ぶ場所だけならば、やがて飽きられるかもしれない。ジブリ作品には隠されたメッセージがあるものが多い。それを分かりやすい形で示すものもいいだろう。ディズニーランドにあるスモールワールドの展示は世界平和の意味を分かりやすく示している。こうしたものはむしろジブリ作品の方が豊富だ。これをわざとらしくではなく作品世界を傷つけない範囲で示すことも忘れてはならないだろう。テーマパークは単なるモチーフ展示ではない。

 日本のテーマパークのほとんどがうまくいっていない。それにはいろいろな要因があるが、コンテンツ的には申し分ないジブリパークは成功する可能性は多分にある。世界から人を呼べる場所になる可能性もある。ただ、これまでのような単なるキャラを並べる展示とどこにでもある乗り物しかないのなら短命になるかもしれない。要は見せ方による。うまくいけばスポンサーもつく。私は一度見てみたい気がしている。

文化

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 日本では文化の日という祝日がある。そしてそれは今日だ。文化となにかを考える一日ということになっている。

 11月3日は明治天皇の誕生日としての天長節、崩御後は明治節であった。1946年のこの日に日本国憲法が公布され、憲法の精神に文化の尊重があることから1948年から文化の日となった。5月3日の憲法記念日は1947年5月3日に施行されたことによるものという。ならばこの文化とは憲法と関連する由来を持つものであることになる。

 憲法第25条には、
(1)すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2)国は、すべて の生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 とあって、文化的なという言葉がある。この条文は生存権と分類されるものであり、最低限度、つまりここまでは死守しなければならないという枠組みに文化が使われていることになる。

 換言すればただ生きているだけではなく、衣食住が足りている身体的安全が確保され、なおかつ精神的な豊かさもなければならないというのだろう。ここでいう文化は芸術、レジャーという範囲だけを指すものではなさそうだ。もと切羽詰まった問題も含む。例えば個人の生きる価値を見い出せるかとか、多様性を認められるかといったことも含まれそうである。生存権の規定は第2項の社会保障の問題と深く関連しており、しばしば訴訟の根拠とされている。

 文化という言葉の持つ幅広さはいろいろな解釈を生み出す。もともとの漢語の語義としては教養に近い概念である。それが西洋の概念である精神向上のような側面を融合したことで複雑になった。今使われている文化とは一定の社会集団のなかで共有されている知識や行動様式、生活様式などのことを指している。地域文化のように場所で、また若者文化のように世代で共有する場合もある。江戸文化というときは時代に関わる。様々なくくりがあってそれらが複合することもある。

 共有されていることすら気づかないことも文化と称されることもある。食文化などは同じ集団の中ではほとんど気づかれないが、旅をするとそれが文化であることが表面化する。その他の要素もほかの集団にであって意識される。カルチャーショックという言葉がそのとき使われる。

 生存に欠かせない文化とは何か。これらを組み合わせると、ただ生きているというだけではなく、自分の属する集団の中で当たり前だと思われることができることになる。自分とは異なるやり方をしている人たちがいることも知り、それを寛容する。それらが果たされなくては生存していることにならないということなのだろう。

群集事故

 ソウルの梨泰院で起きた群集事故に驚いている。不幸にも命を落とされた方々のご冥福をお祈りしたい。また、なぜこのようなことが起きたのかしっかり検証していただきたい。

 今回の事故原因として現時点で報道されているのは有名人のもとに行こうとしたことが、群集心理を生み出したという。群衆は理性を失いやすく衝動的になりやすい。一度動き出すと止まらない。

 こうした事故は世界中で起きている。日本でも神戸の花火大会で死亡事故が起きている。過去の事例の多くはイベントや宗教的行事の最中であり、人々が興奮状態にあることだ。冷静さを失うことによって危険性が増す。ハロウィンが事故の引き金となったことは冷静さを失いやすい行事であることを意味する。

 隣国の事件として看過すべきではない。同様なことはいつでもどこでも起こる。一度起きてしまうと制御は難しい。どうしたら防げるのか。個人の振る舞いにかけるしかない。せめて日ごろから群衆心理のなんたるものなのかを知る努力をするべきだ。

軍艦

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 子どものころ軍艦のプラモデルを組み立てるのが好きだった。ウォーターラインズという喫水線以上の部分でできているモデルで旧日本海軍の戦艦や巡洋艦、駆逐艦をいくつも作った。いまではなぜそんなことに小遣いを費やしたのかと思うこともある。

 昭和の代表的なアニメの宇宙戦艦ヤマトも、その前の特撮ものに出てくるさまざまな「艦隊」も子供の時はあこがれの的であった。絵にかいたりプラモデルがあれば作り、高くて買えないものは紙や木でまがい物を作った。それが最終的に誰かを殺すための兵器であるという事実を格好よさは簡単に跳躍した。

 幸いにも私が生まれてから軍事的な戦争はなく、軍艦の出撃することもない。ウクライナ戦争でロシアの巡洋艦モスクワが戦没したというニュースを聞いてからまだ軍艦というものが実際に機能しているということを再確認するほどである。

 軍艦は人間の負の部分の塊のような気がしてならない。何のために巨大な殺人兵器を作らなくてはならないのか。それが人間の限界を見事に具現化してしまっている気がするからだ。戦わなくては自分を維持できないという残念な現実からそんなに簡単に解脱できることはないと思い知らされるのだ。

 横須賀や横浜で自衛艦や護衛艦をみると昔のように素直に興奮できない。もちろんその艦船に乗って最前線で国の安全のために命を懸けている自衛官や海上保安官の皆さんには心から感謝を申し上げたい。その心身にかかる圧力に耐えて責務を果たしていることに敬意を表したい。

 それはそれとしてやはり兵器を積んだ巨大な武器から私たちが解放されていないということに悲しさを感じてしまう。正直に言うと今でも護衛艦はかっこよく感じるが、その中にはかなりの哀調が含まれる。