タグ: 社会

林間都市

中央林間と聞けばこのはずだけれど

 東急田園都市線の終点、小田急江ノ島線の停車駅に中央林間がある。いまは住宅と商業施設が並ぶこのあたりによくある町だ。なぜ林間なのだろう。しかも中央の。

 ネットで検索するだけでもある程度の謎は解ける。戦前の小田急が線路敷設と宅地開発をセットにして行った都市開発計画であったのだ。阪急や東急の成功例をビジネスモデルとしたものだった。

 緩やかな丘陵に雑木林が並ぶ地域を開発し、現在の南林間駅あたりを拠点として入居者を募った。鉄道運賃の無償化などを折り込み、林間都市をなのってイメージアップしたのだという。当初の駅名は南林間都市駅だったという。ところが、当時としては都心部から遠すぎたことや、戦争の影響で計画は破綻し、駅名から都市が取れてしまったという。結果として林間という不思議な地名だけが残った。

 その後西進してきた東急が中央林間を終点にしたことで新たな局面を迎えた。中央林間から渋谷まで、さらには東京メトロ半蔵門線に始発駅として利用できる利点が生まれたのである。新宿にも一本で出られる。一度は頓挫した都市化がなされる。東急の田園都市計画の末端として。

最近できた新しい出口

 駅名が中央林間都市駅に戻ることはないだろうが、皮肉にもそう名乗っていたときより遥かに都市化しているのが現況だ。人口減少が進んだ未来にこの付近は都市でいられるのか。あるいはもとの林間に戻るのか。答えは誰にもわからない。

広島平和祈念式典

 広島の原爆忌である。平和祈念式典の中では松井一實広島市長は、トルストイの言葉を引用しながら、戦争の無意味さを述べ、ロシアを念頭に核兵器を使用することで勢力を維持しようとする考えが間違っていることを訴えた。また日本のNPTへの参加を要望していた。

 今回の式典では広島出身の岸田首相の発言が注目された。被爆直後の悲惨な状況が詳細に述べられたのは異例であった。それとともに核兵器のない世界を目指すことを述べた。ただ、核兵器禁止条約については触れらえず、思い切った日本の立場の主張には至らなかった。広島出身の首相でさえも踏み越えられないものがあるということが分かった。

 グテーレス事務総長は核兵器を保有する国への強い訴えがあった。核を持たない国に対してそれを使用したり、使用することをちらつかすことはあってはならないと明確に述べていた。

 ウクライナ侵攻が続く中で、日本としてできるのは平和の意味を訴え、その具体的な方策を示すことだろう。どうもその役割を十分に果たしているとは思えない。

 なお、中継の音声にはこの式典を妨害しようとする団体の騒音がかすかに拾われている。平和を願うことすらかなり難しいということはこの事実だけでも明らかだ。我々はよく考えなくてはならない。

Photo by mododeolhar on Pexels.com

終戦直前の悲劇

サトイモの葉に隠れて

 中学生に教える教材としての小説に山川方夫『夏の葬列』という短編小説がある。疎開先で敵艦載機の機銃掃射に遭遇し、自分をいつも助けてくれた姉のような人を恐怖のあまり突き飛ばし、結果的に死に至らしめたことへのトラウマが描かれる。過去との決別のために悲劇の地を再訪した主人公は新たな悲劇を知ることになってしまう。掌編小説としては完成度が高く、限界状況での人間のふるまいやその後の人生観の変化などが分かりやすく描かれている。

 この小説を何度も教えてきてその都度不思議に思うのは、この小説の設定の通りだとすると1945年8月14日に連合軍(アメリカ軍)が日本の本土を空襲することがあったのだろうか、そして明らかな民間人を機銃掃射で攻撃することがあったのかという疑問である。もしそうならば戦争犯罪に近い行為であることになる。

 この件について調べてみると、興味深いことが分かった。山川方夫が疎開していたのは現在の二宮町であったという。ここはその東に平塚、西には小田原がある。湘南地方には軍需工場が多数存在していたらしく、それを殲滅するための攻撃であることは想像できる。しかし、8月14日は日本が降伏を宣言する前日であり、ポツダム宣言の受諾はほぼ間違いがないとされていた時期であったはずだ。地元の史家が収集した記録によると、小田原では8月に何回か民間人が艦載機の機銃掃射で死亡する事実があったという。特に13日には小学校が空襲にあい、教師と用務員が犠牲になっている。さらに14日の深夜、もしくは15日の未明には小田原市内に多数の焼夷弾が投下され、402戸が被災し、12人が死亡したという(一説に死者は48人)。この爆撃が伊勢崎や熊谷を爆撃した編隊が残留弾を消費するために行ったという説もあり、いろいろな意味で許しがたい。戦争はこのように非道な行為が正当化されてしまう。

 「夏の葬列」はあくまで創作であり、事実に基づかなくてはならないというものではない。でも、14日の空襲は実際にあったことだし、民間人への機銃掃射もなかったとは言えない。芋畑を無防備に歩く人への攻撃は作り話だと思いたい。残念ながらそれ以上に非道な、無差別の空襲や、原子爆弾などによる大量殺戮もあることは忘れてはならない。

 この小説は主人公が抱えた原罪の意識をどのようにとらえていくかが読みどころとなる。そこが反戦小説を超えて読み継がれている所以だろう。ただ、やはり戦争というものがもたらす限界状況が人の判断を狂わせるといういかんともしがたい事実を私たちは様々な場面でかみしめる必要がある。

スポンジ

Photo by Polina Tankilevitch on Pexels.com

 振る舞い方が身につく前はどうしても不器用な動きになりやすい。自分だけならよいがそれが周囲をも傷つけてしまう。その連鎖が場合によっては深刻な人間関係の原因になる。こういう場合に大切なのはいかに緩衝材を置くかだろう。

 青春小説では社会的な立ち回りが苦手か敢えて我を通そうとする人物が登場する。それがざま問題を引き起こす。結末はそれぞれだが、多くの場合は彼らを引き止める存在が描かれる。そのブレーキが機能すれば主人公は行動を変容できる。機能しないとき、もしくはその人物がいなくなったときには暴走は止まらなくなる。よくあるパターンだろう。

 現実社会の中で緩衝材的な役割をするのは何だろう。家族がその役割を果たせるときは安心だ。ちょっとしたわがままも受け入れられる。柔軟な対応ができる可能性が高い。しかし、家族の形にもいろいろある。親子関係がうまくいっていない場合はほかにスポンジ役が必要になる。その理想の一つは友人だ。不平不満を聞いてくれる。うなずきながらも聞き流してくれる存在ならなおよい。その友人もいなければどうだろう。

 私自身もあまり人のことは言えないが自分の悩みを打ち明けられる人はほとんどいない。子どものころから弱音を吐くことは敗北を意味するものとして避けられていたし、その後適度なガス抜きは必要だと知っても、うまくそれができない。弱音の吐き方が分からないのだ。極端な行動としてヒステリックになってしまうしかない。これは周囲の人を不幸にする。

 悩みを相談できる期間は社会的に用意されている。ただ、我が国の場合、カウンセリングはよほどの深刻なものしか受け付けないという既成概念がある。そして確かに日常的な悩みまで聞いてくれる第3者は思い当たらない。ソーシャルメディアに書きつけるのは、便所の落書きと同じような心理だ。ただ落書きはほとんど見られないうちに消されてしまうが、ネットの書き込みはたちまち拡散し半永久的に残る。ストレス解散が新たな悩みの種を作る。

 スポンジ役が欲しい人は、みずからもスポンジ役になるしかない。お互いにお互いの苦しみを少しずつ受け取り、受け流す。それが本当に今必要なことであると考える。

使う分だけ作るエネルギー

Photo by Rodolfo Clix on Pexels.com

 資源のない国にとってエネルギー問題は死活問題である。発電に限って言えばほとんどを火力で行っている。2020年度のエネルギー供給では、化石燃料による火力発電が76.3%を占め、その原料は石油が6.3%、石炭が31.0%、LNG(液化天然ガス)が39.0%だった。原子力発電は東日本大震災以来停止している発電所が多い。再生可能エネルギーとして、水力、風力、太陽光、水素、地熱などのエネルギー源もあるが、いずれもコスト、効率などの問題点を抱えており、普及していない。

 これらのすべてに共通するのは使用するエネルギーを大規模な発電施設に依存し、そこから送電したものを消費するという考え方だ。ここを変えていかなくてはならないと考える。もちろん最低限のインフラとして公共施設は安定した大規模エネルギー施設からの供給を受けるべきだろう。しかし、その一方で個人や企業が自分の消費するエネルギーの半分以上は自前で生産できるシステムを作るべきではないだろうか。

 太陽光パネルや風車による発電はイメージしやすい。しかし、現状では効率が悪く、設置や廃棄にかかる費用やカーボンニュートラルの方面に関して問題があるという。技術者の皆さんにはこの点に注目し、小規模発電でもいいので安全に確実な製品を開発してほしい。かつては屋根の上に太陽光温水器をつけている家庭がかなり見られた。太陽光パネルもある程度利用されている。それぞれには問題もあるようで改良はしなくてはなるまい。集合住宅でも同様の工夫はできないだろうか。鉄道などは各駅や線路わきに太陽、風力などの発電施設を作ることはできそうだ。高層ビルも屋上や壁面に発電システムを組み込むことはできるのではないか。

 基本的な概念は使う分だけ作るというエネルギーに対する考え方を変えることである。作れる以上のエネルギー消費はしないという精神にもつながる。このイノベーションこそ、日本を世界を変えるものとなるだろう。

ゲームを作る

Photo by JESHOOTS.com on Pexels.com

 ゲームを楽しんでいる人が多いのは今に始まったことではない。私も以前それに多くの時間を費やしたことがある。気休めや現実逃避にはよい。問題なのは無意識のうちに他人が決めたルールのもとで泳がされていることだ。ゲーム好きの人の中にはその感覚がなくなっている人がいるように思えてならない。

 これは比喩的に現代人の行動の大半に当てはまる。高度に完成されたシステムをプレイヤーとして操作するだけで、そこに自らの創意や工夫はない。そもそも自分ができることはほとんどないか、できても成就する可能性は低いと考えている。だから、そういうことができるとは思っていない。

 他人本位の世界の中で自分の位置をこんなものだと位置づける。それには本当は何の根拠もない。しかしゲームの世界ではたとえばその成果が得点となって可視化される。自分の位置はどこにあるのかが疑似的に示される。それはある意味、快感であり、屈辱にもなる。いずれにしても自分の立ち位置が分かる気がするのは実際には曖昧な現実社会の靄を晴らしてくれる。

 そもそも私たちがこの世に生まれたとき、既存の社会というシステムの中で生きることが決められている。だから、きまったルールに従って生活を営むのは仕方がないのかもしれない。ただ、ゲームをする人はその宿命的な枠組みをあえてさらに狭めて自分の精神を閉じ込めているのではないだろうか。むしろ自ら小枠にはまる選択をすること自体に生きがいを見出しているのかもしれない。

 私たちに必要なのはゲームで遊ぶことだけではなく、ゲームを作ることではないかと考える。作家の森博嗣氏のエッセイに、子供ころおもちゃは自分で作って楽しんだという話があったのを覚えている。ないものは作るという環境が創作的な人生を導いたと拝察した。比喩的に言えば既存の社会の中で、既存のルールでプレイするだけではなく、時にはルールを考えて新たな遊びを考えることが私たちに求められているのではないか。

 何をやっても徒労感と無力感、相対的な敗者としてしか自分を考えられない現代人にとって、こうした考え方は幸福の追求という観点からも大切なのではないだろうか。

インボイス制度

的確な領収書作れますか

 徴税の徹底化を目指したインボイス制度には個人や中小企業への配慮が欠けているという。多くの人が関わることになるが実態は知られていない。

 商品の販売に関して税金分を加味した売買がなされたことを示す領収証の作成が義務付けられ、それがないと小売店などの納税申告義務のある業者は、仕入れにかかった税も含めて払わなくてはならなくなる。ここまではよいのだが、問題点もある。

 1000万円以下の収入の零細企業や個人からの購入の場合、申告業務がなかったので適格な領収証を発行する必要がなかった。インボイス制度が始まれば、こうした事業者から購入すれば税制上の免除は受けられないので、的確領収書が出ない相手との取引は控えるようになる。経理にかかる費用とスキルに関して不利な立場にある者には厳しい制度ということになる。

 まずは簡単な経理のツールを普及させたり、安価で経理を肩代わりするシステムが必要だ。デジタルトランスフォーメーションが必要なのは分かるがある程度道を示してから制度化するべきだ。最近この手の強引な手法が多いように思う。

人任せにはできない

Photo by Alex Martin on Pexels.com

 残念ながら安倍晋三氏は逝去されてしまった。心から哀悼の意を表したい。国のために生きた政治家として尊敬する。容疑者が政治信条に対する恨みではないと述べているらしい。宗教団体の幹部を狙ったなどとも言っている。もしこれが本当だとすれば、この何とも訳が分からない者の手によって元首相が殺害されという事実が悲しい。理由が何であれ、暴力で現状を変えることは間違いだし、絶対に許すことはできない。

 安倍氏はマクロ経済に着手することで日本の国力の復活を目指したのかもしれない。結果的に復活はせず、国民は金融政策に守られているという安心感だけを得て、成長ができないまま停滞してしまった。既得権を持つ者の利益はある程度守られたが、新興の個人や企業には厳しい政策を続けている。その流れはいまも続いている。結果的に安倍氏の目論見は達成できないままだった。

 金利を下げ、金回りをよくするだけでは経済は動かないという事実が、安倍政権以降の政策で明らかになった。これは残念ながら、いかんともしがたい事実なのだ。日本の将来のためには別の方法がとられなくてはならない。新しいものを生み出すことに価値観を見出し、それを応援することができる社会的なコンセンサスが必要だ。

 安倍氏が結果的に命を懸けて変えようとした日本の状況を私たちは引き継いでいる。残念ながら政府に任せていると同じ事が繰り返されるだけだ。まずは国を変えるという意志を持たなくてはならない。おそらく最も優先しなくてはならないのは自分たちの未来を人任せにしないということだろう。日曜日の参議院選挙の投票はそのための第1歩だ。

あってはならない

 安倍晋三氏が選挙演説中に銃撃され、現時点で意識が不明という。わが国で起きてはならないことだ。暴力では何も解決しない。日本もここまで落ちたということかとがっかりする。

 アベノミクスには確かにさまざまな問題があった。その影響は多大なものがあり、今後もその負の遺産を引き継ぐことになる。ただし、それと政治家の命を狙うのとは別だ。憎しみを晴らすことも、問題を解決することもできない。残ったのは国民の失意の増大だけだ。

 衰退する日本の中でどのように幸福を確保していくのかは、様々な知恵が必要だ。もっと学び行動していかなくてはならない。でもその中に暴力の選択肢はない。

ガチャ

 格差社会を表す言葉の中でも特に悲しい表現に親ガチャというのがある。子にとって親は選べない。誰の子として産まれるかで人生に大きな差が出るということだ。

 これを運命論として片付けてはならないだろう。その家に生まれたのが定めであり、神の思し召しでもある。それを受け入れた上で分に応じて生きるしかない。これは近代が克服した社会観であったはずだ。

 ところがどうも最近の風潮では運の悪さという結論に持っていこうとする風潮があるように思えてならない。諦めがそこには溢れている。苦境にある子どもがそれを言うのならば同情の余地がある。しかし、そうでない人はこの考えはいちはやく捨てなくてはならない。格差は多くは社会システムの問題で起きている。それを放置している政治家と、彼らを選んだ国民を問題にしなくてはなるまい。

 格差を自分の問題と認識できなくなったとき、その禍は必ず自らに至る。相対的貧困率の高いと言われる現実に向き合わなくてはならないだろう。