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聞き出すこと

 当事者でないと理解できない苦しみがあることは確かだ。それは心身ともに痛みを感じるものである。名状しがたいものであり、本人以外は決して踏み込むことができない何かだ。まずそこから始めなくてはならない。

 その意味において私たちは、他者の窮状を救うことはできないのかもしれない。陥穽から這い上がるのはあくまで本人であり、手を差し伸べれば解決するというものでもあるまい。ただ、本人が上昇するきっかけを与えることはできるのかもしれない。それは相手が苦しんでいるということを理解することから始まるのだろう。

 相手の苦しみを当事者に言語化してもらうことができれば解決策に近づく。漠然とした不安が言葉に集約されれば、その本質に近づく手がかりが生まれてくる。だから、私たちができるのは苦しみの当事者の言葉を聞き出すことだ。これには粘り強い気持ちが必要であり、その前提の愛情もいる。聞き出すことから、自助のきっかけを引き出せるのだ。

相対的

 梅雨末期の天候にいきなり戻り、気温も低下している。決して低くはないのだが、これまでの異常な高温と比較すると寒冷にさえ感じる。私たちの体感はあくまでも相対的なのだ。

 これは人間の宿命なのだろう。何かと比較することでしか表現できないのだ。基準をどこに置くかで見え方はまったく変わる。自分が目にする風景が必ずしも万人に共有されている訳ではない。

 天気の話は分かりやすいが、世の中の多くのことはもっと複雑だ。相対的に物事を考えるのは体感温度と似ている。恵まれている人が少し不自由になると、不幸を感じる一方で、努力してようやく勝ち取った何かを幸せに思うこともある。それが些細なことであっても。

 今を基準にして未来を考えること自体は悪いことではない。ただ、ときには生活の地平から離れて冷静に自分を見つめる必要もありそうだ。

悪天候もチャンスと

 西日本で長雨の被害が出ていることを聞くと申し訳ないが、この悪天候はある意味チャンスかもしれない。お盆休みになった日本ではこの期間にまとまった休みをとる傾向にある。宗教心はかなり薄いのだが盆は日本人にとっては先祖の供養をするか、もしくは遠隔地の親を訪ねる日か、その代わりに自分たちが楽しむ人する日として定着している。

 何もなければ東京から地方に帰省する人でごった返すこの期間は、今は自粛することが求められている。いっそ悪天候ならば諦めがつく。悪天候もチャンスとなると考えた方がよいだろう。ただあまりにも雨量が多いのが心配だ。一度停滞前線は消えてほしい。

 晴れても外出しないと誓うから。 

オリンピックの意味

 東京オリンピックが終わった。無観客という極めて異例の大会運営はこれからのスポーツイベントに様々な影響を残すことだろう。観客がいなくてもスポーツが成立するのかという根本的な問題を考えるきっかけになる。

 オリンピックが商業主義に取り込まれている以上、無観客はあり得ない。今回はスタジアムに入る人が制限されていたのではあるが、メディアを通して観客となった人は世界中にたくさんいる。その存在があるからこそ、メディアが商業的に成立し、そこで生まれる利益がスポーツイベントの運営には欠かせない。

 もし本当の無観客、もしくは無料試合を実施したらどうなるだろう。世界的なスポーツイベントはおそらく成立しない。そこにドラマは生まれないし、感動を物語ることもできない。オリンピックは残念ながら政治や商業に取り込まれることで成立しているといえる。

 スポーツが文化として成立するするためにはやはり何らかの共同性なり、共有性を維持しなくてならない。勝手にやってくれでは文化は育たない。しかし、何でもできるわけではない。国際競技として継続するためには割り切らなくてはならない様々なものがある。東京オリンピックはこの問題を再確認させてくれるものであった。

知的進化

 インターネットでの誹謗中傷の事例を見るたびに、人間はまだ情報社会に対応できていないことを痛感する。Society3.9くらいの存在なのだ。

 人類は情報という目に見えないものに振り回されており、いまだ使う方にまわっていない。使われている。メディアの影響力について理解していないし、理解していない存在が他人を傷つけているという事実も判断できない。隣りにいる人に接するようにメディアの先のひとに接し、リアルとバーチャルの区別ができない。

 語弊がないようにしたいが、かくいう私も同じだ。先の例えで言えば私は情報社会に全く適応できていない。3の前半にいる。ただ人間はいずれはこの状況に対応していくのだろう。何を言われてもされてもそれが本心からなのか、それとも感情に任せた戯言なのかを瞬時に見分ける能力を獲得するのだろう。

 あるいはその能力を獲得しないという進化を選ぶのかもしれない。つまり、人を信じないという方向だ。これは困る。私たちの身体的な進化はかなり限界に来ているのかもしれない。大脳をこれだけ発達させた人類に残された可能性は、情報を理解する能力を向上させることだろう。

次々廃業

 利用していたレストランが次々に廃業に追い込まれている。コロナウイルスの影響は大だが、それ以外の要因もある。その一つが個性の消失だと考える。

 同じような料理を出していたとしてもその店の雰囲気とか、店員の醸し出すものといった、非定形の要素をもとめて店を選ぶのが人情というものだ。数十円から数百円の違いはそれで十分に逆転可能だった。ところが、最近はどの店に行ってもマニュアル通りの対応しかできず、メニューにも個性はない。どこに行っても同じようなコンセプトであり、効率化のもとサービスも均一化している。アルバイト店員が増えたせいか、臨機対応の変化には対応できない。何よりもその店の店員であることの誇りのようなものが感じられない。

 これは現在の業界の状況からすればどうしようもないことであり、こだわりを続けるのなら価格設定を高くして、少ない客でもなんとかするしかあるまい。そんなことができる店は限られている。

 次々に廃業するレストランをどのように救うのか。この点に対するアイデアはまったくない。。ただ、いつも通ったあの場所にその店がないことに対する失望感は打ち消しようがないのだ。

光の表現

 光を表現することは実は難しい。光そのものは色はないし、物質としての実感もわかない。だから、光そのものは描けず、光によって投影された物体を感知するだけだ。反射する光の種類によって色彩が現れ、形として見える。光とものとの織りなすライブが私たちの世界だという。

 ブラスを表現するにはマイナスを取り上げればいい。それも伝統的な手法だ。闇の中に差す一条の光は分かりやすい。ないところにあるものは感じられる。

 光を表現することに私はもっと関心を持ちたい。比喩的な意味も含めて光を表現することを最近諦めている気がする。光は当たり前ではなく、特別なものでもない。ただ、その正体に関心を持つことはこれからもっと大切になりそうだ。

大雨の被害

 熱海市で土砂災害が発生し大きな被害がでた。犠牲者に哀悼の意を捧げる。毎年、梅雨の後半にはこのような大規模な水害が発生する。傾斜地の多い森林国である日本の宿命だが、被害は何とか防がなくてはならない。

 土砂災害が起きたとき、たいていの場合、自然破壊を伴う開発が原因だと言われることが多い。今回もそのような指摘がされている。ならばそれをどのように規制し、管理するのかということにもっと議論が向かうべきではないか。

 我が国の常として天災は数多く繰り返されるが、その都度忘却され、同様の被害が繰り返される傾向にある。詳細な記録が残せるようになった現代では過去の災害を克明に保存する手段もあるはずだ。また災害の仕組みを研究する分野も進んできている。この辺りの技術者には大いに活躍してほしい。民間レベルでの口碑のようなものも機能させるべきではないか。

デザイン

 同じものでも色が異なるだけで気分が変わることがある。図案や造形が加わればもっと効果が大きい。私は結構見た目で左右されている。

 ならば身の回りにあるものにデザインを施してみよう。といっても画才はないので既成のものを貼り付けるだけである。シールもいいが色紙を貼るだけでも変わる。毎日使っているノートに千代紙を貼れば親しみが湧いて手に取る回数が増える。それだけで効率が上がるとは言えないが何かに変化が起きることは確かだ。

 散財しなくてもデザインの魔法はかけられそうだ。いろいろ試してみたい。

6月

 今日から6月が始まる。まだ終わらない緊急事態にはうんざりだが乗り越えていくしかない。

 少し先のことを考えることも大切だ。ワクチン接種が進み、いわゆる集団免疫が形成されたと認定された後でどのような社会変化が起きるだろうか。この騒ぎの前の状態に戻るとは思えない。ディスダンシングに慣れた人々はどういう行動を取るのだろう。そもそも都会に住み続ける意味はあるのかなど。

 グローバルな世界を意識したのとともに地域の力の大切さも実感している。金を出しても幸せは買えないときがあることを予感させた。

 これから変わるかもしれない社会を考える月始めになりそうだ。