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求められているものは

 自分の努力のわりに評価がされていないということはよくある。逆に意識はしていないのにいいと言われることがある。意図と反応が異なるのはいろいろな場面で見られる。この事実を考えてみよう。

 自分はこれだけ頑張ったから認めてほしいと思っていても、満足した結果にはならないことがある。くたびれもうけのように感じてしまう。その理由は、自分が評価を求める要素が、実はそれほど完成度が高くないか、高くてもほかの人にもできる人が多くてそれらに埋没してしまうか。あるいはそもそも自分のイメージに合わないものであるものかといった様々な要因があるのではないか。さらには認めてほしいというアピールが足りないのかもしれない。自分が思うほど努力の跡を人は見つけてくれない。

 逆に実は他人に高い評価を受けているということもあるかもしれない。残念ながらそれを口にしてくれないから感知できない。たとえば、自分の存在が組織にとっては重要な役割を果たしているということなどである。強面でそこにいてくれると緊張感が保てる。取り立てて活躍はしていないが、その存在がほかのメンバーの心の安定と、人間的なつながりの触媒のような役割を果たすといったこと。物事を迅速にこなすことが他の手本となっていることや、逆にマイペースなのがいいということなどだ。こういった気質や性格に関する評価は表現が難しく、また本人にあたらめて指摘する機会もないため伝わりにくい。

 他人から求められているものは何か、自分の強みは何かということに関しては結局は自分では分からない。コミュニケーションのなかで他人が自分をどう見ているのかを考えていくしかない。言い方をかえれば、自分は何の価値もない人間だと自分だけで決めるのは間違っていることになる。自分自身を過小評価することがないようにしなくてはなるまい。

雨の前の景色

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 遠くの山の景色がくっきりと見えるときは雨の前兆だ。北陸で暮らしていたころの経験である。科学的に証明できるかどうか分からないが、大荒れになる前の山の風景は鮮明で大きく見える。経験的な事実だ。とても美しくもある。おそらく、実測すればほとんど微差なのだろうが、実感的にはかなり大きく見えた。

 東京に帰ってからこのことを感じることはない。山を見ていないからだ。でもおそらく同じ現象はあるはずで、嵐の前には遠景が鮮明に見えるはずだ。ビルにさえぎられて切り取られた風景ばかりを見ているとこういう経験が味わえない。

 今日は久しぶりに雨が降った。未明の霧雨といった感じだが、湿度は久しぶりにあがった。おそらく昨日の風景はいつもとは違ったはずだ。できれば遠い風景を見る余裕は欲しい。

公園の役割

 子どもの声がうるさいからというクレームで公園が廃止されたというニュースがあった。その後の報道をたどるとどうもこれは極端な伝え方であったようで、クレーマーと言われた人の言い分も理解できない所はないし、行政の在り方にも問題があったようだ。そもそも、公園としての使用期限がもともと決まっていたらしい。

 公園が単なる共有地としてあるのなら、それをどのように使用するのかということについて考え直さなくてはならない。子どもの遊び場という意味以上のさまざまな役割がある。国土交通省都市局公園緑地景観課によると、良好な都市環境の保全ため、災害時の避難場所、延焼防止、などの災害対策、市民の活動、憩いの場、賑わい創出や観光拠点として地域活性化の役割などを挙げている。公園といっても数坪の狭いものから広大な敷地があるもの、なにもない場所から歴史的な遺跡等を有するものまでいろいろあるので一概には言えない。公共の場所ということだけが共通する。

 都市の中の公園に限れば、交流もしくは相互扶助という側面を今後活用してくべきだろう。少子高齢化社会のなかで従来の社会システムが機能しなくなりつつある。それを補うのは地縁による助け合いということなる。その拠点の一つが公園だろう。以前公民館のことを考えたことがあったが、それよりも簡単にできるのが公園の利用だ。屋外や簡易テントなどでできる交流のきっかけを地域行政は提供し、それを行う団体を支援するべきではないだろうか。

 公園が魅力的な場所になるならば、冒頭で触れたような厄介な空間という扱いではなくなる。

欧州は暖冬

 東京は乾燥して寒い日が続いている。北海道や日本海側の一部では例年以上の積雪があり、死傷者まで出ているという。

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 その一方で欧州各地は記録的な暖冬で雪が降らずに困惑する地域もあるらしい。ウクライナ情勢からエネルギー供給に不安がある状況においては暖冬を幸運と見る向きもある。ただこれが人為的要因による気候変動の現象なのではないかと考える人も多く、大いなる脅威とされている。

 西洋の思想の根源には自然は人間が制御しうるものという考え方がある。その手段として科学があり、それに基づいた技術が制御を実現するのだ。そういう背景のある人々にとって制御不可能な気候変動の現実はあってはならないことで、さらに高次の技術が必要だと考える。最近はその傾向が顕著になっている。

 雪がなければ冬の観光やスポーツ関連の産業が打撃を受ける。それだけではなく、水資源の変化は農業や畜産業に影響し、内水面漁業のみならず、海洋にも何らかの関係を及ぼす。短期的な変動ならば振り子のように揺り戻しがあるはずで、バランスが取れると期待できるが、もし振り切って止まった状態ならば、と考えてしまうのだ。

 昨年末はアメリカで大寒波の報道があり、日本でも大雪の被害が断続的に続いている。これらが一連のものなのか。いわゆる気候変動と関係があるのかについては短絡はできない。ただ、ここ数年異常気象が国内外で報告され続けていることには注意が必要だと言える。

山手線

 渋谷駅再開発に伴う工事のため、今日は山手線の大崎から池袋の間が全日運休している。渋谷、新宿、池袋の主要駅を含む区間であるため、土曜とはいってもかなりの影響が出るに違いない。

 山手線は地元では「やまてせん」とも呼ばれている。山の手の意味が分からなくなった時代から読みが怪しくなったのだろう。東京の土地の格を言うときにこの環状線の外か内かで区別する考え方がある。これは根強い一種の固定観念だ。

 一周するのに約1時間弱かかるはずだ。誰もそれは気にしない。一周通して乗る人などいないからだ。私は学生時代それをしてしまったことがある。と言っても意識がなかったので正確なところは分からない。一周以上したことは確かで、なぜか大崎駅で起こされ、もう今日の運行はすべて終わったと言われた。幸いその時は比較的近くに住んでいたので深夜の行進は遭難せずに終えることができた。これを片手では足りない回数繰り返した。自慢することではない。

 山手線などのことを国電と読んだり、ごく短い期間だがE電と呼んだことを知っている世代はもう多くはないのかもしれない。翁さびてももっと先輩からは緑でなかった頃の山手線を知らないくせになどと言われそうだ。

 東京のことを知らない方には何のことか分からないだろう。地元民に取っては東京の電車のナンバーワンであり、いろいろな思いを乗せた鉄道なのだ。それが今日止まったということには意味があるのだ。

散歩

 近隣を散歩すると新たな発見がたくさんある。いつもは歩いていない道にあえて踏み込むとさまざまな気づきが生まれる。

 私の住んでいる所は県境や市境が複雑に入り組んでいるので、少し歩けば他県に行ける。また、さらに歩けばほかの市にも行ける場所だ。県や市が変わったからといって何があるというわけではないが、それだけで何か一種の旅人になったような気になれる。

 車で通りすぎると気づかないことがたくさんある。道の起伏に関しては車ではほとんど分からない。結構な坂道だったり、実は緩やかな下りであったりする。歩いてみて分かる。地形はその場に立ってみないと分からない。

 神社や仏閣、それに小祠の類を見つけるのも散歩の楽しさの一つである。しかも、それに拝礼していく人を見つけると、日本人は無宗教だという指摘が当たらないことを確認できる。一神教的な尺度では宗教心は測れない。そしてそれらのパワースポットが残されているがゆえに保たれている小さな未開発地帯がある。自然ではなく、聖地として整え続けられてきた場所というのが正しいのだろう。

 散歩の楽しみはいろいろある。どうしてこれを続けないのだろう。この面白さを覚えていられていられないのはなぜか。日常生活がすぐに塗りつぶしてしまう楽しみを時々思い出したい。

休みの収穫

 短い冬休みだったがこの期間に解決したことがいくつかある。それは少し考えればよかったことばかりだ。日常生活に追われると見逃してしまうことがたくさんあることを痛感している。

 どうしても解決できなかったスマホアプリの使用上の問題点が解決できた。よく探すと解決法が書いてあった。同じような行き詰まりを感じている人は少なくないはずだ。もう少し分かりやすく示してほしい。多忙を極めるとヘルプ記事を探すことも難しくなる。

 長らく使えなかった機械の復活ができた。ちょっとした作業で直せたのだ。これもネットで取扱説明書を探し、(本物は行方不明)読み直すことで解決したのだ。結果的にはそれだけなのだがこれも仕事に追われるとできなかった。

 何冊かの本を読んだ。私の場合、一つに集中することが難しい性格にあると自覚している。何か別のことを持ちかけられると、思考が中断してそれ以上進めなくなる。休みはマイペースなので本が読めた。特に近隣の図書館はいい。不要な音楽すらない。

 散歩も少しできた。2つ先の駅までの散歩だ。都会の電車なので2つ先と言っても大した距離ではない。かつてならジョギングで片道程度の距離だが歩くのもいい。町の様子をいろいろ知ることができた。

 いいことばかりではなかったが休息とちょっとした充電ができたことはよしとしよう。この余裕を明日からも保てるのか。ひょっとしたらそれがこれからの成功の鍵なのかもしれない。

賞味期限間近

 近隣の書店の一角に食料などを売るコーナーができた。賞味期限が近い商品を売ることで、食品ロスを減らす活動だという。見ると、お菓子やお茶、インスタント食品などが並んでいる。賞味期限を確かめると1~3か月後というものがあったが多くは6か月くらいはあるものだった。それらが数割引きで売られている。

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 賞味期限ということにこだわる人は一日でも過ぎたら食べられないように考える。私のような大雑把な人は数か月過ぎても大丈夫だと思って現に食べてしまう。それで食中毒になったことは一度もない。

 そもそも賞味期限とは何か。農林水産省のサイトには「袋や容器を開けないままで、書かれた保存方法を守って保存していた場合に、この「年月日」まで、「品質が変わらずにおいしく食べられる期限」のこと。」と説明されている。同じページには消費期限という分類もあり、「袋や容器を開けないままで、書かれた保存方法を守って保存していた場合に、この「年月日」まで、「安全に食べられる期限」のこと。」とあり、こちらの方は安全性が言及されている。つまり賞味期限はメーカーが味に対して責任を取る起源であり、食べられるか否かの基準ではないことになる。しかし、味の保証をしないものをメーカーや小売店が扱うことはできないため、消費期限は通常は表記されず、賞味期限が近付けば店頭から取り除かれる。

 中には賞味期限切れをセールスポイントとして商品を売る店舗もある。格安の値段で売られる商品はフードロスを大義名分とし、メーカーからは在庫処分の方法として、消費者からは割り切って安価で求めることができる手段として商売が成り立っているそうである。ネットで同じようなことをするサイトもある。

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 こうした試みはいろいろなことを変えていく突破口になりそうだ。もったいない文化を世界に発信しながら、食品廃棄率の高い矛盾を解消するためにもこうした方法に注目していきたい。使えるものは使うことは日本人の伝統的な思考方法に通底するから普及するのは容易なはずだ。

数え年

 日本でもかつては数え年という方法で年齢が計算されていた。明治時代になり1873年に満年齢の方法が導入され、1902年には数え年の方法は法律上からは除外された。その後も慣例的に数え年は使われ続け、現在でも年祝いや厄年といった伝統的な年齢通過儀礼では数え年が優先されることもある。でも、ほとんどの人は数え年の存在を知らず、起算方法も知らない。生まれた瞬間に人は1歳であり、元旦を迎えるごとに1加算される。だから12月生まれの人は、生後1か月もかからずに2歳になる。

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 韓国では数え年による年齢の言い方が普通であった。国際化の影響で今年の6月からは満年齢で統一することにしたそうだ。とはいえ、日本同様に生活に根付いた部分ではこれからも使われ続けるのだろう。韓国では年齢が敬語の使用にも大きくかかわるため、韓国人との会話ではまず年齢を知ることが大切だという。数え方が違うので、干支を尋ねたり、西暦で確認したりする必要があったというが、これからはその心配はなくなるかもしれない。

 元旦に一斉に皆が歳を取るという考えは実はそれはそれで面白い。正月のめでたさがまるで異なる。太陽暦の1月1日は厳冬期であり、寒波に襲われることも多い。春の気配はほとんどない。その中で何がめでたいのかといえば、西暦年が一つ加算されたこと以外は実は何も変わらない。かつての先祖が感じていた元旦と現在のそれとはまったく感覚が異なるといえるだろう。

 個人の誕生日の意識も変わった。古典文学や、史書に登場する人物の誕生日に関する記事はとても少ない。異類譚などでは誕生時のエピソードを書くことはあっても、誕生日の祝いに関する記事はない。誕生日を祝う習慣が存在しなかったのだろう。数え年にとっては個人の誕生日は重要ではないからだ。満年齢になって誕生日を祝う習慣が輸入された。個人の人生が意識され始めたということになるのかもしれない。

2022年のおさらい(10月~12月)

 10月1日に数多くの食料品が値上げした。原材料費の高騰に加え、歴史的な円安が影響していたのだ。20日には1ドルが150円台まで下がり、32年ぶりの円安ドル高となった。海外の旅行者にとってはバーゲンセールのようなものかもしれない。問題は日本人の賃金が一向に上がらないことだ。

 24日、山際大志郎経済再生相が辞任した。実質上の更迭だった。世界平和統一家庭連合との関係を追及され、あいまいな答弁を続けたことが原因だった。なお岸田内閣はこの後、葉梨康弘法相、寺田稔総務相が11月に辞任し、辞任ドミノといわれた。押し詰まった12月27日には秋葉賢也復興相も辞表を提出し、ドミノは終わらないようだ。日本の政治家の質はこの程度なのだろうか。そして、代替するリーダーがいないのだろうか。

 この月あたりから北朝鮮が何度もミサイル発射をしている。何が目的なのかよくわからないが、独裁政権が何をもたらすのかを考えさせる材料にはなる。

 11月に入ると一気に寒さがつのり紅葉があちらこちらでみられた。

 カタールで行われたFIFAワールドカップで日本代表がドイツに逆転勝利したのは大きな話題になった。圧倒的に攻め込まれながら少ないチャンスで得点をするという戦略だった。選手交代とシステム変更という森保監督の戦術も評価された。試合外では選手によるロッカーの掃除やサポーターによる客席の清掃が大きく取り上げられた。今回はその後、スペインにも勝ち、予選リーグを1位通過という快挙であり、決勝トーナメントもクロアチアにPK戦までもつれ込む大健闘だった。

 そして12月。10日に世界平和統一家庭連合の被害者を救済するための法案が国会で可決した。安倍元首相の狙撃事件後、国葬を終えた後、閣僚やそのほかの政治家のこの団体への関与が相次いで指摘され、安倍氏を悼むという気分は吹き飛ばされてしまった。

 今年の漢字は「戦」となった。ウクライナ戦争が終わらないまま一年が終わってしまいそうなのが残念でならない。

 記録的な大雪が降ったところもある。その原因が耳慣れない気象用語で解説されるようになった。とにかく被害が出ないことを祈る。本格的な降雪の季節はこれからだ。

 振り返ってみると今年もいろいろなこはとがあった。まずはマスクが取れる日々が早く来ることを祈る。そして戦争が終わることを切望する。もういい加減に世界のことを考えてほしい。

 私はというと、いろいろなところでデクレッシェンドが感じられるが、決して進歩はやめない。最後まで悪あがきをしたいと考えている。その成果は時々ここにも書いておこうと考えている。