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5月

 連休の谷間ではっきりとしないが今日から年度の2つ目の月が始まる。今朝は入り込んだ寒気のせいで肌寒く、午後は暖かくなるかわりに雷雨になりやすいという。

 5月といえばやるべきことが少しずつ軌道に乗り始める頃だ。また、うまく行かないことは何かが見え始めるときでもある。これが過剰に感知されると気持ちがくじけやすくなる。

 うまくいく方が奇跡であり、大体は成功も失敗も同時に起こるものと考える方が当たっている。ついていると思うときは、その裏にある多くの不運に気づいていない。逆もまた真なのである。

 行き詰まったときは木々の新緑を見よう。5月はそれには最適な季節だ。植物の生命力を感じて自分の糧にしてみよう。

日曜名作座

 NHKラジオ第一放送の日曜名作座を久しぶりに聴いた。正確には新日曜名作座で西田敏行と竹下景子がすべての配役を演じ分けるラジオ劇である。男役と女役をそれぞれの俳優が分担するわけだが、当然、男から男、女から女のセリフ渡しもあって、それを演じ分ける必要がある。ベテランの俳優ゆえ安定の演技を安心して楽しむことができた。

 この番組はもともと森繁久彌と加藤道子の二人で行っていたもので、調べてみると1957年から2008年まで放送されていたという。この二人の名演はいまでも印象に強く残っている。学生の頃は芸能人のディスクジョッキーの方をよく聴いていたが、なぜかこのラジオ劇は好きだった。俳優ゆえの独特の人物造形とテンポと間の絶妙さは今でも私が本を朗読する(職業柄)ときの手本となっている。お二人の病没のあと、後継の番組が今でも続いているのは嬉しい限りだ。西田、竹下版となったのが2008年というから、もうこれも長寿番組と言える。

 映像のないラジオ劇は演じ手の表現力がそのまま伝わる気がする。そしてそれを感じ取る聞き手側にも想像力が必要になる。時代遅れなのも知れないが、音声のみの世界がかえって雄弁であることを再認識したい。そして、それを感じる力を落とさないようにしたい。最近は聞き逃し配信なる便利なものもあるのは嬉しいことだ。

昭和のイメージ

 昭和生まれの人間にとって昭和の多様性は説明不要だ。しかし、昭和が歴史時代としか考えられない世代にとっては非常に不思議な感覚だろう。第二次世界大戦の始まりそして終戦も昭和であり、復興から発展、経済成長のすべてが昭和なのだから、近代史において最も濃密な時代と言えるだろう。

 昭和を知らない世代にとっては何とも計り知れない時代だろう。だから、どこに焦点を当てるかで全く違った時代感になる。さらに昭和生まれも何年に生まれたかによってその感覚は異なる。私のような世代と昭和晩年では同じ昭和生まれでもかなり価値観が違う。私の父も昭和生まれだったが、全く異なる価値観だったことは言うまでもない。それぞれの昭和生まれが自分の知る昭和を基準にしてものを考えるから、非昭和の世代の人がますます混乱することになるのだろう。

 昭和時代は決して理想的な時代ではないがこの国にとって大切な時代であったことは間違いない。この期間に得た成功や失敗をこれからの生かしてもらいたい。それが引退間近の世代が若い人たちに伝えたいことだ。

脱ルーティン

 私は日常の大半を既定の習慣でこなしている。いちいち考えなくてもいいからだ。どこに財布を入れるのか、電車の時刻、車両、立ち位置もほぼ決めている。習慣化の恩恵は大きい。

 ただしこの方法だと臨時の対応ができなくなることがある。普段とは違う行動をしなくてはならないときに立ちゆかなくなる。これも困ったことだ。私には定期的にこの失敗があり、そのつど狼狽している。

 ルーティンだけでもだめで臨機応変の事態も対処できるようにしなくてはならない。そのためにも労力や金銭のコストをかけてもいつもとは違うことを敢えてする日を作らなくてはと考えている。木曜日はいつもと違う道を歩くなどから始めている。これも大きなルーティンといえばそれまでだが冒険の木曜日とでも銘打てば少しは脳の活性化に役立つだろう。

 木曜か金曜のブログにご注目あれ。

シャガ

 山野に自生する草花の中では美しさの上位に入ると私が思うのがシャガである。射干とか著莪と書かれることもある季語の一つだ。

 この可憐な植物は中国原産という。種子を作らないため、植生地を広げにくい制約を持ちながら、日本で広く分布するのは、この花を愛好する人たちが持ち運んだからだと言われている。山道などでも見るが、これも人が植えたり、かつて住んでいたところであったりするという人為的要因が考えられるそうだ。

 美しさ故に子孫繁栄に繋がるという例の一つと言えるのかもしれない。

不安

どんなときに不安になりますか ?

 私にとっては不安は永遠の友人だ。だから、いつ不安なると聞かれるならいつもだ。

 不安という友人を大切にしたい。彼がいなくなったとき、私の人生はほぼ終わると言っても過言ではない。私は不安を糧として様々な困難な状況を乗り越えてきたのであり、これがなくなることは動力源を絶たれることに等しい。

 だから、不安は自分が前に進むために不可欠なものなのである。なくなっては困る。いつもどこかにいる。幸運なことに不安の居場所はいくらでもある。それが現代社会の特徴なのだ。

 不安という友との付き合いは節度が必要だ。厚遇しすぎると牙をむいて我が身を害する。冷遇すると己の中の慢心が太りだす。制御するという気持ちで臨もう。これさえできれば最高のパートナーになり得る。

ツツジとハナミズキ

 親が選んだ町に来ている。バブル期に人口が増えた町は転入者が大半を占める。ただ、その世代も高齢者となり、二世三世が生まれるともうすっかり地元民だ。

 急造された道路もそれなりに風格を持ち出し、街路樹も大きく育った。特にハナミズキとツツジは鮮やかな色彩で引き立てあっている。この町に越してこようか。いま悩みつつある。終の棲家にはならないとは思うが、なるかもしれない。分からない。

 町に人が馴染むにはきっかけと時間が必要だ。

怒り方の色

 最近、よく怒られる。しかし、昔ならメンタルをやられたはずなのに今は気にしなくなってしまった。それにはいくつか理由がある。上司に怒られることが多い私のような方のためにやり過ごす秘訣を伝授しよう。

 大体怒りの原因の多くは本人の立場保全のためだ。部下にそのようなことをやられたら私が困る。要約すればそういうことだ。管理職ならば、部下の失敗をカバーするべきなのにそれを放棄して叱りつけるだけだ。これを見透かせるようになってから、叱られてもなんともなくなった。失敗は素直に詫びるがそれで許してくれるなら、理想的な上司だ。さらに愚痴を言ってきたら、心の中で笑っている。この前はそれを見破られてさらに怒られ、さらに笑った。

 管理職にはなったことがないが、過酷な職種だと思う。すべての責任が問われるのだから。でも細かいフラストレーションを部下にぶつけているようでは先がしれている。そもそも管理していない。

 私はそれが分かってから叱られるのが楽しみになった。度量を見透かす機会だからだ。ならば理想的な上司はどうすればいいだろう。それは怒りの色のグラデーションを多彩に操ることだろう。起こっていることがあなたのためだとしっかり伝えることなのだろう。私ごときに見透かされることがないように。

 怒られてばかりの平社員の皆様に言いたい。上司も辛いのだ。人を叱るスキルもないままに職を与えられてしまった。少し耐えればあなたがこの職に就ける。その時に思い出してほしい。怒り方、指導の仕方の多彩さを心掛けよう。それができれば今の上司を凌駕できるはずだ。

フレーム

 美しい絵画をみると感動するが、その中には額縁の存在もあることをつい忘れてしまう。額縁は作品を引き立てる大切な役目を果たしている。

 昔の絵画の中には絵の中に縁取りのような模様が描かれているものもある。それは中央の絵画とは付かず離れずの関係にあり、テーマをまさに側面から支えている。宗教画なら天使や悪魔、妖怪などが図案化されている。絵画世界を俯瞰しているかのような存在だ。鑑賞者はさらにその上から見ていることになるから、重層化した世界を見ているような感覚になる。

 普通の絵画でもフレームは創作と現実の境界として機能する。囲まれた世界は例え偽りであっても受容することができる。創作であることを示す目印と言える。

 パーチャルリアリティにしても、拡張現実にしても今のところはコンピューターの画面というフレームに収まっているから目印がある。しかし、恐らく近い将来、画面を飛び出した非現実が現れるだろう。そうなると私たちは自分で目に見えないフレームを作り出さなくてはなるまい。それを忘れると思わぬ悲劇が始まる可能性がある。

疲労

 昨日体力を使うことがあり、かなり疲労してしまった。ただ、改めて思うのは肉体の疲労は時間をかければ回復するということだ。日常の精神的な疲労は、肉体疲労に比べればはるかに分かりにくいが、回復するのには相当な時間がかかる。どちらが厄介なのかは明らかだ。

 日常から逃れることができたならと考える思考は昔からあった。それが祈りになり、宗教にもなった。ただ、生きていながら脱日常はかなり難しい。そこで折り合いをつけるしかなくなるのだ。

 考えてみれば、肉体的に疲れることは日常を生き抜くための手段なのかもしれない。必ず回復することを体感することで精神的にも救われるのだから。