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気晴らしのための創作

 高校生からしばらくの間、へたくそな小説を書いていたことがある。いま少しだけ残っているものを読み返すと多くは設定が甘かったり、破綻していたりする。当時はもちろん投稿してみたいと考えたこともあったが、それも本気ではなくほとんどが自分のための憂さ晴らしであった。

 その小説の多くはもし~だったらという内容のものが多い。もし、ある日特殊な能力を身につけたらというモチーフが多いのはおそらく当時似たような小説があったからだろう。その二番もしくは三番煎じなのである。当時の作品の人の顔を限りなく覚えることができたらという内容の小説はそのなかではまだましな方であった。誰もが顔見知りになったら世の中は窮屈かもしれないが、でも悲惨で非人道的な事件は減るのかもしれないという仮定の話である。ただし、それには全人類がこの能力を身につけることが必要で一部の人間の能力なら悲劇にしかならないということを書こうとした。

 いまはなかなか小説は書けない。書いてもショートショートの類である。でも、昔のように気晴らしのために書くのは意味があるのでは思いなおしている。もしできたら、寛容な気持ちがある方に読んでいただくとする。

いつまで

 各地で日ごとの最高気温の更新がなされているらしい。昨日はいわゆる酷暑日となる35℃を超えた地域が複数観測された。今日もまたその可能性があるという。

 暑すぎる気候のせいで農産物の収穫期がずれているらしい。植物によっては気温と日照時間とが複合して成長するものが多い。だから、この気温の状況は普通の生育を阻害してしまうのだろう。動物にも大きな影響が及ぶ、植物を食べる種にとってはまさに死活問題だろう。

 人間にも同じことが言える。高温多湿へ耐性はかなり身についたものの、疲労感が蓄積していることはいかんともしがたい事実だ。コロナウイルスの流行などが再燃しつつあるのには、体力の低下が関係しているに違いない。

 いったいいつまでこの異常な暑さが続くのだろう。暑さ寒さも彼岸までというが、彼岸はあとわずかに迫っている。

生物に託す思い

 昔から花鳥に思いを託す歌は数多い。鳥を歌うとき確かに表現されているのは鶯であり時鳥(ほととぎす)であり、雁であり、鶴であるかもしれないが、表現しているのは歌を作っている人の心である。作者が悲嘆にくれていれば雁が音は悲しいものであるし、幸せならば別に聞こえる。それより以前に実際には近くにいてもその存在を認知すらしないかもしれない。

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 犬や猫を飼っている人の話を聞くと、その愛玩ぶりを語りながらどこかにその人自身のものの考え方が透けて見える。ペットに自分の生き方の理想を見ていたり、現実逃避する際の方便として使われていたりする。犬猫の目を借りて自分の在り方を映し出しているのだろう。

 動物の場合はそれが分かりやすいが植物でも同じだ。植物も動物の一形態であることは誰でも知っている。そしてそれは大いに自己投影をしやすい存在であるということにもつながる。だから桜に移り気を感じたり、逆に微動ともしない潔さをみたりする。これも表現の手順から考えれば桜が潔いのではなく、そう見ようとしている人々が潔いことに価値観をもとめているのに過ぎない。多くの場合、現実には実現できない理想を生物詠を通して言語化している。

 犬を歌に詠むとき、それは犬自体ではなく実は作者の思いが歌われる。そのようにとらえなおして作品を読んでみるといい。面白い発見がたくさんある。

時間の長さ

 時間の長さの考え方は非常に相対的なもので、同じ1分が長く感じる時も短く感じることもある。これは若い頃の時間は長く感じ、歳を重ねると短くなるというのもある。しかし、私のように毎日をいい加減に過ごしているとかなり短く感じてしまう。気が付いたらもう何時間も経っていたということがある。

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 時間の感覚は様々な要因の複合のもとに決まるようなので一概には言えないが、一つには時間という概念をどのように意識しているのかが関係していることは言えそうだ。時間がないと焦っているときは時間は短く感じる。また、散漫になり、意識がもうろうとしているときも時間は速く過ぎる感がある。逆に時間以外のものに気持ちが傾いているときにはなかなか過ぎない時間を悩ましく思うこともある。やることが多すぎて、しかもそれがなかなか終わらない場合も時はゆっくり過ぎる。

 絶対的な時間を計る時計を常に身近に置きながら、このような柔軟な時間の概念を持っている事実を考えると、おそらく哲学的には時間は絶対的なものではないのかもしれない。

 

スーツにスニーカー

 業界の人ならすぐに見破られてしまう格好というものがある。いわゆるスーツを着ているのになぜか運動靴を履いていたらかなりの確率でそれは学校の先生だ。特に中学校か高校の教師が怪しい。我々はよく自嘲気味にこの話をする。

 着せ替えパズルに失敗したかのような格好をするのは訳がある。教員という仕事はよき整容を説きながらもやることが多く忙しい。その中には荷物を運んだり走ったりすることも含まれる。だからスーツのような服を着ることと、スニーカーで走り回ることの両方の要求を満たすためにこの滑稽な姿が出来上がるのだ。もちろんもう一つファッションの呪縛がかかりすぎていない人物であるということも加わる。

 私もその業界人なので例えば合宿や試合の引率でこのスタイルをとったことがしばしばある。何度かの反省の上、黒いスニーカーやウオーキングシューズと呼ばれている靴は比較的チグハグさが目立ちにくいとわかり、私の持っている運動靴はみな黒い。

良く考えてみればこのヘンテコな組み合わせは教員としての仕事着のようなものであり、別に卑下するものではない。かつては上着を脱ぐことさえ失礼とされ、夏でもネクタイを外さなかった。時代とともにドレスコードも変わる。だから一流企業の会社員が高級なスーツをきて足元は原色のスニーカーという姿もいつか許されるときが来るかもしれない。だとすればティーチャーズコーディネートは最先端ファッションということになる。

暮れやすく

 つるべ落としというまでではないが、日没の時間がだんだん早くなっていくことを実感する。仕事に追われて気がつくと窓の外が暗い。そういう季節が戻ってきた。

 暗い方がいいのかもしれない。エンドレスに仕事を続けてしまうことが少しだけ避けられるかもしれないから。あまり抑止力は強くはないが。

癖をつける

 野球を始めた頃、グローブに自分の癖をつけることの大切さ説くコーチがいた。子どもにとってはこわいおじさんなので、言われることは絶対だった。確かに使い込むほどにエラーが減った気がするが、それがグローブのせいかどうかの証明はできない。

 どんなことでも自分なりの癖をつけることは効率化のためには必要だ。癖を習慣と置き換えれば、ルーチンワークのようなものかもしれない。大谷翔平選手も打席に入る前や、マウンドに上がる前の動作がある程度決まっている。同じ目的の動作をするときの行動ははたから見ると不思議なほど形式化しており、まるで儀式のようだ。

 やり方が変更され、なおかつそれを繰り返さなくてはならなくなったとき、つまり新しいルーチンワークが生まれたとき、この儀式を早く組み立てることが必要だ。これがたやすくない。はじめのうちは言葉に出して定着させよう。

 新入りの鉄道車掌が声を出し、指差しで安全点検をするのを見ると微笑ましくも頼もしくも思う。まずはあの方法を模倣しよう。

自宅以外でのデジタル文書作成

 この夏はあまりにも暑かったので、近くの図書館やカフェに「避暑」で行くことが多かった。紙の本をじっくり読むことが中心だが、やはりデジタルでメモをとったり文書を書いたりすることも必要になる。その際にはスマートフォンでは私としては物足りない。フッリク入力ではうまく入力できない。キーボードがないと入力までにアイデアが消えてしまう。

 そこで、最近ではBluetooth接続するキーボードを持ち歩いている。これは以前にも紹介したことがある。電池で動き、その寿命が長いので電源で困ることはない。

これをスマートフォンにつなげばとりあえず、入力のストレスはなくなる。キーを叩く際に音がほとんど出ないので図書館でも使えるのがよい。WindowsでもiOSでもandroidでも使えるのもいい。スマホのほうは100均で売っているスタンドにおいてディスプレイのようにして使っている。私の場合これが基本の使い方だ。

 WordやExcelといった文書を本格的に使いたいときは少し前に買ったsurfaceというタブレットを使う。これはプレゼン用に使うことを目的として低スペックのものを買ってしまったため、ソフトの起動の遅さなど10年位前のコンピュータの性能を思い出させるものだが、一度立ち上がればそこそこ使える。Windowsで動いているので基本的にはパソコンと同じ操作感覚だ。

 専用のキーボード付きカバーを追加で購入すればほとんどモバイルパソコンと変わりはない。上に紹介したものは教員が授業で使うのならこれで十分という情報のもとで入手したものだが、スペックが低いため、いざというときにうまくいかないことが多い。少なくとももう一つ上くらいのグレードがいいと思う。私はこれで十分だが。

 そして、本当に何とかしたいという場合は自宅の小型ラップトップを持ち出すことになる。1.5Kgほどあり、さらにアダプターなども入れるとそこそこ重たい。夏場はカバンをリュックサック状にして持っているので気にならないが、宿泊を伴う出張ではPCの出番となる。

 上に示したのは私が使っているのと同じくらいの性能だ。パソコンはもっと軽くて性能がいいものもあるが、予算との相談になる。私の場合はもう今あるものを使い倒すしかない。性能は低いが用途をしぼればほとんど問題は生じない。

 最近はどこでも無料のWi-Fiサービスを提供しているから、原則的にはそれを使う。気休めにVPNを通すがどのくらい意味があるのかわからない。Wi-Fiが使えないときはスマートフォンからのテザリングを使っている。少し前まではこれが大半だった。最近は公衆Wi-Fiが使えないときだけの緊急避難的な方法になった。

 東京や神奈川で生活している私にとってはこれでほとんどのことができる。あくまでもインプットをするための外出だが、アウトプットする手段も整ってきているということだ。数時間、ハンバーガーショップの席を独占していても迷惑にならない状況であれば居続けてしまう。マクドナルドの場合はコーヒーをクーポンを使って買えば150円弱だ。スターバックスやタリーズはコーヒーだけでも堂々としていられるのがよい。サンマルクカフェは電源の取れない席が多いがそれ以外は居心地がよく気にっている。もっともこれらは支店によって環境が大きく変わるだろう。

 こういったことはすでにご存じの方にとっては当たり前だろうが、知らない人には知っていればいろいろな利便性も生じることだろう。私は試行錯誤していまに至っている。このブログが本当はない書斎をデジタル上に作るという思いで作ったものだが、その仮想の書斎は自宅でなくてもいいことになる。

比喩の力で自分を救う

 行き詰った状況の時に突破口になるのが比喩の力である。現状を何かに例えると少しだけ気持ちが整理される。そのときにどのような心理が働いているのだろう。

 ここでは直喩を例に挙げる。「のような」「みたいな」などを使う比喩の方法である。今は大変な状況だがそれは「ジャンプするまえにかがむようなものだ」とか、「夜明けの前の暗闇みたいなものである」といった比喩である。これは自分の中にある悩みとか弱みを一般化することで深刻さを緩和する効果があるのかもしれない。

 ただたとえるものを間違ってしまうと逆効果になる。暗澹たるもの、終末的なものに例えてしまうと現実はそれ以上に深刻化する。自らを励ますためにはそれなりの語彙力が必要だ。明るい色合いの言葉をたくさん持っていることが自分を救う。