タグ: 現状打破

オンリーワンの美学

 ナンバーワンにならなくてもいい。オンリーワンを目指せという言葉は流行した歌詞にもあって人口に膾炙している。しかし、これは言うに易し、行うには覚悟がいる。負け惜しみと区別がつきにくいのだ。

 ただやはりオンリーワンの美学は大切だと思う。人を何かの物差しで測るとたちまち序列が生じる。身長順、年収順、家柄の序列、その他何でもいい。たちまちに序列が発生する。ただ物差しが変わればこの順番は一変する。例えばもっとも私の性質を備えたものという基準では紛れもなく1位は私である。

 物差し次第で世界はいくらでも変わるということを私たちはもっと意識していいのではないか。私は他にはいない。極めて不格好で要領がよくないがこれらの条件をすべて満たしているのは私しかいない。不細工と不器用の絶妙なバランスだ。歴史を学ぶとあらゆる美意識も価値観も無常である。たまたま誰かの基準で低い値になったとしても、過去もしくは未来においてその数値がそのままであると誰が保証できようか。

 最近の私は全く時流にはあっていない。それで衰微していくのが既定路線なのかもしれない。でも少し上空に登って見下ろそう。お前の振る舞いは単に時代遅れなのか。それとも真の評価がなされていないのかと。

 老いの繰り言と失笑されそうだが、やるべきことをやり続ければ必ず世の中のためになる。その役を演ずることをまだ諦めたくはないのである。

とにかくやってみる

 昔書いたノートなどを偶然発見すると同じ自分なのかと思うくらいの差を感じる。内容は稚拙だがとにかくいろいろ書き込まれていているのだ。その中には冗長なものが多いが何よりも挫けず書き続けていたことに驚く。

 馬齢を重ねれば無駄な動きはしなくなる。ただ、新しい発見はしばしば無駄な行動から発生するものだ。だから、新機軸を打ち立てることも難しくなっていく。

 若者にあるのはとにかくやってみるという行動力だろう。それが失われると発想や行動が固定化していく。新しい価値観も生まれにくい。だから、この歳になってできるのはもう失敗を恐れないことだ。効率を考えないことだ。とにかくやってみることなのだろう。

 若い頃はよかったなどとは言いたくない。今を終わったものにしないためにも結果を考えずにやってみることも大切だ。

職業差別

 職業による差別的な発言をして辞職に追い込まれた知事がいる。報道されたコメントが事実だとすれば市民の代表たる資格はないとしか言えない。度々軽口をたたいては謝罪してきたというから、本人の気質の問題なのかもしれない。

 ただ、変な人の許しがたい行動と片付けてしまうと、労働に対する考え方は変わらない。差別された業種は農業、酪農家、製造業に相当する。これらの職業は人手不足の危機に瀕している。それは労働の対価が低いことにも原因がある。そして彼らがいなくなるとこの国は回らなくなる。

 経済的支援や人材育成のためにやらなくてはならないことがある。それをせずに悪口を言った人を責めるだけは解決はしない。

使わない技術と節約する技術

 電気自動車が環境問題を解決するという幻想に世界が気がつきつつある。排気ガスを出さないことは大切だが、電池を造ったり廃棄するためにかかるエネルギーを勘案するとマイナスになるとの予測もある。

 重要なのは例えば車で言うならば乗らないで済む社会を作ることにある。日常生活の中での移動に公共交通機関を活用する方策を発明するべきなのだ。また、それでも車に乗らなくてはならない場合は、なるべくエネルギーを使わない仕組みが必要だ。最低限のエネルギー消費にできるようにインフラを変えていく必要がある。

 これまでは個々人が移動手段を自己判断で獲得してきた。するとどうしても無駄が発生する。同じところに行くのに別の車に乗り、不慣れな運転のために道に迷ったり事故を起こしたりする。これが積み重なると大きな消失となるのだ。

 同じところに行くのなら公共機関に託してもいい。高度な行き先設定は人工知能に任せよう。最低のエネルギーで最高の経験ができるはずだ。もし、運転それ自体が好きならば、そういう楽しみのためのコースを別に作ればいい。

 電気自動車を乱造するよりも、車に乗らなくていい、乗ってもエネルギーをなるべく使わないシステムを考える方を優先すべきだと考える。

2歩下がる

 月初めは少し気分が変わる。正確には変えるように無意識に考えるようにしている。特に師走の始まりは意図的に何か区切れをつけようとする。

 私にとってはそれだけではなく、安住のルーティンから抜け出すための区切りとなりそうだ。いや、これも正確にはそうしようとしている。何も考えずに物事を行うのは楽でよいがいつまでもそうしてはいられないこともある。

 まずは初速度をつけなくてはならない。ここで大きな変更が生じる。精神的にも辛いことが起きるだろう。私の場合は過去の遺産を整理することから始めなければならない。価値を感じていたものを手放すのは勇気と一種の狂気がいる。でも、やらなくてはならない。

 ものを捨てれば心が落ち着くと説く人がいるがあまり当たってはいまい。落ち着くのではなく諦めるのであり、逃げであり消滅でもある。それを越えてでもことを行うのが今の私に求められている区切りなのだ。

 師走故にいろいろ考える。私にとってはまず3歩進むための2歩後退の月になるかもしれない。これも正確にはそうしようとしている。

頑張れる時間

 無理をしてでも何かをやり遂げるためにはそれなりの覚悟がいる。効率とか能率とかそういう評論家の先生が言いそうなことを振りきってやり続ける努力が必要だ。

 若い頃はそれができることもあった。数日ほとんど寝なくても目標が決まれば敢行できた。いまはそれが難しい。残念ながらあっさりと寝落ちしてしまう。耐えられても翌日が悲惨な状況になる。加齢を実感するのは容姿容貌ではない。この方面の粘りが効くのかという問題だ。

 他のことを忘れて一つのことに熱中できることを仮に「熱中力」と呼ぶとすればこれには体力の裏打ちが不可欠だ。体力を失いつつある私にとっては、とにかくやるしかないという耐力の方に期待するしかない。

 頑張れる時間をどれだけ持てるのかはこれからの基本テーマとなる。それを悪あがきとも痩せ我慢ともいう。醜態を晒すことは前提条件にしなくてはなるまい。

あり得ない妄想

やり直せたら

 あのとき別の選択肢を取っていたらとはよく思う妄想である。別の選択をすれば関連して更にいろいろなことが変わり、結果として全く別の状況になる。いまとは違う自分がいるはずだ。

 こういう考え方をしているとき、無意識のうちに並行世界を考えていることになる。量子力学理論ではないが世界はいくらでも分岐すると漠然と考えている。

 学問的な裏付けの有無にかかわらず、この考え方は実は妄想のようなものだ。一人の人生では一通りの経験ができず、それを俯瞰的に捉えることはできない。どんなに並行していても見えなければ存在しないことと変わらない。

 それでもこの妄想をすることは楽しい。それは人生を少しでも豊かにしたいという思いによるものだろう。ただ、生きられるのはやはり今の人生しかない。

ダメもとチャレンジ

 何が足りないかといえば成功率の低いことに失敗を覚悟してでも取り組む勇気だろう。きっとそれが若さの喪失というものらしい。

 失敗すれば痛みが伴うし、ときには生き方を変えるようなダメージを受けることもある。それが怖いと前に進めない。

 考えてみればこういう経験は変化の契機なのだ。変化することで新しい局面が開かれるし、そこに新次元が生まれる。だから、失敗は無駄ではなく大切なのはものなのだ。

 ダメもとのチャレンジをすることはこの意味で必要なことなのだ。

まだ何もないところへのパス

 サッカーやラグビーの選手の出すパスはまだそこに誰もいないところに向かって出される。だから、相手も取れない。

まだそこにいない相手に

 パスを送る者も受ける者も動きのエネルギーの方向や大きさを予測し調節しながら試合をしているのだ。それが際どいものほど、スーパープレーということになる。

 恐らくこれはスポーツ以外にも当てはまる。まだ起きていない事態に向かってパスを送る。そしてそれを受ける相手はその場所に最短距離で向かう。これが上手くいけば大きな成果が得られる。

スポーツが人生のヒントになるのは、スポーツが人生の一部を切り取って強調したものだからだろう。複雑な要因の枝葉を落とすことでものごとがわかりやすくなることはある。

極めること

 どんなに下手でも極めることが大事なのだろう。私たちはすぐに他人と比べてせっかく始めたことでも自ら才能を見限ってしまいがちだ。でも本人が続けることに楽しみを感じている限りは続けるべきなのだろう。

 すぐに上達する天才もいるが、それよりも下手でも楽しくやれる方が幸せな気がする。極めることが大事だ。