道路脇の僅かな空間にヒナゲシがこぼれ咲きしている。恐らくどこかの庭から来たのだろうが、それと思われる家は代替わりして園芸には興味がなくなったようだ。花だけが敷地外に生き延びた。
ヒナゲシは虞美人草ともポピーとも言われ、名前ごとに印象が異なる。可憐で華やかなお花でいかにも弱々しい趣きだが、こぼれ咲きに耐えるだけの繁殖力がある。見た目と異なる生命力に驚く。
項羽の無念に例えられる草花が存外逞しいというのは意外だ。いやそれ故に悲劇性は増すのかも知れない。
日々の思いを言葉にして
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大学に合格した皆さんに申し上げたい。その合格は決して自分の能力だけで勝ち取ったものではない。学習が出来る環境を用意してくれた家族や周囲の人々に感謝すべきなのだ。
嫌な言い方をすれば貴方よりずっと有能で有望なひとは必ずいるはずだ。彼らの中には学習しようにもそのような環境に恵まれなかったひとが少なからずいる。もし彼らが条件を勝ち取っていたら、貴方よりもっと素晴らしい何かを成し遂げる人が登場したかもしれないのだ。そのことを忘れないでほしい。
貴方がたの中には将来的エリートとしての人生を歩む人もいるかもしれない。大学でさらに学び何かをすればの話だが。エリートになった時に考えて欲しい。限られた人しかエリートに慣れない国家と、才能ある人がチャンスを生かせる国家のどちらがいいだろうか。自分さえ幸せならばそれで構わないと考える特権階級ばかりいる状態と、自らも切磋琢磨しなければ後生をおそれることになる社会のどちらが健全なのか。
自分だけよければいいと考えるエリートがやがて社会を壊す。そんな予感がする。すでに多くの兆候がある。決して間違ってはならない。大学に合格した人ならば分かるだろう。多くの栄華を極めた王族や国家、企業の衰退の原因を。

中学生に教える教材としての小説に山川方夫『夏の葬列』という短編小説がある。疎開先で敵艦載機の機銃掃射に遭遇し、自分をいつも助けてくれた姉のような人を恐怖のあまり突き飛ばし、結果的に死に至らしめたことへのトラウマが描かれる。過去との決別のために悲劇の地を再訪した主人公は新たな悲劇を知ることになってしまう。掌編小説としては完成度が高く、限界状況での人間のふるまいやその後の人生観の変化などが分かりやすく描かれている。
この小説を何度も教えてきてその都度不思議に思うのは、この小説の設定の通りだとすると1945年8月14日に連合軍(アメリカ軍)が日本の本土を空襲することがあったのだろうか、そして明らかな民間人を機銃掃射で攻撃することがあったのかという疑問である。もしそうならば戦争犯罪に近い行為であることになる。
この件について調べてみると、興味深いことが分かった。山川方夫が疎開していたのは現在の二宮町であったという。ここはその東に平塚、西には小田原がある。湘南地方には軍需工場が多数存在していたらしく、それを殲滅するための攻撃であることは想像できる。しかし、8月14日は日本が降伏を宣言する前日であり、ポツダム宣言の受諾はほぼ間違いがないとされていた時期であったはずだ。地元の史家が収集した記録によると、小田原では8月に何回か民間人が艦載機の機銃掃射で死亡する事実があったという。特に13日には小学校が空襲にあい、教師と用務員が犠牲になっている。さらに14日の深夜、もしくは15日の未明には小田原市内に多数の焼夷弾が投下され、402戸が被災し、12人が死亡したという(一説に死者は48人)。この爆撃が伊勢崎や熊谷を爆撃した編隊が残留弾を消費するために行ったという説もあり、いろいろな意味で許しがたい。戦争はこのように非道な行為が正当化されてしまう。
「夏の葬列」はあくまで創作であり、事実に基づかなくてはならないというものではない。でも、14日の空襲は実際にあったことだし、民間人への機銃掃射もなかったとは言えない。芋畑を無防備に歩く人への攻撃は作り話だと思いたい。残念ながらそれ以上に非道な、無差別の空襲や、原子爆弾などによる大量殺戮もあることは忘れてはならない。
この小説は主人公が抱えた原罪の意識をどのようにとらえていくかが読みどころとなる。そこが反戦小説を超えて読み継がれている所以だろう。ただ、やはり戦争というものがもたらす限界状況が人の判断を狂わせるといういかんともしがたい事実を私たちは様々な場面でかみしめる必要がある。

人の性格や行動は実はかなり複雑だ。優しい人にも厳しい一面はあり、陰険と思われている者が影では善人であったりする。本当は一言では言い切れない。それを強引に分類していまうのが私たちの日常である。
こうした人物像の簡略化は、時間とともに進行するのかもしれない。相手との交渉がなくなると、過去の記憶の中でその人物を想起する。その思い出の人物像はすでにまるめられており、時間とともにさらに末端が削られる。故人に対してはもう出会う機会はないから、時間とともに固定していく。
写真に例えてみる。撮影の時点でその人の典型的な姿が選ばれる。それでも何枚もの写真の中にはその人物の様々な一面がほのみえる。ところが時間とともにその中の写真の大半は失われ、数枚だけがその人の思い出として残るのだろう。
人物像はこのような仕組みでできている。さらに英雄伝説に誇張がありがちなように、このわずかな印象も変質を始めていく。本当はどんな人物だったのか容易には分からなくなる。人を考えるときにはこうした仕組みを思い出さなくてはなるまい。

今年の旧暦3月3日は、4月3日だそうだ。それなら桃の花も頃合いだろう。ひな祭り以前にこの日は禊の呪術が行われた日であり、宮中では曲水の宴が開かれていた。
平城京左京三条二坊宮跡庭園にはかなり前に訪れた。その頃は発掘したままの形であったが今は本当に水が流れているらしい。文字通りの曲った複雑な流路を見て深く感動したことを覚えている。家持もここで詠歌することがあったのではないかと。宴席歌と庭園の関係について関心をもったのはこれを見たからだった、
曲水の宴は観光行事でしか行われなくなった。ただ、その原点である禊の考え方はどこかで続いている気がする。流し雛も環境問題に反するのでそのままの形ではできない。ならば現代文明の粋を集めて架空の川を作り、そこに穢れを流したい。流した穢れが別の誰かを穢すことがないよう。注意深く設計して。
雛人形の抱える歴史をこの機会に思い返したい。
ロシア軍がウクライナに侵攻するのではないかという憶測が出ている。オリンピック終了がその機会であると具体的に考える人までいる。ロシアがウクライナの領土を求める理由はいくらもあるというが、それも逆から見れば別の論理になる。どんな釈明が成立するのだとしても戦争は回避すべきだ。
ウクライナの歴史といえばクリミア半島をめぐるロシアの執念が想起できる。世界史の授業でもこの件は大きく取り上げられていたので知っている人は多いだろう。私もその程度の知識しかない。もともとこの地にはウクライナ人のほか、多くのロシア系、ベラルーシ系の人が住み、さらには隣国のモルドバ系の人や、モンゴル帝国にルーツを持ちイスラム教徒のクリミア・タタール人、さらにはユダヤ人もいるという多民族国家だ。だから、ロシアに対しての思いも様々であり、中には独立もしくはロシア併合を望む国民もいるというから複雑だ。

Irina KushnikovaによるPixabayからの画像
どこの国でもそうだが歴史の積み重ねによって多様な人々が同じ土地で同居しており、それゆえのトラブルもある。しかし多様性はその地域の強みにもなり、うまく生かせれば利益を生むことの方が大きい。おそらく、かなり長い年月をかけて現在の国民国家という枠組みはなくなっていくのかもしれない。夢のように長い物語の末の話だろうが。
戦争による現状の変更は一時的には達成できても長期的には無駄になる。多くの人的犠牲が出るし、怨嗟はいつまでも続いて別の戦いの種となる。それは歴史から学ぶことができる教訓だ。ウクライナは確かに複雑で一筋縄ではいかない。しかし、性急に力による変更を加えてもゆがみが大きくなるばかりなのだろう。関係国の思惑がさらに話を複雑にしている。
日本人としてできることは少ないが、戦争の不毛さは訴えることができるだろう。この国もかつて戦い未だにその傷が癒えない。確かに経済的には復興できたが、隣国からは時に恨まれ、結果的に大きな損失を受けている。やるべきことは戦争ではない。ほかの方法を考えていただきたい。
劣勢に立たされた時にいかに生き残るかは大切な問題だ。目的が生存ならばうまく立ちまわる必要がある。そのために必要なのは少し先の展開を読む力だ。
ならばその力はどこから生まれるかといえば、学問と経験によるものだろう。江戸を生き抜いた小藩の歴史にそのヒントを求めることができるかもしれない。
遺伝子の解析により沖縄で発見されていた港川人は日本人の先祖ではないという結果が出たという。先日メディアが紹介していた。
港川人は新人としてはかなり古い時代の地層から発見され、縄文や弥生の時代の列島人の祖先と考えられていたが、DNAの性質からどうも違うようだ。人類のグレートジャーニーの中で先に列島にたどり着いたものの、あとから来たものに住人の地位を譲ったことになる。それが自滅か、平和的な移行か、あるいは暴力のはてなのかは分からない。遺伝子情報が物語ることが正しいならば出会いすらなかったのかもしれない。
考古学的な時代について考えるとき、いつも思うのは現在のあり方は偶然によるものだという当たり前の事実だ。私がこのような姿形をして特定の生活文化を持っているのも偶然の積み重ねの果てのことに過ぎない。だからこそかけがえがないのであり、他との優劣を論じるものでもない。
骨格しか残らない港川人が先祖ではないとしても、更にその前の時点では繋がっていたという。この事実も時々思い出したい。

ふらりと近隣の市の城趾に来てみた。早朝ゆえ人影は少なく、ひっそりとした山城を訪ねた。急な階段を登って本丸跡と呼ばれる空間にたどり着くと山藤の見事な株があった。鮮やかなしかも派手すぎない色彩は少々敏感になっている心に染みた。
3月3日はひな祭りとして日本では女子の成長を祝う日となっている。本来は古代中国の陰陽思想に基づくもので、奇数のぞろ目の日が節日として特別扱いされていたのに基づく。
古代の宮廷では上巳の節句とも言われたようだ。曲水の宴なども行われ、風流な一面もある。旧暦のこの日は今より暖かく、様々な花が開く春の一日だったはずだ。その根源は禊や祓いをすることであったという。日本の宮廷には定期的にこうした行事がある。
科学の進歩により簡単には穢れは消えないことがわかってきた。しかし、古人が年に何度も禊を繰り返したように、何かにすがって生きるのも一つの知恵なのかも知れない。