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立春

 立春は名のみでとても寒い一日だった。ただこれが春の始まりであることは違いない。今シーズン最大の寒波が到来しているらしいが、寒さの後には春が来る。

 『万葉集』の最後の歌は天平宝字3年(751)1月1日、大伴家持が因幡国庁で歌った。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけよごと

である。朔旦立春というめでたい年だったらしい。旧暦1月1日と立春が同日になることである。太陰太陽暦では月を基準とした暦日と、太陽の位置を基準とした節気とが併用されており、これが年によって変動するのだ。日本においては次は2038年であるという。13年後である。

 『万葉集』の巻末が立春の歌であることと、『古今和歌集』の巻頭歌が立春であることは偶然であろう。

年のうちに春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ

 在原元方の歌である。いわゆる年内立春を歌う。旧暦元旦より先に立春が来てしまったので、昨日までの日々をもう春になったから去年と言おうか、まだ元旦になっていないから今年と言おうかという歌でかなり理屈っぽい。背景には春が一年の始まりという観念がある。正岡子規はこれを酷評したが、当時の人からすれば理知的な作風はかなり評価が高ったはずだ。だからこそ記念すべき最初の勅撰和歌集の巻頭に据えられたのだろう。暦日の矛盾をテーマにした作品はほかにも多くある。

 立春に期待する気持ちは古代からあったようで、実は年間でも最も寒い時期であるのにも関わらず、来るべき春の気配を必死に感じ取ろうとしていたのだろう。私は古人ほどではないがやはり春に何かを求めてしまう気持ちはある。

観光とは何か、大学共通テストから

 共通テストの現代文の問題にも時代の影響が現れる。今年は観光とは何かという内容の文章が評論文として出題された。背景には昨今のオーバーツーリズムなどの社会問題がある。

 文章の内容に便乗して考えると、これまで日本人は外国に観光に行く側であり、旅の恥はかき捨ての乱行もあったはずだ。比較的礼儀正しいの言われる日本人観光客も、現地の人がどのように捉えていたのかは分からない。

 今、逆に多くの外国人を迎える側になって、一部の観光客のマナーの悪さを非難する論調を散見する。中には露骨に外国人の入店を拒む店もあるらしい。各店の定める基準に口を挟むつもりはない。ただ、外国人客をうまく取り込まなければ経営が成り立たなくなる業界もあるのは事実だろう。

 観光とは何かを考える今年の問題文はその意味で非常に今日的であり、考えて行かなくてはならない問題である。受験生にそのメッセージは伝わったのだろうか。

形を見出す力

 何の意味もない図形の中に意味のある形を見出してしまうのは人間の能力の一つなのだろう。火星表面の写真にいくつもの動物や人面などを見つけ出してしまうことは有名だ。火星までいかなくても私たちは、身近な幾何学模様や、自然の造形物に同じように何らかの形象を見出す。パレイドリア現象というそうだ。

 最近買おうと思っているスマートフォンのカメラの配置が生き物の目のような配置になっていることが一部の人たちの話題になっている。これはデザイナーがパレイドリア効果を狙って作ったものと考えられる。人の表情は単純化されやすく、いわゆる絵文字の類はこれを最大限に利用したものだ。確かに(^.^)は人面に見える。この力を活用したものが漫画などの画法である。細部まで描きこまなくても脳が勝手に足りない線や面を足してくれる。省けるところまで省けばかえって表現の可能性が高まる。

 どこまで省けるのかを考えていけば抽象画の世界にたどり着く。逆に意図してない自然物を組み合わせて観客に自由にものを見出させる芸術もありうる。そしてそういう作品にこれまで何度か出会ってきた。見る人によって見えるものが変わるという芸術である。

 これは脳の見せる錯覚であるともいえるが、その錯覚のために私たちは複雑な世界をとらえることに成功してきたのだ。単純化とその敷衍が面倒な世界を抽象化してくれる。詳細を見逃すことで物事をとらえやすくし、本当は個々に異なる対象をグループ化しまとめて把握することができるのである。形を見出す力は、人類が長い進化の上で獲得した一つの能力なのだろう。

 

冬至の祭り

 2024年は12月21日が冬至に当たる。二十四節気のうちの大きな節目である冬至は一年で最も昼の長さが短くなる日であり、逆に言えばこの日から昼の長さが少しずつ長くなる。その意味では復活の日ともいえる。古人は物の影が最も長くなる日として把握していただろう。多くの節気が暦の存在を前提としているのに対し、直感的に感じ取れる当時は特別なものであったはずだ。

 冬至の記録上の初出は『続日本紀』の725年11月の記事である。当時は聖武天皇が国家仏教の考えのもと様々な行事を行っていた時期であり、冬至を祝うのも大陸の風に倣ったものであろう。ただそれ以前から、冬至に関する民間伝承はあったはずだ。たとえば天岩戸神話が冬至に行われた祭祀と何らかの関係があったのではないかという説は有力である。世界を見渡してもクリスマスのようにこの時期の前後に何らかの宗教行事を行う文化は多い。しかもそのテーマが復活や再生であることは自然現象に対する人間の素朴な信仰に端を発しているのかもしれない。気象学的には厳冬期に入る直前の季節であるが、日の長さが長くなる事実は人々にとっては頼もしいことであり、生命力の再興を想起させたのだろう。

 南瓜を食べたり、柚子湯に入ったりとさまざまな民俗があるが、今よりはるかに過酷であった冬季をしのぐための生活の知恵が形を変えて定着したものと考えられる。現代人はその理由をすでに理解できなくなっているが、おそらく切実な願いが背景にはあったのだろう。空を見上げることも、明日の天気を占うこともおろそかになっていることを反省するのである。

雑種文化

 雑種文化というとかなり抵抗がある。ただし、それを独自の文化といえばかなり違った印象にになる。多くの識者が説くように日本の文化は複数の文化の融合からなる。これも言葉を変えれば雑種であり、少しかっこよくいえばハイブリッドである。

 純日本風という言葉は色々な意味で解釈が難しい。日本独自のものはないが、日本にしかないものはある。トートロジーのようだがそれが現実だ。日本の文化が先行する要素を取り入れながら、その本筋は変えず、したたかに現実に合うように変更していく。それがこの国の伝統であり、我が国独自の性質である。

 この事実は実は時代を先取りしていた。グローバルな時代では自分のアイデンティティは他国他民族との対比の中から芽生える。他国とは違う何かを見つけたとき、それが自国文化を語る物差しとなったのだ。それを在来の文物、制度の中に織り込んでゆくことで和風が常に生成されている。

 柔軟性を忘れると活力が失われる。これは本当の生物のあり方にも似ている。

中華という日本料理

 中華料理というのはとても人気がある。中国由来の料理であるとされるがその中には日本でアレンジされたり、日本で発明されたものも多いと聞く。

 ラーメンは日本に渡ってさまざまなバリエーションが生まれ、中国にはない味もたくさんあるという。和風中華の最たるものだ。餃子は中国では蒸したり煮たりするのが中心で焼きはしない。麻婆豆腐は辛味をかなり抑えて日本人向けにした。天津飯は天津にはなく、餡掛け飯は恐らくどこかの家庭料理だった筈だという。

 私はラーメン餃子のセットを頼むことが多いがいずれも中華風日本料理ということになる。これに限らず日本は和風化の得意な国だ。ただ、その元祖への敬意を失わないことも特徴で本場中国風などという形容もよく取られる。文化の取り入れ方の特徴だろう。

小さな怪物の正体

 隣町にある図書館に通うことをほぼ日課としている。今日は朝からハロウィンの仮装をした子どもたちの姿をたくさん目にした。どうやら地域が主催したイベントがあったようだ。本当のハロウィンに近い10月最後の日曜日が選ばれたのだろう。カボチャ色のドレス、骸骨がプリントされたジャージ、ディズニーのプリンセス、ゲームのキャラクターなど様々だった。ほとんどが小学生低学年以下の子どもであった。

 ハロウィンの趣旨をどれほど理解できているのか、親の望みにただ従っているだけなのではないか、などと思いもするが、いい大人が乱痴気騒ぎをするのと違って可愛らしくも微笑ましくもある。これは子どもの行事であると改めて考えさせられた。

 子どもが家々を回り、門付けの芸能人を行い、代わりに報酬を受けるというスタイルは、我が国古来の民俗にもある。神の代理として家々を祝福して回る者で、広く言えば芸能人の元祖のようなものだ。今の芸能人は電波やデジタル信号に乗って芸を見せるが、かつては本当に各家を巡回していたのだ。その子ども版もあったのである。

 ハロウィンがそれと同じとは言えないが、キリスト教の普及以前からあった民間信仰が背景にあることは想像できる。その類似性がこの行事の受容を容易にしているのだろう。得意の和風化によって、大人のハメ外しにしたのは良くなかった。韓国の悲劇も間接的に影響を与えてしまったのかもしれない。

 恐らく根幹にあるのは収穫感謝と先祖崇拝であろうと考えている。アメリカのジャコランタンは先祖を迎えるための道具のように思えてならない。先祖の役を子どもが行うことに意味があったのではないか。

 ちっともキリスト教的ではない風俗が、むしろそうであるからこそすんなりと受け入れられたと推測する。仮装することばかりが注目されるが、その意味について考えるのは無意味ではない。

読解力が導く新しい世界

 後に大家と呼ばれる作家のデビュー作の中にも酷評を受けたものが多数あるという。読むに値しない作品だ、などというのはまだいい方で、作家の人間性を傷つけるような行き過ぎたほとんど誹謗中傷というものまである。

AIが生成したこの記事のイメージ

 これにはいくつかの要因があるようだが、その第一は読み手としての受け入れ方法が見つからなかったことにある。新しい表現法、新しいテーマ、新しい視点といったものは新奇性というより、奇異性の方が先行する。結果としていかに読めばいいのかわからないのだ。

 時代を変えるような作品の中にはそれを受容する側の能力との釣り合いが求められることがある。その均衡が図られるまでは作品が評価されることがないのかもしれない。作家が先行しても読者がいなければ作品は浮かばれない。

 物差しのない中でその作品の価値をなんとなく見抜くのは実は才能なのかもしれない。よく分からないけれどなんだか凄いと感じる。そういうことができる人が現れてくると新しい作品が生まれる。こうした読解力を持った人が真の読者というべきなのだろう。

 小説の話で書いているが、これはどんな方面にも当てはまる。新しいもの、今までになかったものにどういう評価を下し、どんな価値を与えるのか。それには奇異と映るものを粘り強く受け入れることが要求される。そしてそれが達成されることで新しい世界が始まるのだ。

伝説と昔話

 民俗学を学ぶものはごく初期に伝説と昔話の分類について学ぶ。昔話は桃太郎や一寸法師などの例を想起すれば分かるように、定型があり、聞き手側がある程度非現実性を認めていることだ。

 すなわち、関東地方の例では話始めが「むかしむかし」であり、終わりは「めでたしめでたし」である。またあるところという不特定情報が提示され、登場人物の素性についても極めて曖昧である。昔話の聞き手、もしくは読者はそういった詳細情報には無関心で、一部虚構であることも承認している。

 それに対して伝説というのはとにかく核となる物事があり、それが真実だと考えられている。話す方も聞く方もかつてあった本当の話として語り継がれるのである。それが昔話との大きな違いである。伝説には話法においては定型はない。その代わり、核となる事物が今でも存在し、話者も聞き手も話されている内容が事実であると信じている。話の定型はなく。不可思議な話が次々に展開される。

 伝説のいくつかはその現場に行った経験があるはずだ。特定の自然物もしくは人工物が、何らかの由緒をもって語られる。義経、秀吉、家康のような歴史上の人物がその主人公になっている場合もあれば、不特定の人物がその代わりになることもある。その誰であるにしても、語り手は(そして聞き手は)本当の話として語り、聞いているのである。

 都市伝説という言葉もある。これは現代社会における伝説をいうものだが、従来の伝説と類似していながら、少し異なるところもある。伝統的な伝説ではあくまで話者も聞き手も完全にその内容を信じており、それを語り継ぐことに意義を感じていた。しかし、都市伝説にはそのような伝達主義はなく、もっと余裕がある。信じなければ天罰が当たるといった考え方はなく、むしろ流言飛語のように受け流しても構わないというくらいの位置づけである。伝説の後進としては変わり者で、不真面目でもある。

 ただ、これも気をつけなくてはならないことがある。どんなに怪しい話でも現代の都市伝説は、メディアにのってしまうとそれなりに説得力をもってしまうのだ。実は冗談から始まったことだとしても、それがあたかも切迫した事実のようなふりをする。現代の伝説は別の意味で信用される可能性があるのだ。

 冷静に振る舞うためにはここまで述べた民俗学的な知見を知っておいた方がいい。話はいかに展開し、変化していくのか。民間の言説の特徴を理解しておいた方がよい。

実用主義と基礎研究の対立

 科学者にとってノーベル賞は自分の業績を評価してもらうための大切なものらしい。特に基礎研究をしている人にとっては、一般人が何のためにやっているのか、何に役立つのかを理解するのが難しい研究領域を、一気に知らしめるきっかけになる。日本人はこの基礎研究の分野で一定の評価を受けてきたようで、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。彼らの研究はその後の応用科学や技術を導き出している。

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 ところが、今後受賞者が減るのではないかというよくない予測が出ている。その原因の一つに実用主義に偏向した補助金支給の在り方にあるのではないかという批判がある。何らかの利益に結び付きそうなものには金を出すが、基礎研究は序列を下げるというものである。話を大きくしてしまうが、これは理系分野のみならず、学問、教育の分野全般に言えることではないだろうか。役に立ちそうなことはやるが、どうなるか分からない知的活動は軽視する。

 いわゆる知識人と呼ばれる人の中に、日本の教育の中にはやっても意味がないものが多すぎる、それらを止めて、もっと実用的なことをする時間を増やすべきだという人がいる。一理あるような気もするが、それでやめるべき対象として文学や古典、歴史、理科の一部分野、さらには体育や美術などの実技科目などがあげられる。その根拠は将来役には立たないからというものだが、そう言っている論者の多くは中等教育においてそれらの科目からいろいろな知識を得ているように思えてならない。

 役に立つ立たないという区分けをしてしまうこと自体が知的活動の芽を摘んでしまう。何が役に立つのかは一人の人生の範囲の中では分からない。後になって発見があるかもしれないし、極端なことを言えば人生が終了した後で、後生によって価値が発見されることもある。思うに教養にも短期的なものと中長期的なものがある。昨今の人々は教養というものをどこか古臭いものと考え、非実用とする。少々心得のあるものでも数年から十数年くらいの人生で役に立ちそうな短期的教養は尊重するが、それ以上のものはなくてもいいのではと考えているように思える。

 ノーベル賞のようなブレークスルーにつながる業績を残す人は、短期的実用主義とは縁遠い人が多い。ただ、自分の知的好奇心に沿って思考を進め、そのためには一見無駄と思われることもし続けている。また、最近注目されているのはアート分野への関心がある人が多いということだ。想像力と芸術は類似する点が多く、大変親和性が高いという。文学や歴史もそうだろう。そういったものが背景となって知的活動が成立する。だから、そういう背景となるものを取り去って、新しい何かを考えろというもは実に本末転倒なのだということになる。考える行為にまで利益を考えなくてはならないほど、精神的貧困が進んでいるということなのだろうか。