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制約の中で

 日本文化を語る際に制約を前提とするという思考の枠組みがあることを思いだす。自由に表現するというより、型に当てはめてその中で創作するということが伝統になっている。

 文学で言えば短歌や俳句のような定型詩、絵画で言えば構図や配色などの型がそれに当たる。無形のものにもそれはある。芸事や武道などにも型があり、まずそこから教えられる。

 こうした制約下の創作という方法は昨今の生活体系にも活用されるのかもしれない。できることを組み合わせて何とかしてしまう。そこに価値観を見い出し、新たな価値を創出するのである。私たちはこの国の伝統に学ぶべきではないか。 

初詣

 日本には1月のはじめに神社や寺院に行き参拝する習慣がある。これを初詣というが、この習慣は宗教に関して独特の考え方をもつ日本人の思考様式を考える上で重要だ。

 初詣は神社でも寺でも良い。参拝の仕方は一応違って神社では柏手という拍手をしてから拝むが、寺院では手を合わせるだけだ。神社は神道という宗教で、寺は仏教の宗教施設だ。そういうことは日本人の大半は了解しているが、中には混同している人もいる。実はこの区分は明治維新後に区別されるようになったもので、それ以前は寺と神社はさほど峻別されてはいなかった。その証に境内に神社と寺が同居しているところは多い。また今は神社と称しているが歴史を遡ると寺であったという箇所も少なからずある。仏性が日本の神の姿を借りて化身しているという本地垂迹説のようなものもある。日本人にとって人智を超えるものは神であり、その神は様々な姿である。多神教の思想ではそれらは矛盾しない。

 今年はコロナウイルスの第3波の影響などで初詣を控える家庭も増えているという。また賽銭から感染することを避けるため、電子マネーで賽銭をするというシステムまで用意している。形はどうであれ、日本人の神頼みの思いは強い。その意味で宗教的な民族である我々にとって初詣も満足に行けない現状はなんとも苦しい。それを超えるための何かが求められている。

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翻訳の営み

 日本近代文学館で開催中の翻訳に関する展示を観てきた。翻訳は文学のみならず異文化摂取の具体的な営為として大変興味深い。

 古代以来、日本は海外の文献を翻訳してきた。漢文の訓読はその中で培われた手法であり、結果的に日本語自体を変える大きな影響をもたらした。ただ私たちが翻訳というときに想起するのは、近代以降の特に欧米から伝わった書籍の日本語訳のことだ。漢字を介さないこと、基礎となる文化の差が大きいことなど、漢文とは遥かに異なる障碍を乗り越える必要があった。

 例えばベルヌの「八十日間世界一周」は漢文訓読のような訳文がつけられていた。係結びもある古文体だ。まずまだ日本語が発展途上で翻訳の方法も決まりがない中で訳をつけるのはまさに冒険のようなものであったろう。

 様々な先駆者が海外の文書を和訳し、その精神性までも伝えられるようになって、海外文化を取り入れられるようになっていく。そんな過程を伺うことができた。

文化の日

 日本では今日は祝日だ。文化の日という。この祝日は1948年に制定されているが、それ以前にも明治天皇の誕生日として祝日だったことがある。それが文化の日となったのは1946年11月3日が日本国憲法公布の日であったことと関係している。

 文化とは何かについては様々な定義がある。芸術のような高度に洗練されたものももちろん文化的なものであるが、本来人が集まって何かをするとき、そのやり方に一定の方向性があればそれが文化ということになるのだろう。何気ない行動や、日々のルーティンも文化の一つだ。

 文化とはその意味でいえば無自覚で繰り返されているものと言えるのかもしれない。だからその価値も気づかれにくい。気がつくのは自分たちとは異なる文化に出会ったときの違和感がきっかけだ。こんなやり方もあったのかという発見が文化を知るきっかけになる。

 日本人には周囲と同調しようとする心性があるとはよく言われる。周りに合わせることを幼いころから叩き込まれている。だから大きな変動は好まない。これが日本の現状打破を阻む大きな阻害要因だとい指摘も繰り返されている。特に産業界の人はそう言いたがる。ただ、その多くは印象批評的な言い方で本来のあり方を見ているのか分からない。日本の文化が必ずしも同調圧力の中だけでできているとはみなしがたいのだ。

 自国文化を考えるのは自分を見つめなおすいいきっかけになる。

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ハロウィン

 日本でハロウィンが大々的に行われるようになったのはそれほど遡らない。もともと幼い子供の行事として海外の事情に詳しい人たちによって幼稚園などで行われていた。その世代が大人になり、クリスマスまでの空白期を埋める商機として利用されるようになった。

 近年は大人の変身願望、もしくは憂さ晴らしの機会として、この行事が使われるようになった。本来の意味や目的はすでにどうでもよくなっている。こうしたことはこの国の得意な文化摂取であり、それ自体は特に問題はない。

 ただ、変身してもそれが仮装であるということを忘れては困る。化け物のメイクをしても本体は依然人間なのだから、その掟に従わなくてはならない。仮面のもとに免罪符を渡されたように感じていたら、それこそ本当の化け物なのかもしれない。

日本型メロディ

 筒美京平さんが亡くなったことを記念していわゆる昭和歌謡がラジオに流れる機会が増えている。懐かしさとともにそこには厳然とした日本型メロディがあると実感した。これを世界にアピールすべきではないか。

 戦後の日本文化はアメリカを中心とした海外要素の模倣と和風化の流れがある。単なるコピーにならないのは、伝統的な日本型旋律の影響や、日本語の歌詞を乗せるという制約のもとに発展してきたからだろう。だから例えば西洋の楽曲をそのままカバーしたような曲でも日本でヒットするのはかなりの和風化が施されたものだ。

 それをまがいもの扱いする時代もあったが、いまとなってはその独自性こそが貴重なもののように感じる。こだわりなくいいとこ取りをしたようなメロディラインや、エモーショナルな響きを重視する曲作りなどは日本楽曲の特徴であり、海外にもっとアピールしてよいのかもしれない。

 評価されるべきものがされていないことが問題かもしれない。これは楽曲の話だけではない。

英雄中毒

 トランプアメリカ大統領のパフォーマンスを英雄信奉精神の表れと評す人がいる。コロナウイルス罹患を敵に見立てそれを克服したかのように見せかけるスタンドプレーに辟易した人も多いだろう。ただこれはアメリカ人の基本的な思考の一つであり、個人の問題ではなさそうだ。

 英雄は危機的状況においてもっとも目立った仕事を行う。逆境に負けることなく、力技で形勢を逆転する。弱みは見せず立ち向かう姿勢こそが英雄の資質なのだ。その結果、多くの人が救われることになる。

 ただ、英雄は正義の名のもとに破壊行為も行う。正義の行動に巻き込まれて死傷した人は尊い犠牲なのだ。場合によっては彼らも英雄チームに加入させられ、不合理な結末が隠蔽される。そして多くの人がそれに見事に騙されてしまうのだ。

 アメリカは英雄信仰が強い国民性を持っているのかもしれない。少なくともそういう思考経路をとる人が一定数存在する。ただこれはアメリカだけのことではない。呼び方は様々であっても、英雄信奉の考え方はどこでもあり、多少の濃淡はあるが、共通するのは自己目的達成のための犠牲を無化しようとする発想だ。

 かくいう私もヒーロー好きな子ども時代を過ごした。今でも心躍るものがある。ただ、最近はウルトラマンが怪獣退治のためにどれほどの建物をなぎ倒し、何人を踏みつけて圧死させたのかが気になるようになっている。

ハンコ

 行政のデジタル化のシンボルとして、ハンコ文化の廃止とデジタル署名促進とがある。稟議書に並ぶ肩書ごとの押印の列は日本経済界の悪癖として捉えられることが多い。

 もっとも押印の文化は古代から継続するものであり、近代社会にのみ責任があるわけではない。印鑑の持つ権威を共有する人々にとっては便利なアイテムであることは確かだ。また、複数の関係者に文書を共有し、納得させるという工夫として機能してきた。言質をとるよりずっと強制力のある同意確認として。

 デジタル化することは私も基本的に賛成だ。文書を回す時間のロスは蓄積すれば相当な長さになる。ただこれは効率だけの話で終わらない。LINEが普及した一因としてスタンプ機能があった。自らの感情を既定の型で表現することが習い性となっている日本人の根元にふれる意識改革が必要なのかもしれない。

選べる楽しみ

 私たちが思う贅沢の一つに選択の喜びがある。総体として高級感が今ひとつでもたくさんの選択肢が容易されているとそれだけで満足感が高まる。これは幸福感を考える上で大切なのではないだろうか。

 寿司は生魚を乗せた酢飯であり、料理としてはシンプルである。もちろんそれゆえに個々の作業が洗練され、店によって大きな違いが生まれている。ただし無粋な言い方を敢えてするなら、料理のやるべきことは限られている。

 それなのに寿司屋に行くと得られる豪華な感覚は自分で多くの食材の中からほしいものをその都度選べることにあるのだと考える。これは顧客満足度を上げる有効な手段なのではないか。

 このような選択度の提供は我が国のサービス業の随所に見られる。実はほとんど既成品でも最後の選択に自分が絡んだということが、魅力を倍増させるのであろう。

融合する力

 新しいものを作り出すことは容易ではありません。無から有を生み出すことを目指すよりは今あるものを組み合わせたり、取り合わせたりすることの方が結果的に新境地に達する可能性を高めます。

 もともと日本という国は地勢上、新発見や発明をするには不利なので、外来のものを自分流に組み直すことをしてきました。物資が限られている中で最大限の効果を発揮できるアレンジをして凌いできたのです。

 私たちはそのことを思い出す必要があります。外来のものをそのまま受け入れるだけではなく和風化するたくましさを取り戻すべきです。現在、世界的評価を受けているものの大半はこの日本アレンジの産物です。文化を融合させる能力を再評価すべきだと考えるのです。