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夏越の祓え

 日本の古い習慣に「夏越の祓え」があります。これで、なごしのはらえ、と読みます。19世紀以前の日本では月の満ち欠けを基準とした太陰暦が使われていたため現在とは実際に指す日時が大きく異なるのですが、6月末日は意味のある一日でした。

 夏越の祓えは旧暦では夏の最後の日とされていました。またそれまでに犯してしまった罪や穢れを消し去る儀礼が行われたといいます。それは身体についたほこりでも落とすかのような気楽な罪悪感です。もちろん、どれほど真実として受け入れていたのかはわかりません。呪いの一つのようなものだったのでしょう。

 一年の折り返しに身を清めてリセットをしようという考え方の方に注目します。半年という意識がどれほどあったのかも興味深い。また、清めた身体が様々な能力なり活力なりを復活できると考えていたのかも知りたいことろです。

 旧暦の6月末日は今年の場合は新暦8月中旬であり、古人の祝った日とはほど遠いのですが、半期に一度の心の大掃除の日ということにして今日を送りたいと考えています。

蒸し暑い日

 日本の夏は湿度が高く、気温以上の圧倒感があります。いわゆる不快指数の高い日が多いのです。これは宿命ですが試練でもあります。

 梅雨前線が列島にかかると、それをめがけて吹き込んでくる太平洋の湿気を含んだ温風が気温と湿度を一気に押し上げます。今日は昨日より最高気温が10℃以上上がるとのことです。マスクのそうでなくても違和感が強い状況を助長する環境になりました。

 気持ちの上で涼をとる方法を文化的に育んできたのが我が国の伝統です。色使いやデザイン、質感、配置など実際の温度を下げる効果がなくても少しでも涼感を覚える方法を育ててきたのです。何でも物理的に冷やせばいいという昨今の方法は、結果的に放射熱を生み出し、気温上昇の原因となる悪循環を招いています。

 先人の知恵に学ぶべきは学び、この国の夏に立ち向かい、共存していこうと思いを新たにしています。

色のイメージ

 国旗に使われる色にはそれぞれ込められた意味があるといいます。フランスやイタリアなどのように色彩に託されている意味が深いものはそれを知ると強い説得力を示します。

 ただ色彩が惹起する印象が民族によって異なるのも確かです。欧米の一部の民族では緑に嫉妬心を読み取るのだそうです。この感覚は私にはありません。見ているものが同じでも感じることは異なるという事実はいつも意識していなくてはなりません。

 色の分節についても共通していると思いこんではいけないようです。日本の古代では青の指す範囲はいまより広いようですし、虹が何色かという国際比較にも興味深い結果が出ています。通時的にも共時的にも色彩の区分は様々です。細かいことを言えば色覚の個人差も考える必要があります。同じ世界を見ているというのは幻想なのかもしれません。

 色分けは日本語では分類そのものを表す言葉でもあります。その色分けが極めて個人的な判断によるものである事を再認識しておきたいのです。

共生と独自性

 今年行われたラグビーワールドカップが残したものは大きいと感じています。日本チームの健闘はもちろんですが、そのチームが多国籍の選手で作られ、しかもその戦略は日本語で行われていたことが非常に示唆を与えてくれました。スポーツのあり方を越えた今後の社会の方向を予感させてくれるものでした。

 イングランド大会で日本代表チームが南アフリカに勝利したときには、日本代表選手にカタカナ名の人物が多数いたことに対して一種の拒否感があったことは否めません。それがラグビーという競技の特殊性という枠の中で納得されようとしていたことも事実です。今回の日本大会でラグビー流の考え方は一気に広まりました。そしてこの競技はいわゆるにわかファンを受け入れる懐の深さがありました。

 この大会でかなり多数の日本人は各国の国歌を覚え、試合前の国歌斉唱で歌いました。地域の取り組みとして国歌を披露したこともあったようです。国別対抗という形をとる試合ではどうしてもホームアンドアウエー的な殺伐した感がでてしまうのですが、日本の取り組みはそれを緩和するものでした。日本流のおもてなしだと考えられた行いですが、実はこれは日本人にとって国のあり方を考えさせるきっかけにもなっていたと考えます。

 チームに外国人がいることに対しての寛容性も一気に進みました。外国籍の選手が多数いても日本代表として疑われなくなりました。当時は韓国籍だった選手がもっとも負担の重い最前線でチームを支えてくれていたことに対して大きな賛辞が送られていました。日本国籍を取得した人、国籍上は日本人でも他国の文化を持っている人などさまざまな背景の人たちがチームを組んでいるのを知り、それを素直に応援することができました。いわゆる純血に拘っている限り決して見ることができなかった風景を見ることができたのです。のちに生まれたOne Teamという言葉は非常に象徴的なものでした。

 スクラムを組む時の日本独自の作戦は日本語を通して練られたといいます。「間合い」といった伝統的な日本語をチームで共有し微妙な力のベクトルを修得していったそうです。日本語でビクトリーロードという替え歌をみんなで歌うことでチームの士気を高めたとも言います。ということは多文化共生は単なる雑居ではなく、揺るがない独自性というものがあって力を発揮するということになります。日本文化が移民によって汚され薄められてしまうという危惧は確かにありますが、それよりもこの国の文化のよさをはっきりと認識し、新入りに伝えていくことの方が現実的なことなのです。

 スポーツを離れた社会全般にもこのことは言えます。これからの日本はいろいろなことを受け入れていかなくてはならない。そうしないと国としての形を保てなくなります。ただ、どのようになっても今まで築き上げてきた伝統を強みとして磨き上げ、新しい時代に適した形で伝えていく必要があるのです。そのためにはもっと自分たちについて知らなくてはならないし、理解したことを言葉にしていかなくてはならない。グローバル化と言いつつ、自国文化を顧みなかったこれまでのあり方を反省し、日本文化を武器にすることを考えていくべきであると改めて考えています。

差異を越える何か

 細かな差異が気になる状況においては様々な先天的要因が顕在化します。

 いわゆる差別というものを忌避するように私たちは教育されています。これは社会生活を営む人間の叡智であり、大変尊いふるまいです。ただ、非常に細かいことが気になる状況においては、わずかな相違が気になることがあります。

 差別が発生しないための条件として、先に述べた社会的教育の成果は大きい。さらには、細かな差異が問題にならないような環境づくりも必要になります。色々な局面において余裕を作ることが重要なのです。

 これからの多様性の溢れる社会の在り方が、差異を越える何かを見つけ出していくのでしょう。

文化

 文化の日が単なる祝日になってしまっているのは文化が何であるのかが分からなくっているのに原因があります。文化という言葉自体に多義性があり、懐の深い概念であるからかもしれません。

 昨日終わったラグビーワールドカップ日本大会ではラグビーというスポーツ種目を通して文化を考えることができました。スポーツとして勝敗を決するためのテクニックやスキル、さらには戦術にもチームごとの文化のようなものがあるようです。そのチームごとに培われてきた伝統のようなものが動きのなかに反映されています。

 国別の対抗と言いながら選手は多国籍であり、同じチームの中でさまざまな背景をもった選手がいます。今年の日本代表にもニュージーランドや南アフリカ、サモア、韓国などに国籍があったり、ルーツをもっている選手がいました。文化は国境を越えて形成されることがある。グローバル文化のようなものの可能性を見ることができました。

 伝統的な地縁による文化と、現在進行中の同じ目的をもつ者が形成する新しい文化のありかたとをどのように扱っていくのかは今後の大きな問題になります。理想的には両者のいいところを取るべきだと思うのですが、そう簡単にはいかない。昨今の政治的な自国自民族優先主義の流れの中で、文化の扱いはますます深刻な問題になると感じるのです。

カボチャたちの素顔

 ハロウィーンは日本ではその意味も理解されることなく、商業利用や個人的な遊興として受容されています。ただその奥には切なる願いがあるのかもしれません。

 仮装を行う年中行事は京都の節分お化けが知られています。地域では悪鬼の厄を逃れるために敢えて普段とは異なる姿になると伝えているようです。祭の時に晴れの衣装を着用し日常とは異なる振る舞いをするのも広く考えれば一種の仮装行事といえます。異装には厄除けの意味があるといえます。

 現代人にとってはさらに意味があるように感じます。いわゆる変身願望の代償行為です。自由平等の建前の現代社会の内実には格差と分断が進行しています。越えられない何かが巧妙に姿を隠しながら確かに私たちに影響を与えている。それに抵抗するのが外見上の意図的変更なのではないでしょうか。

 もちろんハレの日は常に祭とともに去ってしまう。翌日には厳然たるケの日の秩序が現れます。その中を生きぬくためのささやかな抵抗が仮装という形で表現されるのです。この仮説が正しいならばおどけたカボチャたちの内側には切実な思いがあることになります。

伝統文化

 昨日の即位の礼は日本の伝統文化を世界に示すものでした。政治的な意味はもちろんありますが、それ以上に文化の持つ意味を世界に発信する機会になったことに注目すべきです。

 文化は長い時間をかけて育まれ、少しずつ形を変えながらその本質に当たる部分を伝えていくものです。その意味を考えることは自分自身とは何かを考えることになり、他者を理解する礎になるものです。国の伝統文化だけではありません。私達が社会的生活をする生き物である以上、そして知的な生活を営む以上、様々な局面でそれぞれの水準の文化があり、それが人間らしさの保障となっているのです。

 新しいものを生み出すときにも文化は役に立ちます。新しいものと考えるものもその基準となるものを常に求めているのです。伝統文化はその柱であり、それがあるからこそイノベーションも可能なのです。

懐古にとどまらないで

 私にとっては懐かしく感じるものが最近いろいろな場面で現れています。例えば過去に流行した歌や、品物などが今風に形を変えて世の中に出回っているのです。

 この原因を日本の高齢化に求める見方は説得力があります。少子化で低年齢層が減少し、購買者が多いのは中高年という現実を踏まえると、新しいものを作り出すよりは懐古趣味に訴えた方が効果的だというのです。過去に成功したものを利用した方が成功率は高く、しかもボリュームゾーンに訴求するとなればいわゆるリバイバル路線は必然の道筋といえるでしょう。懐かしいものには愛着がわくし、新機軸に振り回されている現実からの逃避にもなります。

 ただ、単なる懐古趣味は何も生み出しません。生活の活力を生み出すのは温故知新的な発想です。過去の歴史なり伝統なり風習なりを尊重しながらも、新しく今の生活にあったものを常に探していくことが必要だと感じます。昔懐かしい何かを感じさせながら、実は最新の発想なり、技術が裏にある。底流にあるものは変わらないけれども実は常に新しいものに置き換えられている。これが日本の文化のありかたであり、忘れてはならない先人の知恵です。

 過去のもの見えながら実は全く新しいもの(こと)を作っていくことが私たちの今やるべきことと確信しています。