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スポーツの境界線

主に女子のユニホームを巡って論争が起きている。露出度の高いユニホームをなぜ着なくてはならないのかということで、差別問題にも発展しそうな勢いもある。

ビーチバレーのユニホームがビキニスタイルなのはその方が競技にとって好都合だからかと思っていたが、どうもそうではないらしい。規定がありそれ以外の選択はできないと聞いた。体操ではドイツチームが長袖タイプのユニホームで登場した。これには規定はなく、奇抜でなければ長さは無関係とのこと。身体の美しさを競う芸術性競技においては見せ方はかなり大きな問題になる。今回の選択はチームとして大きな決断だろう。

 陸上競技とりわけ短距離や跳躍系のスポーツではかなり露出度が高いユニホームが使われている。空気抵抗の低減のためという。おそらく何も着用しないのが記録上は良いのかもしれない。

 スポーツが純粋に競技性を追求すると、ユニホームのあり方は無関係となる。それをある方面に固定するのは文化的な問題だろう。日本の国技の中には文化的な要素を強く持っているのものが多い。だから、柔道では礼儀や整容が重んじられ、青い道着には抵抗感を持つ人が多い。大相撲では女性は土俵に触れることすら許されない。

 国技がスポーツ化してさらに国際化したとき、文化的拘束は少しずつ解放される必要がある。何を着るかと言うことに関しても変わらねばならない段階があるのかもしれない。

非国別対抗

 オリンピックで選手の活躍が報じられるとさすがに心躍るものがある。劣悪な環境の中、努力を重ねた成果を出せた選手は素晴らしい。また、たとえ勝負では負けても大きな試合に出られる事自体が称賛すべきだと考える。

 その上で、最近しばしば考えるのはオリンピックはもはや国別対抗にする必要はないのではないかということだ。メダルをいくつ獲ったかということに国力を重ね合わせる時代は終わっている。そうでなくても一部の恵まれた環境の国や地域の選手が勝利しても感動は半減する。

 ならば、もう国対抗はやめて別の枠組みを考えるべきではないか。クラブチームのような形態も考えるが、これも商業的な力関係に左右される。多くのプロスポーツで力の不均衡が起きてしまっているのはそのためだ。ならば、何がいいだろう。原則として個人の自由でチームを組めるといい。もしくは皆で金を出し合い、ほぼ同じ条件でチームを作って公平性を担保するのもいい。

 実際はそうかんたんには行かないだろう。それでは誰がスポンサーになるのだ。選手やチームにどのように思い入れを持つのか。帰属意識のないスポーツなどそもそも存在するのか。難問は色々あるが、非国別対抗の枠組みを考えてもいいのではないか。例えば7月生まれチームのようなものを考えている。笑うことなかれ。

親切と不寛容と

 日本人は親切だという意見と不寛容だという意見がある。これはどちらも正しく、また間違っている。人には他人に優しくなれるときとそうでないときがある。まして日本人などという人はいないのであり、人それぞれ考え方や行動様式が異なる。

 日本の文化に他人との寛容と不寛容を際立たせる要素があるとは言えるかもしれない。思いやりやおもてなしを美徳として繰り返し教えられるからそういうこともあるかもしれない。また、自分とは直接関係しない集団に対する不寛容さは黙認される。

 だから、親切かそうでないかの線引きは容易ではない、隣人愛のような風土はないが、仲間とみなせば助け合える気質が備わっているようだから、仲間意識を膨らましていくのが幸せへの近道だろう。

短冊

 スマートフォンを使うようになって、フリック入力にもすっかり慣れた。このスタイルは昔の人がみたら短冊を持っているかのように見えるのかも知れない。

 昔から短歌や俳句を作ってきた。いまでも思い出しては作り続けている。スマホに横書きのデジタル文字で歌や句を書くことは抵抗感が消えないが、いつでも書いてなくさずにいられることは便利だ。

 俳句のブログは実はそこそこアクセス数がある。きっと時代が変わっても、共通する情緒があるのだろう。

分かれ目

 卒業式の定番曲「仰げば尊し」の歌詞を分かれ目と誤解していた時期は長い。係り結びの法則を学んだあともこの歌詞に思いを致すまでには暫くかかった。

 ただ分かれ目説にもそれなりの説得力がある。卒業を気に人生の分節点を意図的に作りだし、現状からの脱却をはかるというのはむしろ卒業の意志にふさわしい。そう思って歌唱している人は多いのではないだろうか。

 慣れ親しんだ学舎と同窓の仲間との訣別を覚悟する点においては当たらずといえども遠からず。それぞれの思いで歌えばいいのかもしれない。

書店の意味

 近隣の書店が閉店してしまった。駅ビルの中にあって便利であったのに残念でならない。電子書籍を利用することも多いが、大切な本はやはり冊子で購入したい。それがどんどん難しくなるようである。

 小規模の書店は近隣からほぼ消滅してしまった。いくつも支店をもつ中規模以上の本屋が残り、それも次第に数を減らしつつある。読書をする人が減ったのに加えて、ネット注文ができたり、電子書籍が普及したりで、この業界には逆風が吹き荒れている。

 自分の本を所有することの意味はデジタル化社会でも変わらないといわれる。知識の吸収という面において紙面メディアは優位にあると言うことはデジタル教科書問題でしばしば議論されている。

 その意味で書店が消えていくことは残念だ。損失というしかない。

節日

 3月3日はひな祭りとして日本では女子の成長を祝う日となっている。本来は古代中国の陰陽思想に基づくもので、奇数のぞろ目の日が節日として特別扱いされていたのに基づく。

 古代の宮廷では上巳の節句とも言われたようだ。曲水の宴なども行われ、風流な一面もある。旧暦のこの日は今より暖かく、様々な花が開く春の一日だったはずだ。その根源は禊や祓いをすることであったという。日本の宮廷には定期的にこうした行事がある。

 科学の進歩により簡単には穢れは消えないことがわかってきた。しかし、古人が年に何度も禊を繰り返したように、何かにすがって生きるのも一つの知恵なのかも知れない。

梅園

 近隣の公園にでかけてみた。梅園はまだ五分咲きくらいだった。品種によってかなり差がある。

 梅はもともと外国から植樹された樹木らしく、万葉集の時代にはかなり大陸が意識されていたようだ。令和の元号の由来ともいわれる大宰府の梅花の宴も、舶来の花を囲むところに意味があったのだろう。平安時代には庭木として定着し、時代が下るごとに梅にエキゾチズムを感じることはなくなった。むしろ和の象徴に感じる。

 梅の木を人々がどのように考えて来たのかをさぐることはこの国の歴史を知る一端だ。

挿し木

 生徒諸君が受ける模擬試験の古文に柳の挿し木の話があった。難しさを売りにしている試験なので恐らく出来はそれほどよくないだろう。ただ、思うに文法や単語の知識以前に、柳が挿し木で増えることをどれだけ知っているのだろうかということが気になった。

 古典文学に限らないが、過去の文章を理解する上で必要なのは文化的な背景の理解であろう。植物を育てる経験をほとんど持っていない若者たちに挿し木の話は理解しにくい。価値観の違う時代のことが分かるためには手続きがいる。

 挿し木にまつわる問題を見て感じたのは文化の伝達は記号だけでは完成しないということだ。それにまつわる経験や価値観の伝承があって初めて達成されるのかもしれない。

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楽しみ不足

 いまの時勢では仕方がないのかもしれない。ただ、心の潤いという面において著しく低下しているのは紛れもない事実だ。

 文化的な催しが制限され、中止されるものも多数ある現状では、精神的な充実感を得る機会が少ない。もちろん、自ら創作し活動することはできる。しかし、そこにはおのずと限界がある。他者から受ける感動がこの方面ではもっとも大切な要素だと考える。しかし、それができない。

 非接触、遠距離の文化交流の試みはいくつもある。ただ、そこから得られるものは限定的だ。その枠で何ができるのかをいま一度考え直すべきだ。