タグ: 文化

万葉集の歌

私にとっては万葉集の歌は何かを考えるときの原点になっている。日本以外の国からこのブログを読んでいらっしゃる方のために申し上げると、「万葉集」は日本のかなり古い古典である。8世紀くらいまでの日本の歌、短詩を集めたものである。

私は学生時代この歌集を研究していたのだが、今でも実に魅力的な古典だ。最近は文庫本で読み返すことが多いが、開くページごとにさまざまな発見がある。わたしたちの考える和風というのはだいたい室町時代以降、もっと言えば江戸時代のそれを指すことが多い。それ以前の鎌倉時代、平安時代は陸続きではあるものの今とはかなり違う。それ以前の奈良時代になると日本文化の常識が通用しない。畳、茶、日本酒そのいずれもないのが奈良時代なのだから。

それでも万葉集の作品は胸に響く。特に何かに行き詰まったときにこの作品を開くと良いヒントがあるような気がする。大昔の人が考えていたことが今の時代を動かすこともあるのだ。

「空気」問題

 日本人の国民性として取り上げられるのが「空気」の察知能力だ。個人よりも集団を重視する日本人はいまいる環境の中での適合を好む性質がある。秩序を重んじるのはそのせいだといわれる。これは長年言われ続けていることだから、ある程度は正しいのだろう。

 「空気を読む」はしばしば命令形で用いられ、集団の輪を乱さないことが美徳とされている。これはこれで素晴らしいことだと感じる。ただし変化には弱い。国際社会の中で日本が衰退の方向に向かっているといわれているのは、このことと関係があるのかもしれない。過去に日本が苦難の歴史を乗り越えてきたのは、時代の変節点においてこの国民性を一時的に変更し、極端から極端に走ることで対応してきたからではないだろうか。

 極端に性格を変えることには相当の痛みを伴う。多くの犠牲者が出る。それを避けたいと思いながらも、どうしても極端に走ってしまう。過去の秩序を旧弊として非難する風潮が社会に満ち始めている。やがてこれが日本社会を大きく変えてしまうかもしれない。だが、事態が落ち着くとまた同調モードに逆戻りして平和主義になる。そういう歴史を繰り返しているのではないだろうか。

 もしそうならば、いまは同調モードが破綻しかけている時期と察する。このあとに大きな変革があるかもしれない。いやすでに始まっているのかもしれない。同調しきれない要素が世界を満たしたとき、一気に変化していく可能性がある。そこでの痛みをなるべく減らすために、私たちは過去の歴史に学ばなくてはならないかもしれない。

近隣の見直し

 コロナ禍で遠出ができなくなった副作用もある。近隣の歴史や文化について考えるきつかけを与えられたことだ。

 身近な事柄について私たちは価値を見いだすことが難しい。日常に隣接することには特別な意味を感じにくいのだ。当たり前というバリアがすべてを見えなくしてしまう。

 どんな地域にもそれまでの歴史の積み重ねがあり、そこにはさまざまなドラマがある。そのことを思い出させるのは、今回の異常事態の僅かな功績の一つなのだろう。

変わり続ける性質

 日本の文化は閉鎖的だと表現する人がいる。恐らく正解であり、間違いだ。結果的には大きな間違いだ。

 日本にはユニークな文化現象が数多く見られるという。独自、唯一無二というのは言いすぎかもしれない。どの地域にもそういった特徴がある。ただ、かなりユニークであるのは確かだ。その意味では閉鎖的な一面があるかのように思える。

 気をつけなくてはならないのは日本文化の特徴としてあらゆる局面で融合という過程に持ち込んでしまうことがある。有形の文物もそうだか、思想や制度にもそういう面がある。敵対的排除というのが少なく、取り込んでしまうのだ。

 変わっていくことがこの国の特徴だと評する人は多い。不易流行などという人もいるが、流行の占める範囲がかなり多いといえる。変わらない何かがあるという幻想がようやく国民性を支えている。

 だから、決して保守的ではない。また、意図的に革新を求めているのとも違う。百年後の「日本人」はいまとは姿かたちも考え方もまったく違うかもしれない。でも、相変わらず日本人論を展開しているだろう。百年前の先輩がいまの我々に対して考えたかもしれない予想と同じように。

戦争は終わっていない

 終戦記念日の今日、日本各地は大雨で非常に不安な状態にある。すでにかなりの犠牲者が出ており、これ以上の被害が出ないことを祈るばかりだ。朝から携帯電話に避難指示のエリアメールが警報音とともに届いている。

 その中でも私の住む街でも正午に太平洋戦争の犠牲者に黙祷をささげることを勧める街頭放送が流れてきた。2021年は終戦から76回目の記念日にあたる。先ほどの放送にもあったが、二度と戦争が起こらない平和を願うという文言に反して世界ではいまも戦争が続いている。日本では戦争は起きていないが、平和の価値を観念的にしか理解できない世代、ー私もその一人だー が増えている。

 ある番組で沖縄戦に向かった戦艦大和の駆逐艦雪風の元乗組員だった方の経験を知った。敵戦闘機に襲われた時の恐怖や、反撃の機銃を撃ち続けているうちに人間的な感情が消えていく経験の恐ろしさ、大和沈没後の人命救助の際の悲惨な状況など、90代のその方にはいまだ鮮明にその状況が思い浮かぶというのだ。

 終戦記念日という言葉に安心してはいけない。戦争は終わっていない。終わったと思ったときにまた始まってしまうのが戦争なのだろう。この連鎖を乗り越える叡智を身につけなくてはならない。

善意

 東京オリンピックをめぐって様々な善意の報道がある。選手同士あるいは選手とスタッフ、周辺の人との交流など様々だ。

 オリンピックは日本のおもてなしの方法を体験していただき、世界に拡散する機会だった。それがきわめて限定的なものになってしまったのは残念としか言いようがない。

 私は日本人が道徳的に優れているなどとは思っていない。ただ、原理原則よりもその場にある人を大切にしようとする心の傾きがあることは事実であり、それこそが現代社会に求められている何かの一つではあると確信する。

 国単位に考えることは間違いかもしれないが日本の文化が培ってきたことを世界に説明する意義は大きいと考えている。

オリンピックの意味

 東京オリンピックが終わった。無観客という極めて異例の大会運営はこれからのスポーツイベントに様々な影響を残すことだろう。観客がいなくてもスポーツが成立するのかという根本的な問題を考えるきっかけになる。

 オリンピックが商業主義に取り込まれている以上、無観客はあり得ない。今回はスタジアムに入る人が制限されていたのではあるが、メディアを通して観客となった人は世界中にたくさんいる。その存在があるからこそ、メディアが商業的に成立し、そこで生まれる利益がスポーツイベントの運営には欠かせない。

 もし本当の無観客、もしくは無料試合を実施したらどうなるだろう。世界的なスポーツイベントはおそらく成立しない。そこにドラマは生まれないし、感動を物語ることもできない。オリンピックは残念ながら政治や商業に取り込まれることで成立しているといえる。

 スポーツが文化として成立するするためにはやはり何らかの共同性なり、共有性を維持しなくてならない。勝手にやってくれでは文化は育たない。しかし、何でもできるわけではない。国際競技として継続するためには割り切らなくてはならない様々なものがある。東京オリンピックはこの問題を再確認させてくれるものであった。

開催国の誇り

 東京オリンピックは無観客が前提となっているため、テレビやネットを通してしか見ることができない。これならば他所の都市、他の国の開催と変わることはない。海外の方々が東京オリンピックにどれくらい関心を持っているのか分からないが、東京にいても大会が見られないことの悔しさだけはお伝えしておきたいと思う。

 開催国として日本の選手が好成績を挙げていることは喜ばしいが、他の日の記事に書いたように私はこの大会にナショナリズムを持ち込みたくはないという立場である。同じ言葉を話す選手が活躍するのはうれしいが、あくまでそれは個人の努力によるものであることは忘れてはならない。

 開催国としての誇りを持てるとしたら、様々な記録を東京大会で更新することができるということにある。世界新記録が生まれると、選手の努力に報いることができたという事実に開催国の国民として誇りを感じる。また、東京で史上初のメダルを取った国があれば、それも誇りだ。できれば日本の選手に栄冠を取ってほしいが、そうでなくてもいい。競技するための最高の環境を提供できたことを誇りとしたい。

芸術の目

 情報技術の発展により、知識やスキルはあっという間に共有され、結果として便利だがつまらない世の中を作っている。こういう状況に今の日本は対応できておらず、イノベーションも起こせない。だから、敗北感と閉塞感が募りる。考えてみよう。日本文化で世界的な評価を得ているものは独創性に富んだものであり、多くはそれ以前の伝統に根ざしていえる。アニメが江戸時代以前の日本の絵画と地続きなことは例えば浮世絵を見れば想像がつく。

 ゲームの世界の背景にある漫画やアニメの世界は、組織的なくびきから逃れてきたアウトロー的な存在であり、その中には反社会的なものやエログロ、ナンセンスも許容されてきた。その寛容性から新しいものが生まれたのだ。こういう風土は作ろうと思って作れるものではない。管理しようとすればますますつまらないものになる。多様性の中に可能性を見出すことをしていかなくてはならない。多くの駄作の中に光るものが出てくるのだ。駄作に分類したものも実はそうではない可能性もある。

 情報技術は芸術の世界にもさまざまな利益をもたらしているが、逆に大切な要素を削ぎ落としつつある。作品はこうあるべきだという価値観を共有することは、逆に言えばそれ以外の可能性を見えなくしてしまうのだ。そのためには芸術活動をしている皆さんには自分の創作を信じていただきたい。また多くの人が芸術家を、それができなくても創作活動を目指すべきだ。芸術の目をもつことが今後の世界を救う方法だと確信している。

スケボー

 オリンピックで日本人選手がメダルを取ったことでスケートボードが注目されている。以前から公園の階段を曲芸のように降りていく若者はいたが、それが国際競技になっていたとは知らなかった。子どもの遊びかと思っていた。

 バックトゥザフューチャーという映画に未来のスケートボードの様子が特撮で撮られていた。未来と言ったが映画の中では2015年の設定で、すでに過去のことになる。映画のスケートボードは空中を浮遊し、ホバーボードという名で登場する。路面はわずかな足の動きで前進するが、水面では推進力がなくなるという設定であった。もう6年も過ぎてしまったが、ホバーボートが水上で立ち往生したというニュースはまだ聞かない。

 オリンピックの競技を見ると階段の手すりにボードを当ててどのように降りるのかを競うものであった。さすがに重力に抗うことはできない。着地までにどのように振舞うのかで見せるスポーツになっている。もはやおもちゃではない。

 この先のオリンピックではホバーボードの競技が行われるのだろうか。それはそれで見てみたい気がする。私は間に合わないかもしれないが。

Photo by Karolina Grabowska on Pexels.com