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心に残るものとモノとして残るもの

 思い出を作りたいとき、それが最終的に物質的なモノとしてのこすか、無形のサービスなり出会いなり、いわゆるコトとして充実することを重視するか。そのあたりの価値観が変わってきているかもしれないという。どちらかを選べと言われたらあなたはどちらだろうか。

 もちろん両方とも充実していれば文句はない。ただ、どちらかといえば昭和世代の私にとってはモノ重視かもしれない。最初に土産を買うという発想は、モノとしての思い出を残したいということだし、やたらと写真を撮りまくるのは、デジタル化した今はいわゆるモノではないが、形を残そうという点において共通する発想である。

 もし、土産物はなく、写真撮影も禁止な場所があるとする。ただし、その場所に行くとサービスや雰囲気、接待などがすばらしく幸せになれるものとする。こういう場所はいかがだろう。最近の若い世代はモノにはこだわらない人も増えている。土産が大量生産されるものであり、限定品といっても似たようなものがたくさんある。それに実際の価値以上の金を払う必要はあるのかという発想があるらしい。もし、本当にものが欲しければネットで転売している。いつでも手に入る(かもしれない)という基本的な考えの構えができているからなのだ。

 彼らにとっては家に持って帰ればきっと色あせて見えるおみやげよりも、その場で味わえる体験の方に投資をしたいと思うのだろう。最近は私もその方に傾いてきている。土産物を分かち思い出を語る仲間が少なくなっているのも原因にあるかもしれない。同級生に先輩に後輩に上司になどと言い訳をいって買ってきた土産は受け取る人が少なくなっている可能性があるという仮説である。

 観光立国をめざすなら、この点を抑えておく必要があるだろう。そこにいなければできない体験を売りにすれば、安定的な集客が期待できるかもしれない。

VAR

 ワールドカップの日本・スペイン戦はまさかの逆転勝利だった。逆転弾は目視ではゴールラインを割っているように見えたが、VARによって有効性が認められた。

 VARとはVideo Assistant Refereeの略で、様々なスポーツで採用されつつある。野球のホームランの判定は昔から行われていたが、サッカーの場合は移動する審判が判定する性格上、判定不可能な状況が起きやすくVARがその補助をするのは合理的といえる。

 ただ、審判が判定するというスポーツの根本を脅かす存在ではないかと思うと不安なところがある。曖昧なところも含めて審判の判定はなされるものであったはずだ。人間のスポーツがますます人間以外のスポーツに代わっているような気がしてならない。

 今回は日本の勝利にVARが貢献した。逆の立場になることもあるだろう。その時は機械が判定したことだから従おうという精神になるのだろうか。

客席の距離

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 北海道日本ハムファイターズの新しい本拠地になるエスコンフィールド北海道のファールゾーンが規定違反であるということが分かった。今後是正するということだが、この問題は別の視点から考える必要がある。

 ホームベースからバックネットのある場所までの距離が3メートルほどたりないという。3メートルといえばかなりの距離だ。面積で考えると相当な広さになる。野球の試合のなかでこの空間で活躍するのは捕手であるが、彼らがファウルフライをとることでアウトにする確率を相当減らすことになる。一方、ワイルドピッチやパスボールの後の処理はこの部分の面積が小さいほうが有利だ。攻撃側にも守備側にも影響があることになる。

 捕手出身の解説者にはファウルゾーンが狭くなることに反対な人がいる。パスボールの時のリスクはあるが、それよりもファウルフライを捕ることで活躍できる機会の方が多い。ファウルを打たせることを配球の要素にしている捕手ほど、面積が狭いのは困るのだろう。投手にとっても同じだろうが、中にはあまりファウルゾーンが広いと距離感をつかみにくく投げにくくなるという意見もあるようだ。

 選手にとっても様々な意見があるが、プロ野球として考えなくてはならないのは観客の視野性と収益の問題だろう。客席とバッターボックスの距離が近いほうが、観客の満足度は上がるはずだ。コロナによる無観客試合で分かったが、打球音や選手の声などが聞こえてくるのは新鮮だった。近いほうがいいと言えそうだ。さらに、グラウンドを狭くした分だけ客席が確保できるのなら、高額な座席設定をして収入を上げることが可能だ。プロである以上、この点は見逃せない。

 アメリカの球場はこの規定は推奨扱いになっている。エスコンフィールドの失敗も球場設計をアメリカの会社に委託したことによるらしい。試合を見せて金を稼ぐプロ野球に特化するならば、日本の規定を変えるべきではないだろうか。そんな視点を与えてくれたのが今回の設計ミスの効用かもしれない。

見せ方

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 スタジオジブリの作品の世界観をテーマパークにしたジブリパークが開園したという。日本のディズニーランドとなるのか短命で終わるのかはこの後の見せ方によっている。

 愛知県長久手市の愛・地球博の会場跡地の公園に作られたジブリパークは一部の施設だけが開業した。ジブリ作品の世界を再現した施設が中心で、乗り物などの設備はないようだ。ジブリ作品を見たことがある人であれば、作品世界の中に入り込んだような錯覚を得られるならば、行く価値はある。ただ、それだけであると繰り返し訪れることはないかもしれない。

 この中にはオリジナル作品を見せるコーナーもあるという。ここだけでしか見られない短編作品だ。これが定期的に変更されるのならばリピーターを生み出す可能性はある。媒体販売やネット配信などもしない。行かなくては見られないものが必要だ。新作を作り続けることが無理ならば、過去の作品のメイキングや再編集でもいいだろう。いわゆるディレクターズカットならば意味がある。

 さらに単にかわいいキャラの並ぶ場所だけならば、やがて飽きられるかもしれない。ジブリ作品には隠されたメッセージがあるものが多い。それを分かりやすい形で示すものもいいだろう。ディズニーランドにあるスモールワールドの展示は世界平和の意味を分かりやすく示している。こうしたものはむしろジブリ作品の方が豊富だ。これをわざとらしくではなく作品世界を傷つけない範囲で示すことも忘れてはならないだろう。テーマパークは単なるモチーフ展示ではない。

 日本のテーマパークのほとんどがうまくいっていない。それにはいろいろな要因があるが、コンテンツ的には申し分ないジブリパークは成功する可能性は多分にある。世界から人を呼べる場所になる可能性もある。ただ、これまでのような単なるキャラを並べる展示とどこにでもある乗り物しかないのなら短命になるかもしれない。要は見せ方による。うまくいけばスポンサーもつく。私は一度見てみたい気がしている。

懐かしい曲

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 ネットラジオから昔聴いて感動し何度も聞いた曲が流れてきた。久しぶりに聞くと確かにいい曲だと思うが新しい発見もある。

 流行歌ということばがあるが、流行にはいくつかの要因がある。楽曲のよさはもちろんだが、それに加えて聴く側の環境、時代、世相などの要因が絡む。世間的な流行はなくても個人的に魅了される歌というものもある。それも、聞く側の問題が大きく関与している。だから、自分の要因が変わってしまうと聞こえ方も変わってくるということになる。

 昔聞いていた曲は概して単純で素直なものが多い。メッセージが分かりやすい。メロディーラインも素直だ。それでも十分にドラマチックであり、叙情的だ。そこに惹かれたということだけは思い出せる。しかし、なぜ妄信的にのめり込んだのかよく分からない。それが楽曲なのだろう。

文化

WordPressの無料写真でCultureを検索するとこの写真でした。
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 日本では文化の日という祝日がある。そしてそれは今日だ。文化となにかを考える一日ということになっている。

 11月3日は明治天皇の誕生日としての天長節、崩御後は明治節であった。1946年のこの日に日本国憲法が公布され、憲法の精神に文化の尊重があることから1948年から文化の日となった。5月3日の憲法記念日は1947年5月3日に施行されたことによるものという。ならばこの文化とは憲法と関連する由来を持つものであることになる。

 憲法第25条には、
(1)すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2)国は、すべて の生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 とあって、文化的なという言葉がある。この条文は生存権と分類されるものであり、最低限度、つまりここまでは死守しなければならないという枠組みに文化が使われていることになる。

 換言すればただ生きているだけではなく、衣食住が足りている身体的安全が確保され、なおかつ精神的な豊かさもなければならないというのだろう。ここでいう文化は芸術、レジャーという範囲だけを指すものではなさそうだ。もと切羽詰まった問題も含む。例えば個人の生きる価値を見い出せるかとか、多様性を認められるかといったことも含まれそうである。生存権の規定は第2項の社会保障の問題と深く関連しており、しばしば訴訟の根拠とされている。

 文化という言葉の持つ幅広さはいろいろな解釈を生み出す。もともとの漢語の語義としては教養に近い概念である。それが西洋の概念である精神向上のような側面を融合したことで複雑になった。今使われている文化とは一定の社会集団のなかで共有されている知識や行動様式、生活様式などのことを指している。地域文化のように場所で、また若者文化のように世代で共有する場合もある。江戸文化というときは時代に関わる。様々なくくりがあってそれらが複合することもある。

 共有されていることすら気づかないことも文化と称されることもある。食文化などは同じ集団の中ではほとんど気づかれないが、旅をするとそれが文化であることが表面化する。その他の要素もほかの集団にであって意識される。カルチャーショックという言葉がそのとき使われる。

 生存に欠かせない文化とは何か。これらを組み合わせると、ただ生きているというだけではなく、自分の属する集団の中で当たり前だと思われることができることになる。自分とは異なるやり方をしている人たちがいることも知り、それを寛容する。それらが果たされなくては生存していることにならないということなのだろう。

名曲喫茶

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 高校生の頃、友人に連れられて名曲喫茶に行ったことをふと思い出した。何とも不思議な空間だった。

 渋谷駅のすぐ近くにあった店は、いまは全く別の建物に建て変わっており、面影は皆無だ。細い階段を上がると薄暗い店があり、交響曲やピアノソナタのレコードがかかっている。友人は曲名を即座に口にしたが、合っているのかどうなのかも分からない。聞いたこともない作曲家の名前だった。

 メニューはホットコーヒーしかなく、座ると蝶ネクタイをした店員が最低限の言葉だけ言って、その後コーヒーを持ってくる。当時はブラックは飲めなかったので、砂糖を入れるとかき混ぜる音が響きわたるほど店内は静かだ。他の客は文庫本を読んでいるのか、目を閉じていた。男の一人客が多く、高校生は他にはいなかった。友人は楽曲の情報をいくつか呟いて満足そうだった。そのほとんどが理解できない言葉だった。

 皆で同じアナログのレコードを聴くということは現代では殆どない。ましてそれがビジネスになるとは思えない。当時はオーディオブームがあって家庭でもこだわりの機器を揃える人もいた。逆に言うと再生に関わる設備の質に顕著な差があったということであり、自宅にステレオがない場合は名曲喫茶で聴くという需要があったのであろう。加えて音楽好きの醸し出す雰囲気に埋没するという目的も加わる。

 現在は音響機器も発達しデジタルディバイスも各種ある。その質も底上げし、AMラジオの音質に耐えられる人はもはやいないだろう。昔ならハイレゾとでも言っていた高音質の環境に慣れきっている。しかも様々なチャンネルや、サブスクリプションの中から選び放題の中で、他人とともに自分が選曲していない楽曲を楽しむということに金を払う人がどれほどいるのだろう。いろいろな意味で名曲喫茶の復活は難しいかもしれない。

 懐かしい過去の風景の中にあったものは、今では存在しえないものもある。

所作の地域性

ヒロインはどう振る舞う?

 喜びや驚きをどのように表現するのか。それは考えている以上に文化的な差があるようだ。その事実はなかなか表面化しない。

 感情に合わせて身体が動くことは誰もが体感できる。ただ、その動き方は文化の差がある。喜怒哀楽をどのように表すのかは文化圏の中で伝承されている。非言語の伝承は明示的にも、非明示的にも行われる。このうちの無意識の伝承は厄介だ。伝えている方も伝えられる方もその意識がない。だから、何かきっかけがなければ意識されない。

 私が気づいたのはディズニーのアニメーションを見たからだ。ヒロインが何かを語るときの姿勢がどうも不自然に感じたのだ。不自然というのは動きがぎこちないというのではない。むしろ動作はなめらかで人間が演じているかのようだ。不自然さはその所作が現代アメリカ人の典型的なものになっていることにある。この時代の、この地域の人はそうは振る舞わないだろうと予感しうるのだ。

 ディズニーは決して綿密な時代考証は目指していない。ストーリーのテーマ性が確保できればあとは何でもいいのだ。文化剽窃の可能性があるがすでに型ができているディズニーはその方面でとやかく言われないだろう。

 ラプンツェルやモアナが現代アメリカ人女性の典型的な所作をしても、多くの人は気づかないのかもしれない。でも、一度気づいてしまうともう気になって仕方ない。所作には明らかに文化差がある。

芸能の海外展開

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 日本の芸能界は国内では有名でも海外では通用しないということが多い。これは日本国内で十分な市場があり、満足できる成果が出ていたからに相違ない。それはそれで幸せなことだと思う。しかし、今後のことを考えれば海外展開を考えるべきではないか。

 いわゆるシティポップと呼ばれる日本の歌謡曲が海外で評価されているらしい。日本の音楽は海外の様々な要素が取り込まれており、その上に日本テイストが盛られているため独自の楽曲になっているという。それが海外では目新しく感じられ、評価される原因となっている。さらにアニメに関連する音楽やファッションなどはユニークな日本文化と認識されている。ならば、これらを海外でパフォーマンスするアーティストがもっと出てもいいのではないだろうか。

 韓国は芸能界が一定の成功を収めている。国家の補助も奏功しているかもしれないが、背景には国内だけでは十分な利益を上げられないというという制約がある。だから、海外で売る。グループに必ず、英語や日本語、中国語ができるメンバーを入れる。初めから海外展開を前提とした活動をしているのだ。この考え方は日本には今まではなかった。外国語ができる芸能人は特別扱いされ、できすぎると親近感がない存在になることさえあった。実は中国語ができても、フランス語が話せてもそれを武器として活動するという者は少なく、そうしたスキルは隠し持つものであった。日本には十分なファンの数がおり、利益を上げるのにリスクをとって海外展開する必要はなかったのだ。

 これからはわが国も海外に展開せざるをえない。人口減や経済の低成長による購買力の減退は、生活必需品以外の製品は手に入れようとしないことにもつながる。そんな中でアーティストが生き残る策としてユニークさを維持しながらグローバル展開をすることにある。少数ながらそういうアーティストが現れつつある。彼らのことをもっと知るべきだろう。

カワイイ効果

Cute

 現代日本の価値観に可愛さというものがある。これは世界に通用する一種の美意識とも言えるかもしれない。

 無骨な機械を作ってきた職人たちもなぜか完成した機械に名前をつける。それも可愛らしい人の名前だ。名付けすることで高性能なマシンが親しみやすいものになる。こんなことを繰り返してきた。

 デザインにも可愛らしさを強調する。暖かい原色の多い配色や、大きな目をつけるといったことはいろいろな製品に見られるものだ。これは趣味という領域を超えた文化のようなものかもしれない。皆さんの身近にもカワイイ品物はきっとあるはずだ。

 可愛さは幼児性を伴うのでやめたほうがいいという考えもある。しかし、可愛いデザインが狙っているのは実は別にあるのは明らかだ。これは使いやすさを高めるための機能的目的で施されている。高性能なマシンでも使いにくければ意味がない。まずは心理的な親和性が大事なのである。この戦略は利用しない道はあるまい。

 可愛らしさの基準は人によって異なる。だから、誰もがアニメのキャラのようにする必要はない。どこかに取っつきやすい柔らかなデザインを施すのが、日本のものづくりの重要な方策ではないか。