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春日

 今日の予想最高気温は20℃と発表されている。3月の始まりに合わせたようにこれからは日中の最高気温が上がる。花粉の飛散も多いようで、最近はくしゃみをする人が増えた。私も規定の半分にしていた対策薬を今日は普通に戻すことにする。

 春日と書くと「かすが」という読みもある。もとは奈良の地名であるというが、春日大社の信仰が全国に広がった影響であちらこちらにこの地名がある。また、苗字としてもあるのはこの地名との関係があるのだろう。

 「はるひ」と読むと春の陽光、もしくは春の一日という意味になり、短歌や俳句ではよく使われる。この語を使うだけで穏やかな雰囲気がある。万葉集の大伴家持の歌「うらうらに照れる春日にひばり上がり心かなしも一人しおもへば」は、春の穏やかな陽光にもかかわらず孤独を感じているという歌で、万葉とは思えない近代的な個を思わせる作風として知られている。これは「はるひ」である。

 「しゅんじつ」と音読みすると漢詩風の響きとなり、ややしまった感じがする。「春日を鉄骨のなかに見て帰る」という山口誓子の句は穏やかな春の光が鉄骨という無機質なものに切り取られている様を描く。その柔と剛のコントラストが際立つ作だろう。

 どう読むかでニュアンスはかわる春日だが、底流にある穏やかで生命のうごめく予感を含む語感を大切にしたい。

観梅

 近隣の公園に観梅に行った。五分か六分といった咲き具合だが、十分に楽しめた。

 毎年訪れる場所だが、ここ数年では人出が多く、なおかつ余裕がある雰囲気がある。コロナ自粛時代が終わりつつあることを表しているかのようだった。

早咲き

 隣市の公園に行ったところ、咲き始めた桜を見つけた。早咲きの種類らしい。カワヅザクラかその亜種のようだった。

 その樹の下には何人もの人たちが足を止め、枝先を見つめていた。言葉を交わす人もいる。まだ寒い日が続いているが、間もなくそれも終わりであろう。ソメイヨシノの咲く頃にはこの樹のことは忘れているだろう。

 早咲きの桜に何か心躍る一時であった。

開花予報

 ソメイヨシノの開花予報が発表された。東京都千代田区は3月22日ということだ。昨年と同じで平年より2日早い。このところ開花の時期は次第に早まっている気がする。かつては4月に満開を迎えたが、最近は3月末に満開し、入学式まで持たない。

 開花が早まっているのにはやはり地球規模の気候変動が影響しているのかもしれない。長い冬と長い夏に挟まれて春秋は存在感をなくしつつある。桜は日本の季節感を示す大切な指標の一つだ。それが現れる季節がずれれば、生活感も影響を受ける。

 近い将来、桜は入学式の花ではなく卒業式の花となるかもしれない。私にとっては違和感極まりないが。

雪のにおい

 雪が降り出す前には様々な兆候がある。確かにかつて雪の降る地域に住んでいたときにはそのいくつかを感じることができた。においはその一つだ。具体的にはいえないが何かが変わったような気がした。

 関東で暮らすようになってそれが思い出せなくなっている。五感で感じた天気の変化が分からない。すぐにスマホの天気予報サイトを見てしまうのがいけないのかも知れない。

 もっと感覚を大切にしなくてはコンクリートの内側で日常を完結させてはならないと反省している。

寒気

 バレンタイン寒波と命名されているようだが、確かに昨日から気温が下がった。今朝は風も結構強い。季節の行き合いの一進一退だ。

 それでもそろそろ梅の開花はまもなくだろう。また今年も梅園に行ってみようか。帰りにはまた公園の茶屋に寄ろうかなどと呑気なことを考え始めている。

 数日前から花粉症対策薬を飲み始めた。春は楽しむべし。それを喜べるための寒気と心得る。

降るかなあ

 東京の降雪予報は難しいらしい、前回も降ると言って降らなかった。過去には降らないと言って結構積もったこともある。予報はスーパーコンピューターでも難しい。

 低気圧の位置と寒気の南下のタイミングが雪か雨かを分けるようだ。雪になれば備えのない東京はそのまま危険地帯となる。

 明日はどうも降るらしい。ただ積雪があるかどうかは分からないようだ。外出を予定しているが交通事情に問題がないといい。今のところは分からない。

 立春である。地球と太陽の位置関係に名付けをしたのに過ぎないのだが、それでも何か変わったような気がするがおもしろい。物理学者は時間は存在しないという。これも人間の脳が生み出した幻影なのだろうか。

 春はいろいろなことの始まりと考えるのが日本の伝統的な季節感だ。元旦よりも4月の方が開始の時期と考えられる。年度の開始月であるからだが、もう身体に染みついている。他国ではこれが通用しないというから、時間観というのは文化の一つということになる。

 存在しない時間、もしくはあったとしても相対的な時間に一喜一憂するのはなぜだろう。幻覚に囚われているうちに何か大切なことを見失っているのではないか。もし、時間が幻想であり幻覚ならば、私はここに存在するということも夢の一部に過ぎないことになる。

 この仮説は科学的に証明されるとしても実感としては肯んずることはできない。たとえいまここにいる自分が幻覚であり、他にも自分は存在し別の場所にいるとしても、それぞれの自分が実感できる世界は一つである。他は想像するしかない。ならば、あくまで自分という座標軸においては今いる周囲しか見渡せない。

 限られた世界に閉じ込められているからこそ時間は感じられ、感情がわき起こる。喜びも悲しみも見渡せる地平が限定されているからこそ発動するのだろう。

 春に何かを素直に感じるのはその意味で当たり前だ。ただ、その情念が知覚しうる条件のもとで起きているということを心の片隅で考えておくのは、危機的状況を救う命綱にはなるかもしれない。

節分

 今日は節分、二十四節気の立春の前日で、今日で暦上の冬が終わる。

 豆まきの日としても知られているが、これは歴史的にはそれほど古くはさかのぼらない。追儺という悪霊退散の儀式があったことは、8世紀初めの記録が『続日本紀』にあり、平安時代には大晦日の宮廷行事として行われていたことが記録に残る。古代中国から日本が取り入れた行事の一つだ。本来は悪霊を追い払う役の者たちが、次第に鬼そのものを演じるようになり、それが出ていく様を演じることで邪気の消えることを願う行事になっていったと考えられている。

 中世に入るとこの行事は行われなくなり、江戸時代も宮廷行事としては行われていない。似た行事は民間に伝わったようで、大晦日が新年の前の日であることが、立春の前の日になっていったのはその過程にあるようだ。旧暦では元旦と立春は近い日となり、年によっては一致する。

 鬼が悪霊と同意義になっていくのにも歴史がある。中国の「鬼」は祖霊を意味することが多かった。日本でも民間行事のなかで鬼の姿をした者を丁重に迎える祭りをする地域は多い。それが異類と感じられ、さらには害をなす邪鬼として考えられるようになっていく。こうした聖俗の逆転はいろいろな事例が認められる。鬼門が丑寅にある連想から、角をはやし、虎の毛皮を身に着けた鬼の姿が確立していった。

 春の前に鬼を追い出したいという願いは、東アジア一帯の文化にあるのかもしれない。禊や祓の行事も季節のはざまで行われる。定期的な掃除のように罪や穢れ、邪気は日常から離れたところに送り出そうとするのだ。科学の知識が普及したあとでも、こうした考えは根底に流れ続ける。それは生活の知恵でもある。残念なのは悪因悪行は現代社会ではそれほど簡単には退散してくれないことだ。ただ、季節の流れの中に日常の見直しの行事を置いたことは先人の知恵として受け継いでいくべきだろう。

花粉症対策

 今季の花粉の飛散は極めて多いようだ。すでに自覚症状が出ている人もいるというが、関東地方では今週末くらいから本格的な花粉症の注意期間に入るらしい。

森林浴は好きですが

 私は子供の頃から症状に悩んできた。ここ数年はコロナ対策のためのマスクのせいで気にならなかったが、それよりも対策薬の恩恵にあずかってきたのが大きい。今年もそろそろ始めたい。

 花粉症の薬は効きだすまで時間がかかる。だから早めの服用が求められている。週末に向けて明後日辺りから始めようか。マスク着用義務がなくなりつつあるが敵はウイルスだけではない。困ったことである。