カテゴリー: エッセイ

脳の見せる世界なのか

 

 脳科学者は言う。この世のすべてのできごとは脳の機能によってとらえられたことなのだと。確かに脳機能に障害を受けた親の姿を見ると、人生は脳機能が見せる幻影なのかと思う。脳機能が損なわれると本人の行動が変わり、人格も変わってしまう。同じものを見ても脳の状態によって感知できる内容は変わり、それに伴う反応、つまり表情、言葉、雰囲気も変化してしまうのだ。

 ならば、世界は脳の働きでいかようにも見えるのか。よい脳には良い世界が、悪しき脳には貧しい世界が感知される。世界を楽しめるか否かは脳の働き次第なのかということである。もしこの考え方を認めるならば、人生は脳機能によって決まるということになる。良い脳を持ったものが幸せを掴み、悪しき脳の持ち主は浮かばれない。浮上するチャンスを失い続け、結果として精彩を欠いてゆく。

 それは何か違うのではないか。脳の機能は確かに大きい。人類は脳の発達にかなり影響されているとはいえ、それ以上にその場の雰囲気、状況にかなり影響されていると考えるのだ、脳のフイルターを通らなくても感じている何かがあるのではないかと考えてしまう。すべてを身体の機能に還元しようとする現代の知見には敬意を払いながらも敢えて別の見方をしてしまうのである。

酒を飲まずに大丈夫か

 最近の学生は酒を飲まないようだ。私のように学生時代はキャンパスの周辺の居酒屋で飲みまくっていた者にとっては不思議にさえ思う。酒を飲んでも醜態をさらすだけで、身体的にも負担が大きく、いいことなどないと考えるのだそうだ。我々の世代からすれば、正論を語っても野暮に見えるだけだ。

 酒を飲むことによる高揚感はそれなりに意味があるはずだ。日常の困難に対応するための本能的な逃避術ということもできる。ただ、これには幾つもの分かれ道があって、単なる憂さ晴らしならばやはり飲まない方がいい。少なくとも他人を巻き込むべきではない。

 飲み会のあとには何も生まれないという人もいるが、そうでもない。ある人の別の一面を知って、理解が深まることもあるし、生活上、仕事上のヒントをもらえることも多い。素面では話してくれない仕事のコツなどを私はその場で相当教えていただいた。覚醒した後、それをいつの間にか自分のものにしていることもしばしばあった。

 ただ、それには飲んでも翌日働ける体力がいる。私はその自信がないので最近はすべてのお誘いを断っている。でも、若者にはときには酒席に臨んでほしいと思う。飲みすぎなければ得られることは多い。

花粉飛散今年は悲惨

 先日の新聞によれば今季のスギ花粉の飛散は例年よりかなり多いらしい。いわゆる花粉症の私にとっては脅威そのものだ。

 フェキソフェナジンなどの対策薬を服用するようになってかなり楽になったことは確かである。眠気の副作用も以前の薬と比べるとはるかに少ない。でも、うららかな陽気に気兼ねなく外出ができないのはかなり残念だ。

 聞くところによると、花粉症を自覚する人の数は年々増えているらしい。今までは大丈夫だったのに、ある時から急に激しい症状が出たという話をほうぼうから聞く。どうも花粉に対する耐性には限度があるらしい。

 花粉症に日本人がかかりやすいのは遺伝的特性という人もいる。植林計画の誤りという人もいる。花粉が出にくい品種改良がなされそれに置き換えつつあるとも聞く。何とかなればいいと思うが、私の命のスパンには間に合いそうもない。

 コロナ禍を経てマスクをつけることに抵抗感がなくなったことは事実だ。朝晩はマスクをして電車に乗ることになる。面倒だが仕方ない。

日常のメタ認知

 その立場にならないと分からないことがある。例えば偶数月の15日になぜATMが混雑するのかということをつい最近まで知らなかった。それが切実な問題であることを知るとこの日をとても切なく思うようになっている。近くが見えなくなることの苦しさも最近痛感している。視力は単にそれだけではなく、総体的な判断力、処理の速度にもかかわるから重大な問題なのである。高齢者がしばしばうろたえたり、不機嫌になったりすることをなかば冷笑していた自分がいま逆の境遇にある。

 後輩のときは先輩の理不尽な行動に反発していたのに、自分が上の学年になると同じ事をしてしまうというもの学校ではよく見られる。昔から今に至るまで変わらない。時に大変革を訴える者が出ても、その後継者はすぐに絶えて、また理不尽な先輩が登場する。学校を卒業してもこの習慣は変わらず、世の中の上司と呼ばれる人の中には、部下の立場を慮れなくなっている人がいる。学校と違って数年で卒業しないから厄介である。そして彼が退職したときに部下のいない悲哀を知ることになるまで続くのであろう。

 自分の身の回りの世界をどのようにとらえるのか。結局自分の目で見たもの、感じたことを基準にして価値観を形成することになる。それが社会の実際の在り方と乖離してしまったとき、独善的な生き方が展開するのだろう。自戒を込めていうが、日常をメタ認知する努力を失ってはなるまい。そのためにも他人の生き方への関心を深めなくてはならないと思う。文学を学ぶ意義もそこにあるはずだ。

猫を見ていて

 猫はもともとウサギやネズミを狩っていたようである。長い人間との付き合いの中ですっかり牙を隠している。でもその本質はハンターであることは忘れてはならない。

 ある施設に飼われている猫に今日は接した。媚びを売るように近づいてきて、少し撫でてやると急に腹を見せてくる。これをかわいいというのだろう。私もその思いを発しながらも、でもこの動物は根本的に狩猟を旨とする生き物であると考えてもいた。油断はならない。

 おそらくこの人なつこい行動は長い人間との共生の中で獲得されたものであり、後天的な要素なのだろう。人類が滅亡したらイヌの多くは共に滅亡するが、ネコ類は野性に戻って生き続けると考えられているのも、もっともだと思う。

 こどもの頃は猫が嫌いだった。どこか自分の弱みを見透かされている気がしたのだ。ところがある年齢を過ぎると猫を愛おしく思えるようになった。何かに共感したのだろう。ネコも人間に従属することになるとは思っていなかったはずだ。媚びを売りながらもしっかりと欲求をする。ネコ的なしたたかさを再評価しているのだ。

切り取り

 発言の一部を巧みに摘出し、ときに組み合わせて発言の内容を曲解することがよく見られる。切り取りと言うそうだ。短い動画が世界的に流行しているがこの歪曲された情報はその中でループされている。

 話法に譲歩の型というものがある。簡単にいうと、一般的にはAだが、私はBだと考える、といった論法で、筆者のいいたいことはBの方でAは比較される材料に過ぎない。しかし、悪意のある切り取りではAの方が引用され、真意は伝わらない。

 受け手としてはそれがどの程度の引用なのかを考えなくてはならない。本当にそんなことを言っているのか。限りなく原資料に遡及する努力は必要だろう。ショート動画やソーシャルメディアにそれが掲載されていても鵜呑みはできない。

 発信者の方も工夫が必要になる。切り取られにくい論法を考慮しておく必要があるのだ。どこが引用されても曲解されない工夫はやはり必要である。メディアリテラシーは細部に渡り必要になっている。何が本当でどこにまやかしが潜んでいるのか。常に注意しなくてはならないのだ。

惑星

 夜空を見上げると金星、火星、木星、土星がみえる。実は天王星も海王星も出ているらしい。特に金星と木星は明るく、明るい冬の恒星の中でも一際輝いている。惑星は東京のような都市でも見えるのがいい。見上げればしばし日常の瑣事から解放される気がする。名は惑星だが、それ以上に惑い続けている私にとっては頼りになるのだ。

交渉で勝ち抜く

 トランプ大統領の就任演説は危惧していた通りの破天荒なものだった。パリ協定や世界保健機構からの脱退すると宣言したことなどから察する事ができる。

 アメリカはこれまで世界の警察を名乗るほど、世界の様々な問題にコミットしてきた。優位を示し続けることで最大の資本国の地位を見せつけてきた。今度の大統領はそれを止めるのだという。自国第一主義といえば聞こえはよいが、要するに他人に構っていられる余裕がないのだ。新興の中国に手厳しいのはイデオロギーの問題だけではなく商売敵だからなのだ。

 世界保健機構にしてもパリ協定にしても、アメリカが多額の拠出金を支払い、自国の天然資源で商売することを妨げることになるからに過ぎない。かつてなら余裕があった超大国がそれほど強くはなくなったのである。

 トランプ大統領は基本的には商人であり、利益になることをやり、損になることを切り捨てる。自分の得になることは追求するが、損になることは前例にこだわらず切り捨てるのである。大言壮語するのはかつて公約していた国境の壁ができなかったことからも明らかである。

 この4年は少なくともそういう振る舞いに耐えなくてはならない。隣国のカナダやメキシコにも圧力をかけ、まず脅し、それから条件のよい交渉をしようとする。日本の商環境とは異なるので当面は困惑するだろう。明治の一部の政治家たち、戦後の白洲次郎のような気概のある指導者が求められる。ただし、戦いはあくまで避け、交渉ができることが不可欠だ。

 交渉で勝ち抜くという能力はどこで磨かれるのだろう。それが教育の現場でできるならばどのようなものなのだろうか。現在どのような実践がなされているのか関心がある。

何とか切り抜ける力

 効率よく最短距離でが推奨されるご時世だが、どうも私には親和性がない。失敗を繰り返し、たまたまうまくいって何とか切り抜けるというスタイルの方が私にとってはやりやすい。

 こういう考え方は効率性への逆行と考えられがちだが、果たしてそうなのか。あるいは寄り道の上、出口を見つけた経験こそが大切なのではないか。何もかも上手くいかない状況の中で、必死に出口を模索できたことが何よりも貴重な出来事だったのではないか。

 物事を効率的に行うことに関して人工知能に勝つ見込みは少ない。かのシステムは過去のデータベースを引用して、今日の問題に提言をしてくるのだから、そうそう勝ち目は無さそうだ。

 ただ、不確実で法則性が見いだしにくい状況の中で何とか答えを見つけ出すのは人間の得意分野である。状況に対応してその場で解決策を見出すのは進化の過程で、獲得したスキルでである。これを大切にしなくてはならない。失敗することは避けられない。それでも続け、やり通すのは人間に残された最後の最強の能力なのであろう。

外来語の扱い

 大学共通テスト国語の3問目はいわゆる新傾向問題であった。数年前の試行問題のときは随分批判されたが、今年はそれに比べると穏当であった。ただ、時間を10分延ばしても全体的に時間が不足しており、相変わらず熟考より、処理能力が求められている。

 新傾向問題はいわゆる国語表現の分野に関わる。ある人が外来語の使用状況を調査することにより、自分なりの意見を述べることにしたという想定で、図表の読み方や、文章構成についての考えを求めるものだった。問題そのものは受験勉強の専門家におまかせしよう。

 この中で中心的に扱われているインフォームドコンセントは、当初確かに分かりにくくなぜそのまま使われるのか分からなかった。医師による病状の説明、患者もしくはその関係者の理解、今後の処置についての合意という複数の行動が一つになった概念であるためにうまい訳語が見つからなかったのだろう。問題文中に示された納得診療というのも、正確には概念のすべてを表してはいない。

 日本語は外来語を取り入れやすい構造になっている。漢字やカタカナを使ってそのまま表音表記し、助詞の働きで文中になじませることが可能だからだ。動詞や形容詞などに変形することもできる。だぶる、さぼるなどにはすでに外来語の趣きはない。ググる、トラブるには語源の根っこが見えるが、それに慣れるのも時間の問題だ。さらに万能のサ変動詞をつければ何でも動詞化できる。ショッピングする、リードする、ネットするなど何でも可能だ。     

 日本語環境は外来語の導入に寛容であり、その和臭化も迅速におこなわれる。ただ導入期には混乱も多く、しかも導入する言語が飛躍的に増えている。すると通じない外来語ができる可能性が増える。ビジネス界ではアジャイル、コンプライアンス、スキームは常識かもしれないが、彼らがアンフォルメルやインスタレーションの意味を理解しているかは分からない。勝手に輸入された言葉が仲間内以外では通じなくなっている可能性がある。

 外来語の扱いは何でも受容する日本の重要な問題であり、これからも考えていかなくてはならない課題なのだ。