カテゴリー: エッセイ

信念を述べるだけでは

 首相の信念を国会で述べたことで、大きな国際問題が出来している。中国としてみれば日本政府に付け入る糸口を、首相自身が示してくれたのだから、これを利用するしかないと考えたのだろう。想定内の対応のはずだ。残念ながら、しばらくは日本経済にマイナスの影響が出続けるだろう。

 よく言ったと評価する向きもある。恐らく、国際問題に関して距離をおける立場の人にとっては、国としての立場を明言するリーダーは頼もしいはずだ。支持率の高さもそれを反映している。

 ただ、例えば中国との交易や、交流の前線にいる人たちにとっては非常に迷惑な発言だったはずだ。多くの商機が奪われ、またさまざまな交流の機会が失われることになったのだから。

 特定の国が嫌いで国交を断てとまでいう人もいるが、多くの場合は本当に断絶した後に起きる事態への考察をしていない。思考停止して、国益のことなどを考えないのだ。彼らの無責任さが何を犠牲にするのかは考えてみなくてはならない。

 首相が自分の信念を語ることは大切だ。しかし、それがどのような影響を及ぼすのかという推測はしなくてはならなかった。もっと賢く、場合によっては抜け目なく真の目標を達成していくのがリーダーとしての役割だと考える。今回の件でそれが実感されたはずだ。今後を期待している。

止まっていると

 最近できなくなったと感じることに沈思黙考がある。かつては私の得意な思考法でこれでいろいろなことを解決してきた。雑音から隔絶してひたすら自分の世界に引き篭もる。それによって新しい考えが生まれ突破口が見えてくる。そんな経験を何度もしてきた。






 しかし、最近はこれが機能しない。まず沈思黙考できるだけの体力と気力が欠けているのかもしれない。世間から隔絶するとすぐに睡魔が襲う。慢性的な睡眠不足と極度のストレスの蓄積が集中力を一気に奪い去る。だから、最近は気づいてきた。私には一人でじっくり考えることはあまり期待できないと。

 ならば、雑音の中に身を晒して、その中でアイデアを捻出するしかあるまい。人真似なのか、オリジナルなのかよく分からないが、とにかく考えたことを言葉にして、運がよければ理論化する。この方法で何とか生き残るしかあるまい。じっくり考えればいい考えが浮かぶという段階を私は過ごしてしまった。流れに身を任せてその中できらめくものを掴み取るしかないのだ。

 集中力が保てないのは自覚のなさのせいだと考えてきた。それもあるが、それ以上に自分の能力的な問題もあったのだ。ならば先に進むしかない。衰えた集中力を補いそれ以上の実績をもたらすための行動だ。私はそれを妄想ができる力と考えている。根拠のない空想をどれだけ言語化できるのか。それが私に残された善後策である。突飛なことを臆せずいう。それが老兵の戦い方と心得るのである。

紅葉見頃

 先日、紅葉もしくは黄葉を見てきた。近隣の公園であるがそれなりの見応えがあった。いわゆる名所の紅葉は確かに綺麗なものだが、純粋に季節の移ろいを味わいたいのなら、混雑のない近隣の公園や雑木林を見るのがよい。その意味では東京はこれでも植生が残っている都市である。

センター南のライトアップされた黄葉

 個人的にはユリノキの黄葉と落葉はダイナミックでよい。大きな葉が舞い落ちる様は見応えがある。葉の形も変わっていて、落下時には風に舞いやすい。ほとんどが黄色になる黄葉だが、稀にアントシアニンが生成されるらしく、赤みを帯びたものもある。

 紅葉を楽しむのは心やりとしてはいい。ただ、公園などでは落葉してからの処理に多くの労力が使われているはずだ。管理している方には感謝するしかない。

天皇杯優勝

 FC町田ゼルビアが天皇杯で優勝したという。私が応援を始めた頃はJFLに昇格したばかりで、観客もまばら選手のほとんどはプロ契約しておらず、少年サッカーのコーチなどを兼任していた。リーグでは佐川急便や武蔵野といったアマチュア界の名門に勝つことができず、ついに優勝できなかったのである。

 J2に昇格できたと思ったら全く勝てずJFLに逆戻りして、その後始まったJ3で何とかプロクラブ扱いになった。町田の地元サポーターが少しずつ増えてくると勝てるようになっていき、J2時代の晩期にサイバーエージェント社がスポンサーになってからは選手補強が可能になって、黒田監督の抜擢もあって勝てるようになった。戦略に関してはいろいろな批判があったが、多くは既存のクラブが新入りに出し抜かれたことへの焦燥の表現だった。批判していたチームが今シーズンは同じことをやっているのだから。

 優勝はめでたいが、何か過去のクラブを知るものとしては別のチームが戦っているように思えてしまう。プロである限り仕方がないことであり、その前提を受け入れなくてはならないことは自明なのだが。かつてはそれ何と言われたクラブが説明なしに認知されるようになったことを素直に喜ぶべきなのだろう。

休養

 なにもかもなげだして休養したい日がある。ただ、それはできないことだとも分かっている。次にやらなくてはならないことがいつも心の底にあって、今はそれをやるための一時的な休憩なのだと考えてしまうのである。

 恐らくそれが当たり前のことであり、完全な休みなどありはしない。何かをし続けることが生きている証なのだろう。

 ただ、やるべきことが今のままでいいのかについては考えてみなくてはなるまい。もっと別のことをやってもいいのではないか。その方が人のためにも自分のためにもなるのではないか。休みの日になるたびに考えてしまう。

懐かしい曲

 金曜の夜は実はかなり披露している。体力の減退もあるが、いまの生活は毎日が全力で行かなければならないという思いが強く、心身ともに困憊してしまうのである。もっと余裕があったはずなのに。それを思うとさまざまな悪い付帯事項が惹起するので、すぐに打ち消すことにしている。

 疲れた夜にするのはなにか。いろいろ試してみるがどれも神経をかえってすり減らしてしまう。そのなかで成功率が高いのが若いころに聴いた曲を聴くことだ。昔夢中になって曲を聴き直してみると、その当時のことがほんの少し思い出される。当時の若く甘い人生観を思い出すとなぜかほほえましく感じてしまうのである。同じ自分であるのに。

 それを今を嘆く材料にしてしまっては逆効果だ。むしろ、忘れていたひたむきな気持ちを取り戻すことを思うのがいいと思う。そして大抵の場合、そういう方面に心は動くのである。懐かしい曲を聴くのは知らず知らずのうちに失われた何かを取り戻すためのきっかけなのである。

寒くなった

 急に寒くなった。ただ、今回はいろいろ身構えていたせいなのか、いまのところ大きな体調の変化はない。毎年、この時期に風邪やインフルエンザもどきに罹る私にとってはまだ油断がならない。栄養を摂ることと休むことが大切なのは分かるがそれができないのが、今の私である。とにかくやるしかない。

警官のネクタイ

 警官のネクタイ着用を自由化する県警が増えているようだ。至極当然だと思う。ネクタイで威儀を糺す必要はない。昨今の異常な暑さの中では業務自体に悪影響を及ぼすだろう。

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 それよりも場合によっては格闘しなくてはならない人にとって、首を縛るアイテムは危険だ。もし付けるとしても、強く引けば外れるような工夫がなされるべきだ。私は日々ネクタイをして通勤しているが、有事の際はどうすればいいかと思うことがある。

 職業に相応しい衣服はあっていい。制服にはそれなりの役割がある。ただ、それが業務に適したものなのかは時に応じて見直した方がいいと思う。

旅の途中

 ごく稀に自分は何でこんなことをしているのだろうと思うことがある。日々の生業にあくせくして、他人からの毀誉褒貶を受けながら、お前は何をしているんだと考えてしまう。子どもの頃から植えつけられた価値観のもとで、何か絶対的な基準があるかのように幻想して毎日を過ごしている。でも、一歩引いてみればそれは恐らく幻覚のようなものだ。多くの人が同時に見ている夢の中でそれに相応しい振る舞いをしているのに過ぎない。

 いま正しいと思ってやっていることは、基準が異なれば全く違う評価になる。現実と信じている日常は多くの人がそのようであれと考えている幻覚のようなものだ。何が正しいのか、邪悪なのは何かと言った弁別は言ってみれば時価のようなもので座標軸が変われば全く別の世界が出現する。

 私たちは生きる世界を選択することがほぼできない。個人の理想を追求するのはよいが、それが自分のパートナーにどのように響くのかは全く分からない。自分にとっては理想的な世界であっても、隣人には苦痛そのものかもしれない。誰を基準にするかで世界は大きく変わってしまう。

 だから、いまの身の回りの世界を絶対的なものとみるのはやめた方がいい。たまたまその世界にいて、多くの人がその世界の立ち回り方としてやってきたことを模倣しているのに過ぎないのだ。いろいろな世界がある可能性を忘れてはならない。そんなことが分からない自分はまだ旅の途中にいて彷徨っているのだ。

演出

 平凡な毎日にあやをつけるためにはそれなりの演出が要る。それは一種の生活の知恵であり、必要不可欠なものだ。

 民俗にハレとケの日があるのは、ケの日をより豊かなものとするために、散財してまでもハレの日を設けたのであろう。現代社会は毎日がハレの姿をしているが、実際の日常はしばしば退屈である。その鮮度を落とさずに保つためにも、特別な行事が挟み込まれている。

 ならば我々は人生を送るためにさまざまな演出された毎日を送っていることになる。それが文明人の知恵であり、叡智でもあるのだ。私は民俗学を学びながら、この普遍的事実を忘れかけていた。つまらない毎日と突き放す前に、演出された日常を楽しむことを思い出さなくてはならない。