カテゴリー: エッセイ

カツレツとトンカツ

 トンカツは好きで月に一度以上は食べる。さすがに最近は油っぽいものを避けようとする傾向があるが、トンカツ屋に行くのは一種の幸福である。このトンカツは、西洋料理のコートレットなる肉に衣をつけて油で炒める料理を起源としている。

 コートレットつまりカツレツでは肉を叩いて広げ、その上に小麦粉などをまぶし、薄く引いた油の中で焼く料理のようだ。日本の料理店でもこの方法で調理した料理を食すことはできる。なかなか美味いものだ。

 日本のトンカツはこれにならいながらも、比較的安価な豚肉を使い、天ぷらの調理法である肉を油に完全に沈ませる方法を取り入れて和風化を達成したものである。キャベツを添えて油っぽさを低減する方法も日本が発祥だという。つまり、元は外国料理だが、それを種々の事情で和風化しているうちに今の形になったということだ。

 これは日本の食文化の典型であり、ラーメンや餃子、コロッケといった中華や洋食という分類がなされる日本料理などに共通する。積極的な導入、模倣と、その変容が顕著に見られる。おそらく世界中のどの国や地域も同様な展開がなされているのだが、日本文化では摂取以前の形態を保存したり、名称を残したりするためにそれが分かりやすいのだ。

 日本文化のあり方そのものともいえる。模倣の末に元を越える何かに作り変える。しかもその原型への敬意を残す。出来上がったものは、また次のものに作り変えられる材料となる。そういう循環を阻害してはならない。

アナウンサーの絶叫

 NHKのアナウンサーには緊急時の対応が予め決まっている。今回の津波警報の時のアナウンサーの対応が話題になっているが、これは事前研修の成果なのだ。彼が叫んだのは訓練の成果なのだ。こうしたことを日頃から心掛けている点については、NHKアナウンサーをおいてない。民放アナウンサーに求められているものとは違うのである。これは優劣の問題ではなく、目的そのものが違うのだ。

 NHKの受信料が高すぎではないか、隠れた重税ではないかという話は昔からあり、その不満を利用して利己的な政治活動をした者も現れた。確かに受信料の金額については議論する価値はあるが、災害時の対応力を担保するためには応分の料金収納は必要である。東日本大震災発生時の各局の対応を時系列で調査したことがあるが、やはりNHKを超えるサービスを提供できた局はなかった。

 ソーシャルメディアがあればよいという向きには先日の青森沖の地震に関するSNSの記事をご覧いただきたい。点としての情報は優れているが、それを地域の共有事項としてよいのか否かについての判断はできない。あくまで点の報告としては機能しても、全体像を知り、その後に備えるための情報収集をすることが目的ならば、かゆいところにまったく手が届かない。

 オールドメディアと揶揄されようともやはりいざと言うときに何が役に立つのか、それを考えておかなくてはならない。東日本大震災のとき、かろうじてソーシャルメディアは生き残った。電話回線が使えなかったことに対して、頼もしいものだった。ただ、そこに流れた情報はまさに玉石混淆であり、石の方がはるかに多い状況だった。各自の判断力に任せられたといえば聞こえがよいが、多くの人は途方にくれただけだった。NHKの情報が何よりも心強かったのである。

 今回のアナウンサーの行動も理にかなったものである。緊急時の情報提供機関であり、平時に文化的娯楽的コンテンツを提供している放送局だと認識すべきなのだ。少なくとも私はそう考えている。

人のせいではなく

 憂国の徒にはいろいろなタイプがあるが、なかでも共感を得やすいのは権力側を批判する者たちだ。それは間違ってはいないのだが、中には自分たちは被害者であり、現状に責任はないと訴える向きもある。一方的に現況を押しつけられているのだという主張だ。

 こういう被害者意識は理解されやすく、そうだ私もだといった形で仲間を作りやすい。世論を操作する人の中にはこれを巧みに利用して、その先にある利己の路線に大衆を巻き込んでいく。最近のポピュリズム政治家の言動をみればこれは明らかだ。

 ただ、気をつけなくてはならないのは本当に人のせいだけなのだろうか。自分たちに何の責任もないのだろうか。ほとんどの選挙の投票率は低い。数字上では多数が投票すれば結果が変わるかもしれないという現実はほとんどの選挙で続いている。国内企業を守るべきだと言いながら、安い外国製品ばかりを買う。外国人の労働者が多すぎると言いながら、彼らの就労先に進んで就こうという日本人は少ない。そういう現実には目をつぶり、あたかも自分たちは犠牲者だと言うことには説得力がない。

 大切なのは批判精神を忘れないことであるが、その対象から自己を除外しないことなのであろう。自分もまた社会の一員であり、ということは現況をもたらしている一因であるということなのである。単に現状を嘆くだけとか、第三者のようなポーズをとって冷笑するといったことがよく見られるだけに、人のせいにしないという考えは再考すべきだ。

コンビニの巻物

 コンビニでよく買う食べ物に納豆巻きがある。理屈を越えて好きだから定期的に買ってしまう。このコンビニの巻物の包装が秀逸である。海苔が米と接しないようにフィルムが施されており、食べるときにその遮蔽を取り去って食すように設計されている。

 しっとりとした米と具に対して、海苔はあくまで乾燥した状態でなくてはならない。これを実現するためには、具と海苔を分離する特殊な包装が必要なのだ。コンビニ巻物はそれを見事に実現している。

 中身のフィルムを取り除いてから、海苔に巻きつける作業はちょっとしたコツが必要だ。経験したことがない人は始めは戸惑うだろう。外国人観光客にも是非挑戦してみてほしい。海苔は乾燥したままで食べたいという日本人の特別のこだわりを知っていただければ、きっと旅の発見の一つになるはずだ。

 私はこの包装法の開発者に敬意を表する。あなたのおかげで救われた人がどれだけいるのか。日本の味を安価に再現する技法の開発者に心から感謝したいのだ。

個人レベルでのアップサイクル

 これまでは廃材扱いされていたものを製品として利用し、商品価値を見出していくことをアップサイクルというのだという。使用されたものを再利用することや、その素材を別の形にして利用するリサイクルとは別の概念だ。リサイクルの多くは、二次利用の方が商品価値が低い。これをダウンサイクルというのだそうだ。つまりアップサイクルは素材の価値の再評価を基にしている。

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 大量生産と大量消費、そして大量廃棄が私が生きてきた時代の主流であり、それこそが経済の成長の基本と教えられてきた。それが地球規模の環境破壊の進行が明らかになり、その影響があらわになっている状況下で見直しが余儀なくされているというのだ。究極的には使わないのが一番なのかもしれないが、それでは人間の文化的な生活は維持できない。そこで有限の資源を極力使いつくすという考え方が広まりつつあるのである。

 そうはいっても何をもってアップサイクルできるのかというのは知恵がいる。少しでも何かが欠ければすぐに新しいものを買い足すことを続けてきた私たちには、そもそも価値のあるものを見分けられる目が育っていない。これはこういうことにも使えるという発想力が必要なのだ。コピー用紙の余りを、計算やメモの用紙に使うのは先ほどの分類でいえばダウンサイクルである。メモ用紙は結局捨てることになるからだ。でも、その用紙で何か造形して芸術品として仕立てると話は変わる。結局いつかは捨てなければならないが、捨てるまでの日々に見る人の感情に何らかの形で働きかけるオブジェになることで、別の価値が与えられたからである。

 食品加工や建築素材の分野では様々な方法でアップサイクルを模索しているようである。素材観の見直しで新商品を開発することが急務のようなのである。私が考えるのは個人レベルでのアップサイクルには何が必要かということだ。そこには無価値と考えられてきたことに価値を見出す想像と創造の力が必要であるのは間違いない。そしてそれは意外なところにある。空き缶をペン立てとして利用しているのはささやかながらアップサイクルの一例であり、ふた付きの缶を様々な収納用に使っているのも捨てるよりはいい。そういうところから始めるべきなのだろう。

OS更新

 iPhoneの基本ソフトが大幅に変更されたということで更新を迫る知らせがしばしば来るようになった。私の使っている機種はぎりぎり更新対象ということだが、スペック的には更新すると動きが遅くなる可能性がある。そんな報告がネット上にいくつも上がっていて躊躇する。それ以前にメモリが少ない機種なのでアップデートに必要な作業メモリが確保できない。いろいろ消して更新して使い勝手が良くなることが保証されないのだから、更新する価値は今のところない。

 それなら買い替えをと思ってショッピングサイトを見ると驚くべき価格だ。パソコンの方がよほど安い。もちろん様々な高性能な機能があるのだから、それだけの価値があるということなのだろう。いまや定期券からファイナンスツールとしてもフル活用しているため、スマホのない生活に戻るのは難しい。OSが更新されて機能が進歩していくのはよいが、なるべくハードに依存しない更新を目指していただきたい。などと詮無きことを思うのである。

旅の意味

 先日、「旅と日々」という映画を観てきた。つげ義春の漫画を原作とする作品だが、原作の再現というより、その世界観を利用して独自の映像世界を作り出していた。

 主役のシム・ウンギョンは韓国人ながら日本の映画の脚本家として登場するが、外国人ゆえの客観性が自然に演じられており、全体的に虚構性が強いこの作品にリアルな雰囲気をうまく表出していた。

 ストーリーは前半の離島を思わせる海のシーンと、後半の雪深い辺境の宿のシーンとに分かれる。どちらもゆっくりとした時間が流れ、しかしその中にはさまざまな人間模様がある。旅の途中で出会うかもしれない一時がうまく描かれていた。

 いつもとは違う時間の流れに身を置くこと。それが旅の意味だと考える。最近は観光地に行っても効率よく観光スポットを巡ることばかりに関心が行き、結局非日常の時空に身を置くことができていない。効率性とか費用対効果とか、そういうものから解放されるために旅はあるのではないか。

 どこそこに行きましたが、有名な場所には何処にも行けませんでした。ただ、ゆっくりとのんびりと過ごすことができました。そして普段の生活を振り返ることができました。そういう経験が本当の旅なのだろう。

 最近はそういう旅の仕方をしていない。観光スポットをどれだけ踏破するのか、そこをどれだけ短時間で、安価に巡って来たのかということばかりに気を取られすぎだ。

 もっと余裕のある旅をしてみたい。そう思いながら毎日を過ごしている。

日本の資源

 中国政府が日本への渡航自粛要請を国民にしたことから、来日する中国人の数が激減しているという。観光地からはオーバーツーリズムが解消されたという歓迎の声もあるが、長期的に見ればやはり打撃になるだろう。日中関係は定期的に冷え込み、その際は経済的な事情よりは政治上の問題になるので、非常に厄介だ。

 日本の製品の大半は中国ではコモディティ化されてしまい、無理に日本に来て買う必要もない。国内に手頃で自国民好みのものがあるのだから、高い旅費と関税を払う必要がないのだ。国内で買えないものは海外の生の雰囲気であり、自然や風土、人の暮らしだ。これは金では買えない。

 日本に魅力を感じる人は、その日常に潜む自国にはない何かを漠然と探り当てている。それがアニメや映画などの創作を通じて認知されたとしても、それ以上の何かを感じ取るためにわざわざ日本に来るのだ。

 極東の島国にして、歴史的にさまざまな経緯があり、他国の文化を積極的に取り入れながらも独自の世界を作り続けているこの国のあり方こそ大きな資源と言えるのだろう。

 政治上の問題で対立が起きるのは残念だ。常に他に対しては寛容で、しかし着実に和風化を続けていくのがこの国の生命力だろう。一国でなんとかなるとか、排他的な感情が支配したときにこの国は衰退に向かうのだろう。幸いいままではその機会があっても乗り越えていけた。今後はどうだろうか。

マフラー

 マフラーを今シーズン初めてつけた。朝晩は結構冷えるので万が一の対策である。マフラーの巻き方にはいろいろあるが、なぜか首に巻いた残りを背中に回し、羽のように垂らしておくやり方を印象的に覚えている。

 それは恐らく昭和のトレンディドラマのヒロインが巻いていたやり方が私の世代で流行していたことによるのだろう。スカーフの真知子巻きではないが、メディアが流行らせたスタイルがあったのかもしれない。

 これからは最低気温が一桁で、氷点下になることもある。マフラーが活躍することになる。

寒さの実感

 寒波到来を予感するような曇天の一日だった。夜には大粒の雨が降った。北陸ならば雪になりそうな気配だ。関東は種々の条件が揃わないと雪にはならない。

 明日の予想最高気温は10℃だという。本格的な冬の陽気を感じ始める気候になるだろう。この気温はもっと寒い季節になれば、小春日和のような感覚で捉えられるはずだ。でも少なくとも今の時点では少し脅威を伴った寒さである。

 体感はいつでも相対的なもので、暑いとか寒いとかはその前の数日との体感差に過ぎない。ゆっくり寒くなるのと、急激に冷え込むのとでは同じ気温でも印象は全く異なるのだ。

 明日は急激な変化となりそうできっと凍えるように感じることだろう。でも、そんな日が続くと今度は最高気温が二桁あることが特別のことのように感じられるようになるはずだ。