
予想最高気温の27度に達している。真夏日まではあとわずか。初夏というより、本格的な夏に近い。身体が違和感を覚えている。
日々の思いを言葉にして

最近、本を読む時間が不足している。自分の仕事を能率的にするほど、わたしの場合は読書から離れてしまう。物事をテキパキこなすことと教養を蓄えることとは違う回路が必要なようだ。
残念ながら、いまは日々の仕事をこなすことに手一杯だ。それには教養は要らない。雑念を捨てて作業をこなすことだ。今の世の中はこれが求められているから厄介だ。自分を仕事の機械にしていく。それで満足している人があまりにも多いのは不思議だ。
いまは耐える局面と心得ている。生産性という大義名分の元に犠牲になっている生き甲斐というものを取り戻す準備をしていこう。面従腹背、わたしは性格がよくないのである。
教えることの妙技は完全に答えを出さないことなのだろう。過去に影響を受けた恩師を思い返してみても、最後まで面倒を見てくれた人はいない。ある程度までナビゲートしたら、突然突き放す。結果として、やったのは自分の力だと錯覚する。学習者にそう思わせるのが本当の師匠というものだろう。
教員の中にも変に自分の力量を誇示したり、過去の成功例を並べる輩がいる。そういう必要に迫られて自己の経歴を陳述せざるを得ない人もいるから一概には言えないが、私はそこに哀れを感じる。師たるもの自らの優位を誇るべきではない。自分を越えてゆく教え子に対して満悦すべきなのだと、個人的には考える。
一つ手前で突き放し、本人の成長を見守る。そういう教師が我が理想だ。自分は程遠い。せめてそんな小説でも書いてみようか。
記憶はものに寄って出てくる。私たちの記憶力は有限なものでいつかは消え去ってしまう。ただ、それを緩やかにするにはある物質、物体を拠り所にする方法がある。思い出の品を介在させることで記憶の消滅は軽減できる。
古語で言う形見がそれに当たる。記憶のよすがになるものが形見である。考えてみれば私たちは身分証明書という小さなカードを通して、自分の名前や所属というものを記憶に定着させる。自分を証明するためのカードと考えられているが、実は逆で、カードが自分の存在を裏付けてくれる。それがなければ記憶の保持期間が過ぎてしまい、自分が何者だかわからなくなってしまうのである。
だから思い出の品を残すのは実は大切なことなのだろう。最近はものを溜め込むことにかなり消極的な意見が目立つが、ものがなければできないこともある。
具体的な話から始めて最後に結論を述べるという方法は現在ではあまり推奨されていない。まず、主張したいことを述べ、それについて論証していくという方法が良いとされているからだ。欧米の文章の多くがそのようなスタイルで書かれているので、その影響を受けた近代以降の日本の知識人の悪文章は概ねそれに習っている。私のブログの文章もその形を取るものが多い。
古典作品を読むと大抵は具体的な話や例え話が前置きなしに始まる。何の話なのか明かされないまま話が展開して、最後にだからこういうことはやってはいけない、やらなくてはならないといった教訓が加わる。結論や主張があとに出てくるのが日本の古典作品の特徴と言えるのかもしれない。論理の展開の型を知っているだけで文章の理解力が上がる。
それでは、結論後出しは時代遅れの良くないものだろうか。確かに情報が横溢する現代において、メッセージは迅速に把握する方がいいのだろう。長い具体例を目標なく読んだあとでようやく主張があるという文章を読むのには忍耐力と寛大さ、そしてもちろん読解力が必要だ。だから、結論先出しの文体が推奨されるのには意味がある。しかし、じっくりと話し自体を味わいたいときもある。また、筆者の持ち出す結論を批判的に読むには先に答えを明かされないほうがいいこともあるかもしれない。
最後まで読んでようやく筆者が言いたかったことが分かるというのは、迂遠のようだが、あるいは冷静に深く読解するためには必要な手順なのかもしれない。読者の積極的な読解が求められる方法であるので、この方法を取るにはさまざまな制約があることだけは忘れてはならないが。
自分が人生の後期を迎えていろいろと困ったことが出来しているが、最近必ずしも悪いことばかりではないのかもしれないと考えるようになった。若い読者には理解が難しいと思うが、身体機能が少しずつ、継続的に減退するのを実感するのはなかなか辛いものがある。思ったことが思ったようにできないのは、焦りを超えた恐怖が伴う。
ただ、そういうことを感じ取る機能もまた劣化している。深刻な失態を犯しても、その深刻さを認識する度合い自体が低下している。物差しが緩くなることで、実際の機能低下を甘く見積もっているというしかない。
でもこれは生きるうえでは大切なのかもしれない。最盛期の基準で戦っていたら、今の連敗は許しがたいだろう。負けを許せる能力だと考えれば今の体たらくを受容するしかない。
デクレッシェンドしていく自分の能力を優しく包むのが老化というものなのかもしれない。まだ諦めるつもりはないが私はいまの状況に合った生き方をするしかないと考えるようになっている。
NHKラジオ講座の易しい英語の講座のテキストを読むことがある。辞書なしでも読み進められるほどの読み物を読むことが多い。
読むことはできるがそれを使って書いたり話したりすることができないのはなぜなのか。そういうことをする必要がないからなのだろう。なんでもそうだが特に言語というものは必要に迫られないと身につかない。日本人が英語が苦手というのは結局、日本語である程度のことができ、生活に必要な仕事もできていたからなのだろう。外国語ができなければ収入が半減する世界に住んでいれば嫌でも話せるようになるはずだ。
私の英語力が一向に上がらないのはそういう切迫した状況にないからだ。これは大変幸せだが、同時に残念なことでもある。