怪獣はいないから

 台風、猛暑、地震と避けられない天災が連日のように襲いかかる。日本と言う国の宿命だが、なんとかならないものかと思う。

 子どもの頃、ウルトラマンの退治した怪獣を平和利用するというような話があった。その中で本当にあればいいと思ったのは冷気を吐く怪獣たちに台風の進路を変えたり、減衰させるというのがあった。本当にそのようなことができたとしたら、さぞかし有益なことだろう。

 怪獣がいない以上、夏は人間の方が身を引くしかない。8月の日中に屋外のスポーツをするのは控えたほうが良い。甲子園も朝夕の時間に分けたようだが、他の競技もなるべくそのようにするべきである。

 これからも酷暑が続くようだ。暑さによる疲労が毎日蓄積している。体調を気にしながら、なんとか凌ごうと考えている。

巨大地震注意

 日向灘沖で2024年8月8日に発生した震源の深さ30Km、最大震度6弱、マグニチュード7.1の地震は、南海トラフ巨大地震と関連付けられて気象庁がこれまでとは違う発表をした。記者会見を聞く限り、まだ完全な関係性があるというわけではなさそうだ。ただ、巨大地震への注意喚起という異例の発表は注目に値する。

 今年の元日に能登半島沖で大きな地震があったばかりであり、この国は地震を免れることができない宿命にあることを再認識させられた。2011年の東日本大震災でもそうであったが、私たちはそれを忘れることにも長けている。この国で生きる者の知恵であろうか。過度に恐れずに、なるべく日常生活を損なわないようにする。そのようにして多くの災害を乗り越えてきた。

 今回の発表は科学の成果の結果だといえる。少なくとも1週間は注意が必要であり、警戒がいらなくなる時はない。私たちはパニックを起こさないように、災害の発生時の被害を最小限に抑えるための努力を続けるしかないのだ。

冷房風邪

 少し咳が出る。冷房した室内と外気の温度差があまりに酷いために体力が落ちているのが原因かもしれない。今のところ乾燥がよくないことだけは分かった。のど飴とこまめな給水とで凌ぐしかない。

古典の読み方

 かつて古典研究の真似事をしていた身にとって、古典は学問の対象であり、しかるべき手続きを読まなければ触れてはならないものという考えがあった。しかし、いまはその考えは間違っていると思う。

 古典作品をどう読むかは読者の自由だ。ただ、それが書かれた時代の言葉や価値観を知らずに読むと、作品の伝えたいメッセージを見誤る可能性がある。だから、古典の言葉を学び、文法を学習し、背景の歴史を習得する。それはしないよりした方がいい。

 でも、それをしなければ古典は読めないわけではない。思い切り現代風に解釈し、恐らく作者の意図とはまるで異なる読みをしたとしても、本当の古典作品は耐えられるはずだ。

 もちろん、従来の文学研究は大切であり、これからもさらに継続し、深めて行く必要がある。近年、この方面が疎かになりつつあるのではないかという危惧が、私にはある。

 しかし、過去の作品を新しい視点で捉え直すことはそれと同じくらい必要だ。古典を埃の下に眠らせない。それがこの国の持つ潜在力に繋がる。古典には多様な読みがあってしかるべきだ。

オリンピックは分散開催でもいいのでは

 パリオリンピックは運営上の様々な問題を指摘されている。前回、東京大会では無観客だったために表面化しなかったが、国際試合を短期に同じ都市でやることには無理がある。オリンピックは競技を減らして、行うべきだと言うのが私の考えだ。

 伝統的な陸上競技などの競技のほかは敢えて同時期に開催する必要はない。むしろ競技ごとの特性を活かして独自の運営をすべきなのではないだろうか。

 そのように考えたもっとも大きな理由は、オリンピック開催中の停戦という不文律が全く機能していないことにある。オリンピック開催中はあらゆる戦闘を自粛しよう。そういうメッセージが発信されていない。しているのかもしれないが、成功していない。オリンピックの唯一無二の存在意義が果たされない以上、高額の経費を費やしてオリンピックを行う意味がない。

 むしろ、競技ごとに世界各地域を巡回する大会をした方がいいのではないか。スポンサーの獲得とか運営団体の経営手腕の強化など、克服すべき点は多い。でも、その方が結果的に競技のためになるのではないかと考える。

 東京大会はコロナウイルスのために限定的なサービスしかできなかった。でも、運営上の問題点は概ね解消され、他国選手にも評判がよかったと聞く。ただ、閉式後、数々の不正取引が発覚し、この大会を国民として称賛することはできない。残念だが事実である。

 様々な方面で現代オリンピックはすでに限界を超えていると言える。後付けでスポーツマンシップを付け足してもコマーシャリズムの流れからは逃れられない。ならばこの形のオリンピックは止めてもいい。

 よく言われているように、参加国が相応の参加料を支払って競技を行うにとりあえずギリシアを会場とすればいい。ギリシア国家はこの方面の負担はいらない。スタジアムの建設は参加国と寄付金の供託金で行ない、それ以上のことはしない。ギリシア以外に開催を希望する国があればそこでやるのもいい。

 いわゆるマイナースポーツだけ開催されるオリンピックには商業的な旨味はないかもしれない。でも、スポーツにとってはその方がはるかにいい。そして忘れてはならないのは平和へのメッセージだ。オリンピック開催中はあらゆる戦争、紛争を中断すること。それが発信されなくてはそもそもオリンピックをする価値はない。

死という言葉の意味

 タレントがソーシャルメディアで不用意に使った死という言葉が話題になっている。他人に死を促すこと、しかも公然とそれを発言することにどんな意味があるのかを再考させられる。

 言霊を信じていた時代、死ねということは一種の呪いであった。和歌を読むと死ぬほど愛しているといった恋愛の表現はあるが、本当の人の死は婉曲的に表現されている。それほど気を使う言葉だった。

 それがいま、人に平気で死ねという人がいる。それだけ言葉の価値が暴落してしまったということなのだろう。誰かに死ねということは、自分の存在が社会に不適合の状態にあることを漏らすようなものだ。そう言わなければいかんともしがたい現実が立ちはだかっているのだ。

 死という言葉の意味を考え直したい。身近に亡くなつた人が増え、さらに自分自身もその候補にカウントされる年齢になると、死という言葉の重みはかなり変わって感じられるのである。

盆踊りの意味

  地域の夏祭りに遭遇した。いわゆる盆踊りである。東京音頭に炭坑節、大東京音頭といった新民謡が音源を再生する形で流され、それに和太鼓数台をかぶせて打つという形だ。マツケンサンバⅡも加わっていたのは驚いた。ただしその振り付けは伝統的なもので、最後に両腕を上げる所作がそれらしい。おそらく都下のほとんどの地域が同じようなことをやっているのだろう。地域によっては荻野目洋子のダンシング・ヒーローが踊られるところもあるという。

 京都の松ヶ崎の涌泉寺で題目踊りというものを見たことがある。盆踊りのルーツと呼ばれるもので、南無妙法蓮華経の題目を唱えながら櫓の周りをまわりながら踊る素朴な踊りである。五山送り火の日に行われることからもこれが先祖送りの一連の行事として行われてきたのは確かだ。全国に広まった盆踊りにも基盤に盆行事がある。先祖の霊を迎え、ともに過ごして祭りが終わると祖霊を送る。各家庭でそのような行事が行われなくなったいまでもどこかで継承されている考え方ではないか。

 今年の陰暦7月15日は新暦では8月18日だという。猛暑続きで毎日消耗する日々だが、8月も後半になるとわずかに秋の気配が出てくるはずだ。旧暦で7月は秋の始まり、その最初の満月が中元として盂蘭盆会の行事がおこなれる日となっている。日本ではわかりやすくひと月遅らせて新暦8月15日を盆とする地域が多い。盆は多くの日本人が夏休みを取得する日であることから、里帰りした地方出身者が郷土に集う日でもある。その中で行われる盆踊りは、祖先とともに子孫たちがともに踊る晴れの日と考えられたのだろう。

 東京では盆の時期を少しずらして行われることが多い。帰省のシーズンを避けて参加者が増えることを期待したものだろう。祖霊信仰は弱いが、希薄になりがちな地域の精神的連帯を促すきっかけにはなっている。

 海外でも盆踊りのようなものが行われているところがある。マレーシアでは仏教由来の行事であるとして参加を自粛するようにとの声があったのにもかかわらず、多くの人が行事に参加した。日本のような多神教の国では宗教的制約はさほど問題にはならないが、イスラーム教徒にとっては障害を乗り越える必要がある。宗教性よりも行事のもつパワーの方が勝ったということなのだろう。

 盆踊りの本来の意味を忘れるなという人もいれば、時代とともに移り行く行事の役割を容認すべきだという声ものある。日本文化の歴史からいえばおそらく後者の考えで今後も形を変えて続いていくのだろう。マツケンサンバやダンシング・ヒーローで驚いてはいけない。なんでも取り入れ、そして時代に合わせて変えていく。それがこの国のあり方なのだから。

力の抜き方を獲得する

 熟練した人は力の抜き方が分かっているという。これはいろいろな分野においていえることで、いかにリラックスして自分の力を発揮できるのかが大事ということである。

 手業やスポーツなどの身体的なものに関してはこの考え方は分かりやすい。力みをなくしたほうがうまくいくという結果は容易に実感できる。これはものを考えるときにも言える。問題解決の方法は熟慮熟考は大切だが、それでもうまくいかないときは一度別のことを考えてみる方がいいらしい。散歩したり、ジョギングしたり、関係ないことをやるといいという。

 力を抜くというと簡単なようだが実際は結構難しい。懸命に努力しているのを止めてしまうことは難しい。現実逃避ではないかと思われてしまう。思考を中断することで必ず成果があがるとは言えないし、かえって失敗に結び付くこともある。だから練習というのは力の入れ方だけではなく、抜き方を学ぶことでもあるのだろう。

同じことがあなたにはできるのか

 観客のヤジは度を過ぎると醜いものがある。かつて球場でプロ野球を観戦しているとその類の人がいたが、周囲の目もあり、ある程度の自主規制はあった。中には別の観客から注意されることもあり、歯止めがかかることもあった。

 それと同じことをネットでやってしまうと問題が起きる。誰も止められない。匿名で言いたい放題を言って、誹謗するのは困ったことだ。言った側はそれで気が済むのかもしれないが、言われた側は深く傷つく。

 実は訴訟の対象となればソーシャルメディアの発信源の特定は可能であるらしい。匿名でも様々な方法で特定できてしまう。露見すれば民事及び刑事の処罰対象となる。言っておしまいにならないのがこの問題の根深いところだ。

 スポーツ選手に対する中傷は、敬意の欠落によるところが大きい。同じことがあなたにできるのか。冷静に考える必要がある。

子どもの可能性のために

 経済的な格差が徐々に表面化しつつある。可能性のある子どもの才能を伸ばすためにはやはり最低限の教育と体験の蓄積をサポートする必要があるかもしれない。贅沢なものでなくてもいい、日常から離れて見つめなおす経験を持たせる必要がある。

 生活環境の格差のために、日々の生活に追われる子どもがいる。日本では途上国のような児童労働は顕在化しないが、そのために苦しい生活をひそかに行っている家庭もある。そういう人たちは生活から離れて何かを考える余裕が失われるから、もって生まれた才能を発揮しにくい。その才能を伸ばすためには例えば学校以外の体験を補助する仕組みを作る必要があるだろう。

 例えば、短い時間でもいいのでスポーツや趣味の時間が確保できるような非営利のクラブ活動などもいる。その指導者が責任をもって指導を行えるように公的もしくは企業の社会貢献のシステムを応用すべきだ。こうした活動が結果的には社会全体の福祉、利益につながることをわかりやすく説明できる人が出てほしい。

 その指導者として、各方面の指導経験のある中高年を活用する方法がある。退職者のセカンド・サードキャリアとして活用する。給与は小さくともそれ以上に生き甲斐が得られるのならば、応募してくる人材はいるはずだ。経済的に恵まれないこどもたちを、生きがいに恵まれない大人たちが救うならば両者にとって有益なはずだ。

 これからの日本の経済は今までになかった可能性を引き出すことにかかっている。優秀な人材に投資するのは手っ取り早いが、それ以前にいままで見捨てられていた人材を見逃さないことも必要になる。だから、公共益としても社会福祉事業は貢献するのだ。社会的な影響力持つ人にはそういう視点を持ってほしい。