黄砂に霞む

 昨日ベイブリッジを走ったとき、横浜の街は黄砂に霞んでいた。風景全体にフィルターがかかったようだった。恐らく私の身体にも黄砂の粉が付着し、一部は体内に取り込まれたはずだ。

 そのせいだろうか。今日はアレルギー鼻炎の症状が酷い。フェキソフェナジンも点鼻薬も効かない。くしゃみと鼻水の処理とで精一杯である。ここまでの苦戦は久し振りだ。

 スギ花粉と黄砂のミックスがよろしくないのだろう。耐性がないことを痛感した私としては、負けても被害は最小限にしたい。もし勝つことができるならば。

魔女狩りの歴史が語るもの

 ヨーロッパの魔女狩りの歴史に関する新書を読んだ。背景にあるのはキリスト教における女性蔑視の思想だ。アダムとイブの話ではイブの淫乱が神の怒りを呼んだという解釈になっているらしい。だから、女には悪性があるというわけである。一方で女性は出産という神秘も持っている。女神信仰は先史時代から見られるもので文化の垣根を超える。この正と悪、神聖さと邪悪さが同居しているのが欧州の女性像だ。

 中世のキリスト教は教会の権威が王権と並ぶほどに強かった時代であり、その弊害が顕著に現れていた。女性観もその中で規定され、聖母マリアのもつ母性観と、老母の魔性が同居していたのである。キリスト教の教義が論理化されていく過程で、いわゆる二項対立の論理が際立つようになったらしい。世界を救う神がいればその反対にそれをは破壊する悪魔がいると考える。神は崇めるものであり、悪魔は徹底的に排除するべき存在だ。魔女は邪悪な存在であり悪魔の愛人である。だから、何があっても排除しなくてはならないという論理になる。近世に入ってもその考えは変わらず、欧州の各地で魔女狩りが行われ多数の高齢女性(一部若年者もそして男性も)が理不尽な拷問の果てに処刑されてきた。

 キリスト教的なものの考え方は、科学的な論理構造と相性が良かった。科学者の先祖の大半がキリスト教の聖職者であることからも分かるが、論理構造を何よりも尊重する考え方は神学の思考法と根本的には同じだ。正邪を対立するものとして二元論として捉え、その構造を突き詰めていく。

 もちろん仏教にも女性蔑視傾向は根強い。伝統的に聖職者には男性がなり、女性は血の池地獄に落ちる運命にあると考えられている。一神教的な宗教にはこの考えがある。伝統的な日本の宗教でも伊邪那美命は根の国で死神の様な存在となったと語られているから、古代の女性に対する考えは普遍的なのかもしれない。ただ、日本の場合はこうした二項対立的な思考法が徹底しなかったため、極端な女性排除は起こらなかった。

 ヨーロッパの文化の持つ極端な側面を魔女狩りの歴史は示してくれる。根本的な論理構造は現代でも変わらない。プラスが際立つと必ずその対極のマイナスも存在する。環境問題に対する考え方も理想を追うと同時に、切り捨ててしまうなにかも存在する。電気自動車を推奨する政策は、内燃エンジンの排除に直結し柔軟性がないのもこうした思考ゆえなのかもしれないと考えた。

デザインを楽しむ気持ち

 デザインの不思議というものがある。実は全く同じものでも色合いや、ちょっとした装飾があるだけで雰囲気が大きく変わる。例えばいつも使っている手帳に植物の柄のシールを貼っただけで開く回数が増えた気がする。表面的なすこしの変更でも変わるのである。

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 さらに形を変えたり、人が使いやすいような工夫を施したりすることで使い勝手は大きく変わる。このことをもう少し重視すべきだというふうに考えるようになった。

 物事の根本的技術的な改良には経験と時間とが必要だ。これはなかなか一般人が参加しにくい。しかし、出来上がったものを自分の使いやすいようにデザインすることは誰にでもできる。そういう気持ちを持っていればであるが。

 私ができるデザインとしては先程のべた装飾などの付け加える作業や、複数のものを組み合わせること、場合によってはある要素を取り除いて機能を限定してしまうこと。あるものを他のものの中に内蔵してしまうことなどがある。こういうデザインを考えることは日常を楽しく豊かにできる。

 もののデザインのことばかり書いたが、行動の仕方や考え方にもデザインができる要素がある。形はないが敢えてやり方を変えてみることだ。習慣的に行っていることを変えるのにはエネルギーが必要であり、覚悟もいる。デザインを楽しむというマインドがあればそういうことも達成できていく気がする。





常識という思考停止

 言わなくても分かるとは思わない方がいい。世の中はむしろ言っても分からないという場合の方が遥かに多い。自分の価値観が汎用的なものではないことは、よく考えれば当たり前だが、大抵その事実を忘れてしまう。

 日本人は騙されやすいそうだが、他人に騙されるだけではなく、自分を自分で騙してしまうことも多いのではないか。私が思うことは常識であり、他者は必ず同意してくれるはずだ。分からないのは相手が非常識だからだと。そんなふうに考え思考停止に陥る。

 まずは自分の思いは完全には伝わらないことを前提に考えることを確認するべきだ。自分とは異なる価値観を持った他者がいるから世界は面白いのだと考えるべきなのである。常識という思考停止に陥らないようにしたい。これはほとんど自戒である。

騙されやすい日本人

 情報に騙されやすい傾向があるという報道があった。日本人がアメリカや韓国の人々と比較してメディアに対する不信感が低いという調査結果である。

 高度情報化社会という言葉はすでに陳腐となり、使う人も少ないが情報が社会を動かす中心にあることは紛れもない事実だ。ただ、その情報には良し悪しがある。良い情報は生活を豊かになしうるが、悪い情報は日常を破壊する。そしてその区別は極めて困難であり、全く同じ顔をしているから都合が悪い。

 アメリカの人々が情報への懐疑性が高いのは常に偽情報にさらされている自覚があるからだろう。単純な詐欺情報だけではなく人工知能を駆使した巧妙なものもかなりの頻度で現れている。大統領候補者のディープフェイクで、イメージダウンを謀る方法などいまは専門家でなくても可能だという。情報には嘘があって当たり前という現実に晒されていれば考え方は変わっていく。

 日本でもその状況は全く変わらない。やはり偽情報は横溢しているし、そこには悪意も堆積している。それを見抜くこと、あるいはやり過ごすことにかけてまだ慣れていないということなのだろう。

 情報を受け入れるときには必ず異説の存在を確認する。嘘の情報なのかをその情報源に遡って考え過信しないという余裕が求められている。

 私のブログはその意味では信じるに足りない。ただ、自分の意見以外を示すときは出典をリンクするようにはしたい。自らのメディアリテラシーを保つためにも。

雨のち黄砂

 冷たい雨が降る一日だった。恐らく少し前の陽気から考えるとこれでもかなりの暖かく感じるはずだ。体感は相対的なものである。一度温かさに慣れてしまうと少しでも寒さに耐えられなくなる。

 ただ、予報によるとこの雨が止んだあとに黄砂がやってくるという。あるときは空が霞むほどの黄砂が飛来したが今年はどうなのだろう。砂漠の砂が遥かに到達するのだという。砂上に臥すとも笑うなかれのあの西域の砂である。月並みだが、地球は地続きということを痛感する。

 季節が大きく変わるときに私は人生の次のステップに踏み出しつつある。もう言い訳はしない。今ある状況の中でやるべきことをするだけだ。

生の現実

 私たちがものを見るとき、実はその対象をそのまま捉えているわけではなさそうだ。眼の前にあるものを見ながら、実は見ていないということになる。見たままを感じるというのは一種の理想としてある。いわゆる写生の論などはその延長上にある。

 しかし、私たちはやはり外界にあるものをそのまま受け入れることはできない。それは私たちには言葉というものがあるからだろう。言葉は外界の現象をあるまとまりで分けて把握する。「いぬ」といえば犬として持っている特定の性質の共通する性質をもとに区分している。それは猫ととは違うものであり、それがあるゆえに私たちは犬と猫を一瞬で見分ける。その区分になっているのは言葉で形成されたものである。言葉を覚えた瞬間から私たちは外界を言葉のフィルターを通して見ることになる。

 この様な性質上、言葉が物事の把握に大きく影響を与えていることになる。そしてその言葉とは母語であり、私にとっては日本語だ。日本語が自分の世界を作っていることになる。このブログは海外の方からもアクセスしていただいている。私は日本語でこのブログを書いているが、それは日本人の価値観とか世界観でものを捉えていることになる。日本語が持っている様々な性質を踏まえて私は世界を見ていることになるのである。

 ならば、言葉を覚える前の世界に身を置くことはできるだろうか。これはかなり難しい。言葉を覚えてしまったならば獲得以前に遡ることはできない。不可逆なのである。敢えてそれに挑戦するのが前衛芸術の世界なのだろう。生の現実とはどんなものなのか。かなり興味がある。

カラスの番

 まだ寒い日が続くがそれでも確実に季節は進行している。先日は桜のことを書いたが、動物も季節の移ろいを感じさせてくれる。メジロが盛んに飛んでくるようになったし、これまであまり聞こえなかった鳥のさえずりに木々を見上げることが増えた。そして身近な鳥としてカラスの行動がある。

 カラスは一年中いる鳥だが、この頃は番(つがい)で行動していることが多い。食べ物以外のものを加えて飛び去るのは巣材の収集であろう。調べてみるとカラスは一夫一妻制であり、その絆は深いのだという。2羽で並んで飛んでいるのはおそらく夫婦なのだろう。どちらが夫でどちらが婦なのかは分からないが。

 カラスは死肉をついばむ食性があり、不気味な印象が強い。また、都市部ではゴミ集積場を荒らす厄介な害鳥にもなる。鳥類にしては知能が発達しており、ある程度の記憶も可能で、また鳴き声によってコミュニケーションをとることもあるという。こうした性質が複合すると、不気味で侮れないというマイナスの印象が高まる。しかし、一方では神の使いとして神聖な動物として捉えられることもある。聖俗の間を大きく振れる存在なのはこの鳥の特徴である。それだけ人間の生活に密接に関係しているのかもしれない。

 カラスにとってみればひたすら生きるために行動しているのに過ぎない。「カラスの勝手でしょ」とさえ思っていない。ただそれを見ている人間がこの鳥にさまざまな意味を見出し、毀誉褒貶を与えているのに過ぎないのだ。

記憶の作るもの

 私たちが世界を感じるとき、いま見ている現実とこれまでに経験したことの記憶との複合で概念を形成している。いまを見ていながら昔のことを考えているのだ。だから、その記憶が豊かであれば、感じ取れる世界は豊かであり、貧弱なものであれば毎日がワイルドなものになる。

 そのように考えると、いかに記憶というものが大事なものかと思い至るのである。記憶の前提となるのが経験であることは言うまでもない。豊かな経験を持つということはそれだけ豊富な記憶を持っているということになる。もちろんこの経験には自分が直接体験したこともあれば、書物や映像などを通して間接的に得た体験もある。

 記憶の特徴として、多くの場合、それが身体の感覚と結びついていることである。私は雪道で転倒し、顎を痛打した経験があるのだが、危機的な状況に陥ったときにその痛みをふと思い出すことがある。全身の神経が一斉に動き出す。それはまるでその時の痛みが再現されるかのようにである。

 こうした記憶の身体性とでもいうべきものは実は大切なものだと考える。私たちは記憶するとき、その内容をそのまま受け取っているわけではない。身体の一部やその延長にある過去の経験との複合で記憶を形成する。

 豊かな記憶を作ることが人生の目的ならば若い頃には様々な経験を積ませることに全力を尽くすべきだ。勉強させさえすれば人生の道が開けると考える親がいるのならば、考えを改めた方がいい。 

芝居じみた表現

 演劇の表現には生活に応用できるものがある。芝居は限られた時間と空間の中で本当はありもしない世界をあたかもそこに存在しているかのように見せるものである。虚構であることを観客も承知しているから、嘘が堂々と演じられる。

 日常生活で舞台上の所作をそのままやるとおかしなことになる。わざとらしい行動は違和感を越えて不快感になる。何ごとも程度なのだが、ある程度は芝居じみた行動をすることが必要なこともある。

 そういうときは今は悪役を演じているときなのだ、と割り切れるといい。演じていると考えられるならば悩む必要はない。あくまで演技なのだから。

 自分という役を演じているという事実が認識できれば思いきってできることは増えるはずだ。