魔女狩りの歴史が語るもの

 ヨーロッパの魔女狩りの歴史に関する新書を読んだ。背景にあるのはキリスト教における女性蔑視の思想だ。アダムとイブの話ではイブの淫乱が神の怒りを呼んだという解釈になっているらしい。だから、女には悪性があるというわけである。一方で女性は出産という神秘も持っている。女神信仰は先史時代から見られるもので文化の垣根を超える。この正と悪、神聖さと邪悪さが同居しているのが欧州の女性像だ。

 中世のキリスト教は教会の権威が王権と並ぶほどに強かった時代であり、その弊害が顕著に現れていた。女性観もその中で規定され、聖母マリアのもつ母性観と、老母の魔性が同居していたのである。キリスト教の教義が論理化されていく過程で、いわゆる二項対立の論理が際立つようになったらしい。世界を救う神がいればその反対にそれをは破壊する悪魔がいると考える。神は崇めるものであり、悪魔は徹底的に排除するべき存在だ。魔女は邪悪な存在であり悪魔の愛人である。だから、何があっても排除しなくてはならないという論理になる。近世に入ってもその考えは変わらず、欧州の各地で魔女狩りが行われ多数の高齢女性(一部若年者もそして男性も)が理不尽な拷問の果てに処刑されてきた。

 キリスト教的なものの考え方は、科学的な論理構造と相性が良かった。科学者の先祖の大半がキリスト教の聖職者であることからも分かるが、論理構造を何よりも尊重する考え方は神学の思考法と根本的には同じだ。正邪を対立するものとして二元論として捉え、その構造を突き詰めていく。

 もちろん仏教にも女性蔑視傾向は根強い。伝統的に聖職者には男性がなり、女性は血の池地獄に落ちる運命にあると考えられている。一神教的な宗教にはこの考えがある。伝統的な日本の宗教でも伊邪那美命は根の国で死神の様な存在となったと語られているから、古代の女性に対する考えは普遍的なのかもしれない。ただ、日本の場合はこうした二項対立的な思考法が徹底しなかったため、極端な女性排除は起こらなかった。

 ヨーロッパの文化の持つ極端な側面を魔女狩りの歴史は示してくれる。根本的な論理構造は現代でも変わらない。プラスが際立つと必ずその対極のマイナスも存在する。環境問題に対する考え方も理想を追うと同時に、切り捨ててしまうなにかも存在する。電気自動車を推奨する政策は、内燃エンジンの排除に直結し柔軟性がないのもこうした思考ゆえなのかもしれないと考えた。

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