冷房風邪

 少し咳が出る。冷房した室内と外気の温度差があまりに酷いために体力が落ちているのが原因かもしれない。今のところ乾燥がよくないことだけは分かった。のど飴とこまめな給水とで凌ぐしかない。

古典の読み方

 かつて古典研究の真似事をしていた身にとって、古典は学問の対象であり、しかるべき手続きを読まなければ触れてはならないものという考えがあった。しかし、いまはその考えは間違っていると思う。

 古典作品をどう読むかは読者の自由だ。ただ、それが書かれた時代の言葉や価値観を知らずに読むと、作品の伝えたいメッセージを見誤る可能性がある。だから、古典の言葉を学び、文法を学習し、背景の歴史を習得する。それはしないよりした方がいい。

 でも、それをしなければ古典は読めないわけではない。思い切り現代風に解釈し、恐らく作者の意図とはまるで異なる読みをしたとしても、本当の古典作品は耐えられるはずだ。

 もちろん、従来の文学研究は大切であり、これからもさらに継続し、深めて行く必要がある。近年、この方面が疎かになりつつあるのではないかという危惧が、私にはある。

 しかし、過去の作品を新しい視点で捉え直すことはそれと同じくらい必要だ。古典を埃の下に眠らせない。それがこの国の持つ潜在力に繋がる。古典には多様な読みがあってしかるべきだ。

オリンピックは分散開催でもいいのでは

 パリオリンピックは運営上の様々な問題を指摘されている。前回、東京大会では無観客だったために表面化しなかったが、国際試合を短期に同じ都市でやることには無理がある。オリンピックは競技を減らして、行うべきだと言うのが私の考えだ。

 伝統的な陸上競技などの競技のほかは敢えて同時期に開催する必要はない。むしろ競技ごとの特性を活かして独自の運営をすべきなのではないだろうか。

 そのように考えたもっとも大きな理由は、オリンピック開催中の停戦という不文律が全く機能していないことにある。オリンピック開催中はあらゆる戦闘を自粛しよう。そういうメッセージが発信されていない。しているのかもしれないが、成功していない。オリンピックの唯一無二の存在意義が果たされない以上、高額の経費を費やしてオリンピックを行う意味がない。

 むしろ、競技ごとに世界各地域を巡回する大会をした方がいいのではないか。スポンサーの獲得とか運営団体の経営手腕の強化など、克服すべき点は多い。でも、その方が結果的に競技のためになるのではないかと考える。

 東京大会はコロナウイルスのために限定的なサービスしかできなかった。でも、運営上の問題点は概ね解消され、他国選手にも評判がよかったと聞く。ただ、閉式後、数々の不正取引が発覚し、この大会を国民として称賛することはできない。残念だが事実である。

 様々な方面で現代オリンピックはすでに限界を超えていると言える。後付けでスポーツマンシップを付け足してもコマーシャリズムの流れからは逃れられない。ならばこの形のオリンピックは止めてもいい。

 よく言われているように、参加国が相応の参加料を支払って競技を行うにとりあえずギリシアを会場とすればいい。ギリシア国家はこの方面の負担はいらない。スタジアムの建設は参加国と寄付金の供託金で行ない、それ以上のことはしない。ギリシア以外に開催を希望する国があればそこでやるのもいい。

 いわゆるマイナースポーツだけ開催されるオリンピックには商業的な旨味はないかもしれない。でも、スポーツにとってはその方がはるかにいい。そして忘れてはならないのは平和へのメッセージだ。オリンピック開催中はあらゆる戦争、紛争を中断すること。それが発信されなくてはそもそもオリンピックをする価値はない。

死という言葉の意味

 タレントがソーシャルメディアで不用意に使った死という言葉が話題になっている。他人に死を促すこと、しかも公然とそれを発言することにどんな意味があるのかを再考させられる。

 言霊を信じていた時代、死ねということは一種の呪いであった。和歌を読むと死ぬほど愛しているといった恋愛の表現はあるが、本当の人の死は婉曲的に表現されている。それほど気を使う言葉だった。

 それがいま、人に平気で死ねという人がいる。それだけ言葉の価値が暴落してしまったということなのだろう。誰かに死ねということは、自分の存在が社会に不適合の状態にあることを漏らすようなものだ。そう言わなければいかんともしがたい現実が立ちはだかっているのだ。

 死という言葉の意味を考え直したい。身近に亡くなつた人が増え、さらに自分自身もその候補にカウントされる年齢になると、死という言葉の重みはかなり変わって感じられるのである。

盆踊りの意味

  地域の夏祭りに遭遇した。いわゆる盆踊りである。東京音頭に炭坑節、大東京音頭といった新民謡が音源を再生する形で流され、それに和太鼓数台をかぶせて打つという形だ。マツケンサンバⅡも加わっていたのは驚いた。ただしその振り付けは伝統的なもので、最後に両腕を上げる所作がそれらしい。おそらく都下のほとんどの地域が同じようなことをやっているのだろう。地域によっては荻野目洋子のダンシング・ヒーローが踊られるところもあるという。

 京都の松ヶ崎の涌泉寺で題目踊りというものを見たことがある。盆踊りのルーツと呼ばれるもので、南無妙法蓮華経の題目を唱えながら櫓の周りをまわりながら踊る素朴な踊りである。五山送り火の日に行われることからもこれが先祖送りの一連の行事として行われてきたのは確かだ。全国に広まった盆踊りにも基盤に盆行事がある。先祖の霊を迎え、ともに過ごして祭りが終わると祖霊を送る。各家庭でそのような行事が行われなくなったいまでもどこかで継承されている考え方ではないか。

 今年の陰暦7月15日は新暦では8月18日だという。猛暑続きで毎日消耗する日々だが、8月も後半になるとわずかに秋の気配が出てくるはずだ。旧暦で7月は秋の始まり、その最初の満月が中元として盂蘭盆会の行事がおこなれる日となっている。日本ではわかりやすくひと月遅らせて新暦8月15日を盆とする地域が多い。盆は多くの日本人が夏休みを取得する日であることから、里帰りした地方出身者が郷土に集う日でもある。その中で行われる盆踊りは、祖先とともに子孫たちがともに踊る晴れの日と考えられたのだろう。

 東京では盆の時期を少しずらして行われることが多い。帰省のシーズンを避けて参加者が増えることを期待したものだろう。祖霊信仰は弱いが、希薄になりがちな地域の精神的連帯を促すきっかけにはなっている。

 海外でも盆踊りのようなものが行われているところがある。マレーシアでは仏教由来の行事であるとして参加を自粛するようにとの声があったのにもかかわらず、多くの人が行事に参加した。日本のような多神教の国では宗教的制約はさほど問題にはならないが、イスラーム教徒にとっては障害を乗り越える必要がある。宗教性よりも行事のもつパワーの方が勝ったということなのだろう。

 盆踊りの本来の意味を忘れるなという人もいれば、時代とともに移り行く行事の役割を容認すべきだという声ものある。日本文化の歴史からいえばおそらく後者の考えで今後も形を変えて続いていくのだろう。マツケンサンバやダンシング・ヒーローで驚いてはいけない。なんでも取り入れ、そして時代に合わせて変えていく。それがこの国のあり方なのだから。

力の抜き方を獲得する

 熟練した人は力の抜き方が分かっているという。これはいろいろな分野においていえることで、いかにリラックスして自分の力を発揮できるのかが大事ということである。

 手業やスポーツなどの身体的なものに関してはこの考え方は分かりやすい。力みをなくしたほうがうまくいくという結果は容易に実感できる。これはものを考えるときにも言える。問題解決の方法は熟慮熟考は大切だが、それでもうまくいかないときは一度別のことを考えてみる方がいいらしい。散歩したり、ジョギングしたり、関係ないことをやるといいという。

 力を抜くというと簡単なようだが実際は結構難しい。懸命に努力しているのを止めてしまうことは難しい。現実逃避ではないかと思われてしまう。思考を中断することで必ず成果があがるとは言えないし、かえって失敗に結び付くこともある。だから練習というのは力の入れ方だけではなく、抜き方を学ぶことでもあるのだろう。

同じことがあなたにはできるのか

 観客のヤジは度を過ぎると醜いものがある。かつて球場でプロ野球を観戦しているとその類の人がいたが、周囲の目もあり、ある程度の自主規制はあった。中には別の観客から注意されることもあり、歯止めがかかることもあった。

 それと同じことをネットでやってしまうと問題が起きる。誰も止められない。匿名で言いたい放題を言って、誹謗するのは困ったことだ。言った側はそれで気が済むのかもしれないが、言われた側は深く傷つく。

 実は訴訟の対象となればソーシャルメディアの発信源の特定は可能であるらしい。匿名でも様々な方法で特定できてしまう。露見すれば民事及び刑事の処罰対象となる。言っておしまいにならないのがこの問題の根深いところだ。

 スポーツ選手に対する中傷は、敬意の欠落によるところが大きい。同じことがあなたにできるのか。冷静に考える必要がある。

子どもの可能性のために

 経済的な格差が徐々に表面化しつつある。可能性のある子どもの才能を伸ばすためにはやはり最低限の教育と体験の蓄積をサポートする必要があるかもしれない。贅沢なものでなくてもいい、日常から離れて見つめなおす経験を持たせる必要がある。

 生活環境の格差のために、日々の生活に追われる子どもがいる。日本では途上国のような児童労働は顕在化しないが、そのために苦しい生活をひそかに行っている家庭もある。そういう人たちは生活から離れて何かを考える余裕が失われるから、もって生まれた才能を発揮しにくい。その才能を伸ばすためには例えば学校以外の体験を補助する仕組みを作る必要があるだろう。

 例えば、短い時間でもいいのでスポーツや趣味の時間が確保できるような非営利のクラブ活動などもいる。その指導者が責任をもって指導を行えるように公的もしくは企業の社会貢献のシステムを応用すべきだ。こうした活動が結果的には社会全体の福祉、利益につながることをわかりやすく説明できる人が出てほしい。

 その指導者として、各方面の指導経験のある中高年を活用する方法がある。退職者のセカンド・サードキャリアとして活用する。給与は小さくともそれ以上に生き甲斐が得られるのならば、応募してくる人材はいるはずだ。経済的に恵まれないこどもたちを、生きがいに恵まれない大人たちが救うならば両者にとって有益なはずだ。

 これからの日本の経済は今までになかった可能性を引き出すことにかかっている。優秀な人材に投資するのは手っ取り早いが、それ以前にいままで見捨てられていた人材を見逃さないことも必要になる。だから、公共益としても社会福祉事業は貢献するのだ。社会的な影響力持つ人にはそういう視点を持ってほしい。

言葉の力

 パリオリンピックで体操男子団体で金メダルを獲った日本チームを支えた萱和磨主将の鼓舞の言葉が大きく報じられている。日本のエースの橋本大輝選手が鞍馬種目で失敗したとき、すかさず駆け寄り「絶対あきらめるな」と何度も鼓舞すると、橋本選手や他の選手も一層の団結を固め、勝利に向かう強い気持ちを高めることができていた。

 ほとんど実力差がない中国のチームとの勝敗を分けるのはミスをしないこと。しかし、そのためには強い気持ちでいかなくてはならない。その気持ちを言葉によって支えたのが主将をはじめとした選手同士の声の掛け合いであった。中継にもその一部が収録されており、こういう状況での言葉の力というものを再確認した。

「あきらめない」という言葉にどこか素直になれない昨今の風潮の中で、今回のエピソードは大きなメッセージとなった。懸命に努力することを軽視しない姿勢は多くの人に感銘を与えたに相違ない。それを支えた鼓舞の言葉を覚えておきたい。


読解力を身につける方法

 文部科学省が今年4月に実施した2024年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果を公表した。中学校の国語の平均正答率が過去最低の成績になったという。数値にどれほどの意味があるのかは疑問がある。テストの正答率とか偏差値を教育関係者は使いたがるが、数学的な意味は果たしてあるのだろうか。テストの内容も母集団も違うものを比べても参考程度にしかならないと思っている。数学に詳しい方にはご教示いただきたい。

 最低かどうかは分からないが、読解力の低下は経験的に気になることがあることは確かだ。その原因が読書量の低下や、デジタルデバイスの長すぎる使用時間、短時間で答えを求めすぎるテストの増加などにより、子どもたちがしっかりと読み取ることをしなくなったことにあるのではないか。これも科学的な根拠があるわけではないが、可能性が高い仮説であるとは考える。

 読解力を身につけるためにはどうすればいいのか。一般的に読書をすればいいといわれるが、そもそも読解力のない人は読書をしない。日頃走ることがない人に速く走るためにはとにかく走れというのと同じような気がする。まず柔軟体操をし、ジョギングをして徐々に体を作っていく。そういうランニングと同じように読解力を身につけるためにはどうすればいいのか。

 私はまず読む前に語彙力を増やすことが必要だと考える。いわゆる書き言葉(文章言葉)で用いられる言葉は、意識的に読まなくては身につかない。新聞のコラムや、軽めの文化的な記事などを読むことで文章言葉を身につけることをしていくのがいいと考える。短い文章で行うべきだ。

 次に、それらの記事の内容を文章言葉で簡単にまとめる練習をしていく。要約というとハードルが高いが、そこまでまとめなくてもいいのでどんな内容なのかを書くといい。これによって文章の大意を掴む方法を身につけていくといい。メモ帳などに数行でまとめると達成感も生まれる。

 次は、これは誰でもできるとは限らないが、読んだ内容を他人に話すことにあると考える。読んだ内容を他人に伝えることで内容の整理ができる。他の人の話を聞けば自分が気付かなかった内容を知ることもできる。読解力は最終的には他人の考えを読み取ることにあるのだから、一人で完結する学習法よりは複数で行った方がいい。これは学校教育が最も効果的に行える段階だ。

 次は、自分で読んだ内容を記録していくことだろう。書評までいかなくてもいい。簡単な読書感想文で構わない。それをとにかくためていくのがいい。インターネットの読書記録サイトも有益だ。私の場合はブクログという読書記録サイトを使用しているが、こういうサービスを利用して読書をする励みにすることは大切だろう。

 入試の現代文のテストは読書量がなくても高得点を取る人がいる。いわゆるテストの答え方にはコツがあり、博学な知識は必ずしも必要ではない。出題形式も型があるので、それらを覚えていけばある程度通用する。このようなテストで点を取ることを読解力と考えるのならば、入試参考書を繰り返し学ぶ方がいいだろう。私としてはあまりお勧めしないが。

 読解力の低下は個人の読書経験の減少という問題が大きいが、そもそも読書にさほどの価値を見出さなくなった現今の風潮も大きく影響を与えていると考えられる。検索によって断片的な知識を得られればよいとか、生成AIが導く答えで満足しているとますます読解力を得る機会は減っていかざるを得ないだろう。残念ながら世の中の動きは人の読解力を奪う方に流れている。だからせめて初等中等教育では読解力の基礎を固めることに注力していくべきだと考えるのだ。