古典のコラージュ

 『万葉集』のような和歌集の場合、一首ずつが独立して作品世界を持っている。もちろん、それがどのようにできたのか、どのように読まれてきたかのかを知る必要がある。これが伝統的な古典の研究だろう。これは揺るがない。ただ、それぞれの歌の持つ世界観をうまく組み合わせて新しい読み方をすることもできる。それが古典の持つ懐の深さなのだろう。

 時代も場所も全く違う歌を組み合わせて、一連の世界を作り出すことを研究者は間違いだと断ずる。同じ作品に収められているというだけで同じ地平に位置付けるのはおかしいということだろう。そのとおりであると私も思う。ただ、それがあくまで古典研究という枠内のことであって、文学の創作という別の視点を持ち込むと意味が変わってくる。それぞれの作品がもつ背景を巧妙に重ね合わせることで新しい何かが生まれることもある。古い素材をうまく組み合わせると、素晴らしいデザインになるのと似ている。

 和歌や俳句といった短詩形文学はそれをやりやすい。もともとそれらにはより古い作品を取り込んで作るという考え方が内在しているので、他作品と組み合わせることは不自然にはならない。古典文学なり、過去の芸術なりをうまく組み合わせて独自の世界を作り出すことには可能性がある。深い伝統を持っている日本の場合、その資源はかなり多いといえる。

 新しいものを作り出すためには、あえて古いものへの再評価をすることも大事ではないか。いままでも古典をモチーフにした現代の芸術は数多いが、意識的に古典を活用するということをもっと行ってもいい。それで古典作品が傷つくことはないし、むしろ理解が深まる可能性の方が大きい。だから、古典のコラージュとでもいうべきものがもっとあってもいいような気がする。

台風が来る前に

 ニュースでは台風が勢力を保ちなから接近していると報じている。どれほどの被害が出るのか分からないという。私は早々に予定を切り上げてしまった。するとやることがない。警戒するにこしたことはないが、何か今日は台風に奪われてしまった気がしてならない。そういう日もあつていいか。むしろ、天の与えた空白と考えることにしよう。

終戦記念日に思うこと、今何ができるのか

 終戦記念日である。79年も前に日本が連合国との戦争に降伏した。人の一生涯ほどの長さの年月が流れ、戦争を体験した人は年々少なくなっている。亡父でさえ終戦時には小学生であり、その時の体験はあまり話さなかった。目前で焼夷弾が炸裂したときの恐怖を何度か聞いたことがある。原爆の標的候補だった町で育った父が生き残ったのはある意味偶然であった。

平和への祈り

 私も当時の感覚で言えば老齢の域にあるというのに、戦争体験という点においては皆無であり、父以上に戦争について語れることは少ない。日本が平和である限り今後ますます戦争とは何かが分からなくなり、観念的になっていくはずだ。それは当然のことであり、そうでなければならないことでもある。ただ、戦争が実感のないものになると誤った道に進む確率も上がる。国際摩擦を武力によって解決しようとする者が必ず出てくる。現に世界中の各地でそれが起きている。

 戦争の恐怖と悲惨さ、無意味さをどのように伝えていけばいいのだろうか。核兵器はいうに及ばず、それ以外の手段でも戦争において多数の人を殺害する技術は年々高まっている。遠方からミサイルを撃ち合い、無人機でピンポイントの攻撃をする。病原菌を拡散し、地雷を瞬時に敷設して人の住めない大地にしてしまう。それらがリアルに起きる可能性がある時代になってしまった。

 戦争で勝ち取った領土や資源は、侵略された側からすれば恨みの対象となり、いつか再び所有権の強奪がなされることになる。その時、その場所に住むわずかな人々の利益のために、広範の地域の住民が犠牲になる。場合によっては地球そのものが傷ついてしまう。

 終戦記念日があることがせめてもの救いかもしれない。この国が経験した悲惨な経験や、加害者として多くの人たちを傷つけ、自らも傷ついてきたことを思い返すきっかけにはなる。焼夷弾を怖がった父の話だけでも伝えることができたなら、私が曇天のため原爆を投下されなかった町に住んでいた小学生の子どもであることを伝えられたら、少しは役に立つのかもしれない。

風景の中に感じ取るもの

 風景の中に人情を感じ取ることは詩人だけの特権ではない。誰でもそれはできるのであって、心の中にしみじみと広がる感慨を覚えるのである。ただ詩人と違ってそれを言葉にできないため、感覚はたちまちのうちに移ろい保存することができない。優れた詩歌に接するとその時浮かんだ瞬間の感覚を再現してくれる。だから感動を覚えることがあるのだろう。

 自然をどのように描くのかは積年の伝統があり、それに則ればある程度は達成できる。しかし、いつでも同じ表現では新鮮味に欠けるだけではなく、その時のほかとは交換不可能な心情を表現することができない。だから詩人は新しい表現に挑戦する。あまりにも的から離れたものであると理解ができないので、この挑戦は必ずしもいつも成功はしない。それが詩作というものなのだろう。

 風景画も同じように見ることができる。ただ光学的に変換して風景を切り取っているだけではない。そこに明らかに画家の解釈が介入し、その中にはしばしば風景にまつわる人生が隠されている。自然を描きながら、実は描いているのは画家自身の心理であり、周囲の人々との交流の中から生まれた心の在り方なのだろう。

 私たちの日常は分かりやすく効率的にという暗黙のルールに支配されている。だから考えなくては何を表現しているのかわからないのは悪例となってしまう。しかし、場合によってはそのような悪を侵さなくては世界をつかむことができなくなってしまうのだろう。その試みに触れることが芸術を見るということだと考えている。難解な作品に出合うたびに、その真意を考えてみる。理解には届かなくても少なくとも考える時間を持つこと。それが貴重な体験となる。

 風景の中に何を読み取るのか。それも私たちが長年行ってきた芸術鑑賞の方法である。田園風景の中に隠れた孤独、都市の景観に隠された狂気、広大な山水、怒涛に何を感じるのか。まずは自分がそれを意識することが大切だ。言葉にできなくても、絵に描けなくてもまずは読み取ることをしてみようと思う。

小さな感動

 私は昔からいろいろな言い訳をしてきた。だからこれもその一つである。ただ、これから私の年齢に達する人たちには聞いていただきたい。老いの繰り言と聞き流していただければそれでいい。

 恥ずかしながら、いま私は小説や脚本を書こうと思っている。しかし、これがなかなか進まない。その原因の一つが感動できないことにある。感性の鈍化と言うのが近いのかもしれない。

 詰まらないことに感動することは若者の特権だ。ただそれがつまらないなどと誰が決めたのだろう。それこそが老いのもたらす弊害だ。感動することはいくらでもあるのに、それを予め過去の経験と照合して類型化してしまう。その結果、目の前にある出来事をそのまま受け取ることなく様々な測定値のもとに数値化してしまうのだ。

 創作にとって必要なのは小さな感動の積み重ねだと私は思う。それがあるからこそいままでにない世界が創れる。それを過去の経験にいちいち照らし合わせてマッピングするのは世の中には測定できないものはないといっているのと近い。

 私が感動できるものの範囲は年々狭まっている気がしてならない。恐らくいまの安定的な境遇が崩されるときがいい機会だと思っている。思春期ならぬ思秋期もしくは思冬期は創作の機会としては意味がある。小さな感動を敢えて過去の出来事と結びつけない。それでいろいろな創作ができそうだ。

心の瞳で君を見つめれば

 この時期になると坂本九の「心の瞳」を聞き直す。日航機の事故により、歌手としての絶頂期に急死した坂本九は、子どもの私にとっても本物と思えたエンターテイナーだった。明るく優しい人柄は歌からもトークからも感じられた。人形劇、八犬伝のナレーターとしても憧れの人物だった。

 「心の瞳」は事故の数ヶ月前に発表され、テレビ放送では歌われたことがないようだ。ただラジオ番組ではこの事故の直前に収録されたものの中で歌唱している。動画サイトでそれを聴くことができる。

心の瞳、最後の歌唱

 優しい歌詞、歌いやすくしかも感情移入しやすいメロディと、坂本九の声が見事にマッチした名曲だ。

 その後この曲は合唱曲に編曲されて中高生を中心とした世代に歌い継がれてきた。その世代が歌うと歌詞の意味が多少変わるがそれでも不自然さはない。むしろ新しい意味合いで再評価される。

 坂本さんがもう少し歌手として活躍していればもっと大きなことをなさったはずだと思うと痛切な気分になる。この歌を私も口ずさむことはあるが、様々な思いがそこには挟まってくる。

冗長を厭わず、嫌悪を嫌わず

 冗長を嫌わず、とにかく思うことを綴ること。それが私の最近の方針である。どうも昔のように整理してから発信するという芸当ができなくなってきた。昔はそういう無駄なことをする輩を嫌ってきた。しかし、今はそういういう余裕がないことに直面している。若い人にはひそかに聞いてほしいことである。

 科学的ではないが、加齢の弊害の一つに短期記憶の低下というものがある。昔は何ともなかった記憶のポケットがとても小さくなってくることを痛感する。これは少しずつ着実に進むから具合が悪い。行ってみれば短期間の記憶喪失が頻発するということなのだ。これは脳科学者ならば適切な説明ができるはずだ。

 とても残念なことにこの現象は多岐にたわって様々な問題を起こす。私たちの生活の大半は短期記憶に支えられており、それで人生の大半を乗り切っている。その最も基本的な能力を奪われてしまうと、打つ手はなくなっていくのだ。

 そんなことは例えば特殊な病に侵された人だけの話だと思う若者は多いだろう。私もそうだった。残念ながらこれはほぼすべての人が味わう老化現象なのだ。このことを伝えなくてはならない。言いたいことは本人の意思に関わらず、加齢により脳の老化は確実に起こり、その一つに短期記憶の低下があるということだ。私自身が大変悔しく感じていることの一つだが、これはどうしようもない。

 前置きが非常に長くなったが、短期記憶衰退のわかりやすい現象の一つとして話の冗長性がある。さっき同じ話をしただろうと聞き手は思うかもしれない。しかし、高齢の話し手はすでにさっき話したことは忘れているのだ。そのことを若い世代は理解できないかもしれない。単に耳が痛い話を永遠に繰り返す嫌味な奴だと思うかもしれない。

 高齢の助言者は無視していいのか。少なくてもこの国で生きていく以上は先輩の発言は無視しえない。科学的根拠は劣ることがあっても、経験的な正当性は高く。それを参考にしない手はない。先輩はやはり立てるべきなのだ。ただ。盲従する必要はない。皆さんが手本としている先輩は日本の歴史という尺度で考えれば、ごく最近の学習者に過ぎない。そこから役に立つすべての情報を引き出せるはずがない。

 その上で言いたい。あなたの近くにいる目標とすべき先輩の存在が無意味なのかといえば、それは違うといいたい。人生は思った通りには全くいかない。様々な条件がそろっていてもうまくいくとは限らない。私たちの人生が偶然に満ちたものであることは過去の歴史から容易に推測できる。

結果よりエピソードを

 

 オリンピックでも他の試合でもそうだが、私の場合は結果よりそこに至るまでのエピソードの方が気になる。求めているのはいかに試合にたどり着いたかであり、結果はその経過には及ばないと考えてしまう。

 スポーツを見せるときには、このことを考えた方がいい。テクノロジーでよりわかりやすい映像を作成するのはそれはそれで大事だが、選手の内面に迫るエピソードを紹介するともっといい報道になるかもしれない。

 こう考えると私はスポーツに人間らしい何かを見つけ出そうとしているのかもしれない。

怪獣はいないから

 台風、猛暑、地震と避けられない天災が連日のように襲いかかる。日本と言う国の宿命だが、なんとかならないものかと思う。

 子どもの頃、ウルトラマンの退治した怪獣を平和利用するというような話があった。その中で本当にあればいいと思ったのは冷気を吐く怪獣たちに台風の進路を変えたり、減衰させるというのがあった。本当にそのようなことができたとしたら、さぞかし有益なことだろう。

 怪獣がいない以上、夏は人間の方が身を引くしかない。8月の日中に屋外のスポーツをするのは控えたほうが良い。甲子園も朝夕の時間に分けたようだが、他の競技もなるべくそのようにするべきである。

 これからも酷暑が続くようだ。暑さによる疲労が毎日蓄積している。体調を気にしながら、なんとか凌ごうと考えている。

巨大地震注意

 日向灘沖で2024年8月8日に発生した震源の深さ30Km、最大震度6弱、マグニチュード7.1の地震は、南海トラフ巨大地震と関連付けられて気象庁がこれまでとは違う発表をした。記者会見を聞く限り、まだ完全な関係性があるというわけではなさそうだ。ただ、巨大地震への注意喚起という異例の発表は注目に値する。

 今年の元日に能登半島沖で大きな地震があったばかりであり、この国は地震を免れることができない宿命にあることを再認識させられた。2011年の東日本大震災でもそうであったが、私たちはそれを忘れることにも長けている。この国で生きる者の知恵であろうか。過度に恐れずに、なるべく日常生活を損なわないようにする。そのようにして多くの災害を乗り越えてきた。

 今回の発表は科学の成果の結果だといえる。少なくとも1週間は注意が必要であり、警戒がいらなくなる時はない。私たちはパニックを起こさないように、災害の発生時の被害を最小限に抑えるための努力を続けるしかないのだ。