駅弁の魅力

 時々近隣のスーパーで駅弁が売っている日がある。しかし、そこに行かなくては食べられないというのが駅弁の魅力だろう。

 新幹線が走り、車内販売をやめたことから駅弁を食べられる環境はかなり厳しくなった。機関車を増結するための停車時間を利用した。横川の釜飯などは、初めて見たときにはよくも短時間で売り切るものだと感心した。いまは新幹線が知らない間に走り抜けるので、駅弁としてホームで際どく買う釜飯の醍醐味はない。

 それでも全国にはいろいろな工夫を凝らした駅弁がある。その心意気を楽しみたい。旅することが少なくなったこの頃ではあるけれども。

とにかく書くこと

 自分の考えをなんでも書き出すといいという意見に時々出会う。私にとってのこのブログなどはその目的で続けている。質より量というか、継続である。自分で言うのもむなしいが、ほとんどがどうでもいい記事である。ただ、私の場合は毎日何とか続いているので、過去にこのようなことを考えていたんだということを思い出すよすがにはなる。

 これは悪いことではないらしい。私たちの思考は言葉によってなされるが、それがまとまった文章になって初めて思考というものが形成されるようだ。あれこれ思っていても形にしなくては定着しない。だから、無理やりにでも言葉にすることには価値があるというのだ。思いつくまではもやもやとして何も始まらないが、ノートにメモしたり、キーボードをたたき始めると意外にも次から次へと言葉がつながることがある。これは言葉のもっている文法というか自然の流れというものが、思考を育てる手助けをしてくれるからなのかもしれない。

AIが生成したイメージ

 作家とか文筆業の人の中に多作の人がいるが、この最初の思い切りができる人なのだと思う。あいまいでゴールが見えていないのに、書き始めると自然に次の道が見えてくる。それが達人の技なのだろう。とにかく行ってみるのが冒険家だという話をどこかで聞いたが、文章家もそれに近いものがあるのだろう。もちろん、いろいろと調べたり、経験を積んだりすることが必要なことは言うまでもない。それがなければ語る内容が薄くなるはずだ。でも、経験豊富であれば文章が書けるというものでもない。やはり最初の一歩を踏み出す勇気があるかどうかなのだと思う。

 とにかく書くことが大切なのだが、日々を忙しく過ごすうちに日常の路線から少しでもはみ出ることにためらいを感じてしまう。それが新しい考えをすることを拒み、日常の繰り返しに甘んじることにつながっているのだろう。これは加齢もある。年齢を重ねることは経験を豊かにするが、同時に失敗を恐れる臆病さも獲得してしまうのだ。なんでも思いついたことを書くノートは常にカバンの中にあるが、最近何も書けないことが多い。もう一度考え方を改めて、最初の一歩をたくさん踏み出したい。このブログもそのための一つだ。

Jリーグ入れ替え悲喜こもごも

 J1リーグは神戸の優勝で終わった。天皇杯との2冠であり、昨年からの連覇でもある。初昇格で3位になった町田はいろいろな話題もあったが、批判する人の多くは初昇格のチームがこんなに強いはずがないという焦りが感じられた。他チームでも普通にやっているロングスローへの批判などはサッカー観戦初心者への訴求力はあった。資金力と指導者の個性があれば何とかなるということを町田は示したと言える。

 野球と違うのはリーグの昇降格があるということだ。リーグが変わると収入見込みが大きく変わる。本拠地の運営に危機感がある札幌などは正念場であろう。J2は集客に格差があるようで、うまくやっているクラブもある。不景気の中でいかに地元のサポーターを獲得できるかが鍵になる。昇格プレーオフで最後の一枚を掴んだ富山が来年いかに戦うのか注目したい。ただ、私の近隣には所属するクラブがなく応援に行くのは大変だ。

 J3リーグはプロとしては限界のクラブもあり、苦しい経営の中で戦っている。かつて町田が属していたときに注目していたが、チーム事情はさまざまである。ただ、不安定な状況の中で戦っている選手の純粋さには心惹かれる。そして、来年の今ごろにはこのリーグから昇格するクラブが3つもあるのだ。ライセンス問題はあるが。

 J3リーグ降格という制度は過酷だ。せめて入れ替え戦必須にすればいいのにと思うが、J3リーグを目指すクラブにとっては扉が開かれたということなのだろう。今年は2つのクラブが降格する。結果を出さなくてはならないのがプロスポーツの厳しさだ。ただ、結果に関わらず応援したいと思えるクラブがどれだけできるのか。それが大切なのだろう。

選挙ビジネス

 選挙がビジネスになっていることについては少なからぬ国民が危惧していると思う。兵庫県知事選挙で公職選挙法違反があったか否かが報じられているが、その候補者を後方支援した者が展開する選挙ビジネスは民主主義の盲点を突くものだ。今のところはその程度で済んでいるが、最後には民主主義を破壊するのではないか心配になる。

 そもそも、国民の代表を選ぶべき選挙はその制度上、一定の良識を有する者が運営するものと考えられてきた。ところが、最近は規則の範囲であれば何でもしていいという風潮がある。非常識というよりは反社会的と言える行動をして憚らない者が出ている。

 残念ながら彼らに一定の支持をし、投票する有権者がいる。彼らの活動源は実は税金であり、選挙というビジネスをしていることを分かっているのだろうか。

 いかなる政策を目指そうが個人の自由であるが、それを金儲けの道具にしはてはならない。表向きは政策を語りながら、実はしたたかに蓄財している者がいることを見逃すべきではない。

図鑑をみていたころ

 子供の頃、図鑑を見るのが好きだった。特に昆虫や鳥類、気象、地学、天文の分野は好きで図鑑は文字通り穴が開くほど読んだ。深い意味は理解できなかったが。私が子どもだったころは高度経済成長期であり、科学技術がすべてを解決するという風潮があった。それとともに、さまざまな公害が発生し多くの悲劇を生んだ時代だ。

 知識が世の中をよくすると単純に信じられたのが私の子ども時代だ。それが多くの矛盾に直面して考え方を変えざるを得ない局面があった。ただそれがいまは通じない。人工知能に代表される高度なテクノロジー白旗を揚げて恥じない人が多数になってしまったのだ。

 図鑑をみていた頃の自分は世界の現状をひたすら受け入れ、その意味を丸暗記しようとしていた。それは大切なことなのだろうがその段階では現状への批判精神は生まれない。それができるのはもう少し上の年齢なのだろう。

 考えてみれば、今の私の知識の分類方法は子どもの頃にお世話になった図鑑の方法と似ている。意味の分節の仕方は実は幼年期に基礎学習を済ませていた。それは人生における思考活動の物差しを得たということである。その意味で幼年期の読書は意味が大きいと言える。

 謙虚な気持ちを忘れてはならない。ただ、いわゆる盲従にならないようにしなければなるまい。世界を測る物差しは時代ごとに変わる。自分が見ている風景が、支配する階層が変わればまた全く違うものになる。図鑑を見て喜んでいた時代から少し成長した者が考えることである。

昭和は良かったわけではなく

 数日前に立ち寄ったレストランで流れていた音楽がまるで昭和歌謡ばかりだった。演歌ではなく、いわゆるシティポップの類だ。楽曲は現在のものに比べるとシンプルであるが、メロディーラインがなんとも言えないよさがある。歌い手の歌唱力も要求されるものが多い。

 音楽に限らず、古き良き時代として昭和末期が取り上げられることがふえた。若い世代にとってはすでに歴史時代なのだから、かえって物珍しくものによっては魅力的なのだろう。

 ただ、その時代が理想的であったかと言われれば否としかいいようがない。バブル崩壊後の経済停滞はこの時期に路線が決まったし、様々な社会問題が湧き上がり、それを解決しないまま前進することがよいこととされた。多くの人が傷つき、その手当の手段も疎かだったというしかない。

 現在と違うのは何もかも知っているふりをする人が少なかったことかもしれない。インターネット普及以前、知識は一部の人、もしくは集団に独占され、門外漢は何も発言できなかったのだ。専門的知見が一部の有識者に独占されているのは今も変わらないが、ネット検索によって、知ったかぶりができるようになった。口先だけで批判をする者が発生したのが現代の特徴だ。

 行き先をよく知らされないまま、とにかく進めと追い立てられていたのが昭和時代だったと言える。働けば何とかなると信じていた楽観性は急速に失われたが、諦めることもない。現代人は現状を情報機器の助けを借り、人工知能の助けも借りて自分の力であるきだす必要がある。懐古趣味はほどほどにしなければなるまい。

韓国で戒厳令?

 韓国で一時戒厳令が出たというニュースに驚愕した。ユンソンニョル大統領の支持率が低下していることは報じられていたが、国会と捻じれ現象にある政権が運用困難になっていることの証だろう。

 韓国の政権交代は非常に激しく過酷だ。大統領はその末期に悲劇的結末を迎える。先のムン大統領は今のところ無事のようだが、歴代大統領の人生を調べると信じられないほど残酷である。白黒をはっきりとつける国民性も影響しているのかもしれない。今回の記事の戒厳令も切羽詰まった末の決断だろう。

 日本と決定的に違うのは戦乱がすぐ隣にあることだろう。世界的にみても対立する国家が有数の経済力や未知数の軍事力を有し、かつ対立を続けているところは少ない。日本は戦争による解決という選択肢を捨てた国だが、隣国の情勢次第では方針を変えなくてはならなくなる。まずは大韓民国が安定し、他国から付け込まれることのないようにしていただきたい。

 古代からの戦術に離間の計なるものがある。仲間同士の争いを誘発し、国力を落とし、その間に他国から攻め落とすというものだ。基本的な戦略であるのにも関わらず、これに見事に引っかかってしまう。朝鮮半島の歴史には何度も繰り返されたはずだ。もちろん日本の歴史にも枚挙にいとまがない。

 国のために政策を争うのは大いに結構だが、その度が過ぎて国益を損じることがないように祈るばかりだ。

タイヤ交換

 降雪地域に住んでいた頃はこの頃にタイヤ交換をした。実際はもう少し早い方がよかったと思うが、師走に入ってようやく手をつけたという年が多かった。スタッドレスと呼ばれる冬用タイヤは雪道や凍結した路面を走行するのに不可欠であり、私のような雪国ネイティブでない者にとっては命綱のようなものだった。

 ガソリンスタンドでも交換してもらえるが、その手間賃を払うのもケチっていた私は自分で取り替えた。最初の数年は時間がかかったが、その後は要領を得て速くできるようになった。そうは言っても寒空の中で白い息を吐きながら行う作業には抵抗があってなかなか着手しなかったのはそれが原因だった。遅くなるほど寒くなるのだが。

 本格的な降雪は数日のことで大抵は融雪装置で半ば解かされたシャーベット状の路面を走った。通勤の必要性からとは言え、よくもあのような不安定な道を走ったものだ。

 いまでもたまに運転はしているが雪道走行はできればしたくない。そんなことが言えるのは関東に住んでいるからだろうが。この時期になるとタイヤ交換のことをふと思い出す。

歌舞伎が好きだった旧友の訃報に接して

 旧友の訃報に接した。大学で知り合った彼は京都出身で多くの京都人がそうであるように東京の大学に来てからも方言を改めることはなかった。日常に京都方言に接していると、なぜか多数派であるはずの関東者が、一人のために方言に巻き込まれてしまう。

 彼の変わっていたのは大の歌舞伎好きだということだった。時々奇声を発したかと思えば歌舞伎役者の所作を演じていた。こんなことをする人はそれまでの私の周りにはいなかったので最初は驚いた。大学では歌舞伎研究会というサークルに入っていた。彼のほかに歌舞伎の身ぶりをする同級生をその後知ることになった。

 私とは色々な意味では正反対の彼だがなぜか気はあった。週に一度か二度あった大学付近での安い居酒屋の飲み会でしばしば一緒になった。今の学生は酒を飲まないそうだが、私の頃は居酒屋こそが交流の場であった。

 卒業後、彼は趣味をそのまま職業にして国立劇場の職員になった。本物であったのだ。大学院に何となく進んでしまった私はあてもなく図書館の住人というか地縛霊のような者に成り果てていたが、ある時彼が現れて調べて欲しいことがあるという。それは国立劇場で仮名手本忠臣蔵を通しで演ることになったが、暫く演じられなかった建長寺の場に掛かっている掛軸に何と書いてあるのか調べて欲しいというのだ。そして前回の公演の舞台写真を見せてくれた。

 これが不鮮明なモノクロ写真で掛軸の字も癖のある草仮名だった。何とか部分的に読み取って、国歌大観などで検索しても一向に出てこない。当時の私は根気もあったし、何よりも時間が十分にあった。恐らく和歌だろうと見当をつけ、しかも歌舞伎の舞台にかかるくらいだから有名人の作であろうと当てをつけ探し続けたところ、一休宗純の作という和歌に極めて似ていることが分かった。そこで彼にそのことを伝えたらありがとうと言って、それが正解だったのか否かを教えてもらえなかった。代わりに国立劇場の忠臣蔵公演の招待券を貰った。調べた場面ではなかったので私の努力が報われたのか、大間違いだったのかはついに分からない。鬼籍に入ってしまったのなら、答え合わせはこちらからその世界に入るまで分からない。

 彼は気さくな変わり者だったが、礼儀正しく常識もあった。京都に行くときの一泊500円という超破格な宿を教えてくれたのも彼だ。その後ソーシャルメディアで彼の情報に接することもあったが何もせずに過ごしてしまった。残念でならない。

説明過剰

 歌人のエッセイを読んでいてなるほどと思ったことがある。現在の文芸は大概が説明過剰であり、それゆえに詩歌の入り込める世界が小さくなっているとのことである。文学的な表現として説明し過ぎないという基本的な約束がある。文学で求められるのは分かりやすさではなく、表現の中にどれほどの情趣を盛り込めるのかということである。目指しているものが違うのに、最近の文学はとにかく分かりやすいというのだ。うべなるかな。

 分かりやすさを求めるのはビジネスの場面では当たり前である。多義性を極力排し、一読すればすべてが分かるというのが理想とされる。そこに含蓄は要らない。その発想が文芸にもそのまま援用されているのだろう。きわめて分かりやすいが、その分薄っぺらい出来具合になってしまう。

 この傾向の背景にあるのは、やはり読み手の読解力が低下しているということにあるだろう。分からなければ読まないという姿勢は、読解への挑戦心を削ぎ、いつしか本当に読めなくなってしまう。面倒なことはしない。非効率的だからというビジネス文書の読み方と同じになってしまうのだ。

 書き手の方もそういう読者を慮ってとにかく分かりやすく書く、技巧は最低限にして話の展開も単純にする。複雑な時は文中に注釈を入れてしまう。読者に嫌われるくらいならばその方がいいと考えてしまうのだ。こうした動向は日本語のレベルを下げることに繋がることを認識しなくてはならない。

 私は日本の事情しか分からないので、この先は推論に過ぎないか、恐らくどこの国もおおかれすくなかれ同様の背景があるのだろう。説明がなくても読み取れる教育をすることが求められている。