「正しいけれど間違っている」から

間違っているように見えて

 世間には一見正義に見えながら、実は多大な損害をもたらすことはいくらでもある。そもそも幸福の追求を善として発展してきた近代社会がさまざまな問題を発生している。環境問題はそのもっとも顕在化したものだ。それだけではない。私たちは「正しいけれど間違っている」という事実を見つけ、再考する必要がある。

 ただその逆もあるのではないか。一見間違っているかのように見えて、実は多くの利益をもたらし、人々を幸福に導くというものもあるかもしれない。これまでの考えでは不正解とされてきたものが、実は改善策であったということもあるはずなのだ。こうした現状の打開には、多くの失敗がつきものだが、それを許容する考え方が必要なのだろう。間違いだ、非効率だ、生産性が低いなどと即断せずに、可能性のあるものは追求するという余裕がいる。結果としてやはりだめということも想定しつつも、やってみることに意味があるのではないか。

 教員としてこの件に寄与できるとしたら、生徒の失敗を失敗と決めつけないことだろう。教えるのは現今の多数派の意見に過ぎない。最適解は実は別のところにあり、まだ発見されていないだけなのかもしれないという考え方を持ち続けることが必要であると感じている。

 それをどのように現場で実現するのか。それを考えていきたい。限られた時間内で情報伝達をし、それが確実に行われたのかをテストによって確認するというシステムの中ではなかなか難しい。それを止めることは間違いだろう。知識伝達は最低限の責務だ。その上をいく方法を模索していく必要を感じている。いつの発達段階から可能なのかは考察する必要があるが、現状の知識の伝達と、未来の可能性という局面の違いを生徒にも明確に意識させ、個別の評価方法を考える必要がある。

復習コラム

ノートは思考の跡を残すもの

 授業ノートを書かせる方法をいろいろと考えてきたが、最近思うのは受け取ったことを言語化する過程が重要だということだ。数年前からは「復習コラム」を書くことを指示してきたが、あまり効果に自信がなかったため控えめに行ってきた。最近様々な知見に接してどうも効果はありそうだと考えるに至り、新年度からはもっと積極的に打ち出していこうと考えた。

 授業のノートをとらせると板書したことをただ写すだけで、そこにはつながりがない。短文の羅列であり、単語しかないこともある。それでは理解は深まらない。ノートの意味はほとんどない。

 大切なのはノートを思考の後を残すものとして活用させることだろう。どのように問題点を見つけ、どのように考え、結論を出すに至ったのかを可視化することがその役割なのだ。国語の授業はそれを行うことを中心にするべきだという考えに至った。特に中等教育ではやるべきだ。

 そのためには授業の最後に振り返りの時間を設け、今日の授業の要点を短文でまとめさせるのがいい。いろいろな話題があったが、その中で一番大切なのはなんであったのかをまとめるのだ。国語の場合はそれを2、3行の文でまとめさせたい。さらに余裕があれば、感想を付け足すことを求める。それは、疑問点や批判的な内容であればなおさら良い。自分で考えたことの足跡を残すのだ。書いた部分の周囲を囲み、「復習コラム」と私は名づけることにした。

 これを国語だけではなくすべての教科でできれば、確実に理解度は上がるに違いない。多くのビジネス書のノート術と称するものを読むと、このまとめにあたる部分、つまり講師の話を受け身でとらえた部分以外の、より自発的なものを書く行為が成功の要因であるという。これを中高生時代からやらせれば、将来の有望人材を育成できるのではないだろうか。

読解力

真剣に読む

 これまでも何度か話題にしてきたが、読解力の低下にいかに対処するのかは大きな課題の一つである。かくいう私もこの力が漸減しているのを感じている。社会的要因があると考える。

 私個人の問題としてはもちろん老化といった身体的要因がまずある。残念なことだが短期長期の記憶力の低下は大きな影響がある。それよりも実は深刻なのが真剣にテキストに向き合う機会が減っていることではないだろうか。

 日々の生活の中で読解力の有無が致命的な影響を及ぼす機会は減っている。これを読まなかったために大きな損失を被ったという実感を得る機会が少ない。もちろん本当はかなり死活的問題をもたらしているはずだ。それに気づかない。

 現代社会は説明過剰である。効率的なやり方が予め示される。だから自分で状況判断して最適解を模索するという機会が少ない。なくても十分なのだ。これは便利で一見優しい仕組みだが、読解力の養成には向いていない。

 真剣に文章を読む機会がないのなら、意図的に作るしかあるまい。それが現代国語教育の役割の一つだ。こういうと契約書の読み方を教えるといった実用文を扱えはいいという話になる。しかし、実用文はもともと分かりやすく書かれており、最終目標にすべきものではない。

 様々な話題、筆者の評論文や、文学作品、古典文学などを学ぶのは死活的な状況で読む読解力の養成に相応しい。内容から学ぶ叡智はさることながら、難解な文に向き合い読み通すことが大切なのだ。

深夜の地震

 

地震は突然

 昨日の深夜、福島県沖を震源とするマグニチュード7.3の地震があった。福島や宮城などで震度6強を観測した。私の住む地域は震度4という発表だが、2回に分けて長く揺れたため、恐怖を感じるものであった。

 現時点では揺れの大きかった地域で怪我人の報告があり、鉄道の脱線なども起きているらしい。全容は朝にならないと分からない。11年前の大地震と同じ震源域であり、専門家は余震の一つと推測している。いまだに余震があることは驚きだ。

 原発の冷却装置にアラームが発動したとの報道もある。大事に至らないことを祈る。続報を待って判断する必要がある。↓。

似顔絵

顔の印象はどこで決まるのか

 まったく下手なのだが絵を描くことには興味がある。人の顔を描いていて思うのが僅かな違いで印象が激変するということだ。

 顔を描いているとき、ほんの少しの線の有無で雰囲気がかなり変わってしまうことに気づく。だから絵を描くときこれがどのような効果をもたらすのかを常に考えている。

 絵ではなく実際の顔認識ではどうなのだろう。誰かを誰かに似ているという話を聞くとき、納得するときと疑問を感じるときとがある。顔の印象を決定づける要素が人によって異なるのではないか。先の絵の話で言えばどの線を描いてその人らしさを捉えるのかが人によって違う可能性がある。

 写真から似顔絵風のイメージを生成するアプリがある。やってみると同意できないことが多い。我々の視覚はかなり主観的なもののようだ。

表現力

やってみたい授業

 時間があればやりたい授業というものがある。大抵の場合、決められた学力(数値で測定可能な)の向上には向かないという理由でできない。

 考えたことを発表するという授業はぜひやりたいことだ。一人でやるのとグループ発表の両方がいい。また、発表を評価することもいいと思う。

 とりあえずブックトークを考えている。好きな本を自由に選ばせたり、テーマを決めて読ませたりするのもいい。まずは互選させて代表を決める。代表はチームリーダーとなってグループ発表する。

 他にもいろいろなアイデアがある。それを試す時間があるといい。表現力プラスアルファを狙いたいのだ。

教員の礼装

 教員は何度か礼装をする日がある。式と呼ばれる日だ。なんのために? 自分のためでもあるが大切な一日を演出するために形を作ることも大切な仕事なのだ。

 私たちの仕事の大半はこのように特別な時間を演出することにあるとも言える。

夏日間際

梅も見頃に

 今朝はかなり気温が高く、今年になって初めてコートを着ずに出勤した。電車の同乗者も同様だ。予報によると関東南部は夏日近くまで気温が上がるかもしれないとのこと。極端に振れる一日となりそうだ。

絵画の下層

Photo by Peter Mayer on Pexels.com

「窓辺で手紙を読む女」(ヨハネス・フェルメール, ca. 1659)が東京都美術館で展示されている。今まで知られている絵とは異なり、背景に天使の画中画が描かれている。調査の結果、この天使の絵は完成後、作者以外の何者かによって塗りつぶされ今の形になったという。そこで上塗りされた絵の具を取り除き、改変前の姿を復元したというのだ。なお上記のリンクは改変前である。

油絵のように塗り重ねていく絵の場合は、このように塗りつぶされた奥にある下層の絵画を復元することができるようだ。その繊細かつ大胆な作業風景も博物館では動画で展示していた。非常に興味深いものであった。絵画修復の技術は日本絵画においても行われている。以前、この技術を利用して高精度の文化財複製をしたスーパークローンの展示を見たことがある。色褪せる前のもとの姿は常識を覆すものもあったが、新鮮な驚きをもたらしてくれた。そして、この技術を知ることで、原作は今見るものとは違ったのかもしれないという当たり前だが気づきにくいことを再確認させてもらった気がする。

芸術作品でさえ、完成に至るまでのさまざまな過程を経てきているのだ。最初から一直線に今の形につながっているのではない。改変にはさまざまな理由があるように、私たちの生き方にも時代の影響でつねに変化が加えられている。今見えていることだけで物事を判断するのはかなり一面的なものだということになる。その下層に隠れているものはなにかを考えることは常に必要だ。

花粉飛散

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最高気温が20度を超えるらしい。花粉飛散が本格的になりそうだ。私は対策薬を飲んでいるが、それでも今日は覚悟しなくてはならないかもしれない。

花粉症の知識がまだ世間に周知されていなかった頃、アレルギー性鼻炎は不治の病としてもう少し深刻に考えられていたような気がする。多くの人が耳鼻科に通い、点鼻薬を吸入した。私もその経験を持つが苦い思い出だ。

不治の病といえるがどうかわからないが、この歳になっても根本的な解決はできていない。ただ、予防の知識や抗アレルギー薬が発達したことで以前のような問題はなくなった。それでも薬を飲むと軽い頭痛に悩まされたり、喉が渇きすぎたりするのは厄介だ。

スギ花粉の量が多いのは林業による植林の偏りが影響しているとされている。昭和期に加工がしやすい杉を大量に植林したことが日本の植生を変えてしまった。それで高度成長期以降に花粉症が問題になったという。林野庁は花粉飛散の少ない品種への切り替えを計画的に行っているというが、更新にはかなりの年月が必要なのだそうだ。

風が吹けば桶屋が儲かるそうだが、こればかりは困る。儲けはほかのことで得るのが良いと思う。