劣勢に立たされた時にいかに生き残るかは大切な問題だ。目的が生存ならばうまく立ちまわる必要がある。そのために必要なのは少し先の展開を読む力だ。
ならばその力はどこから生まれるかといえば、学問と経験によるものだろう。江戸を生き抜いた小藩の歴史にそのヒントを求めることができるかもしれない。
日々の思いを言葉にして
劣勢に立たされた時にいかに生き残るかは大切な問題だ。目的が生存ならばうまく立ちまわる必要がある。そのために必要なのは少し先の展開を読む力だ。
ならばその力はどこから生まれるかといえば、学問と経験によるものだろう。江戸を生き抜いた小藩の歴史にそのヒントを求めることができるかもしれない。
戦中の証言として当時を記憶する方から話を聞く機会を得た。その中で戦争末期の日本の捕虜に対する扱いが劣悪であったと語っておられたのが印象的であった。
戦争の記憶が薄らぐとともに一部が美化されていく傾向があるのは感じていた。多い傾向として一部の好戦的な人たちが突出して多くの善良な人を無理やり戦争に駆り立てたというものだ。これが正しくないのは戦争を遂行しているのは誰なのかという問題と関わる。
確かに戦争を遂行していたのは限定された人物だっただろう。しかし、それを行っていたのは普通の国民であったことを忘れてはならない。戦争という特殊な状況が人間を狂気に駆り立ててしまうことを再認識すべきなのだ。戦時中の出来事を意識的もしくは無意識的に美化していく流れを注意深く見つめ、あらゆる正当化の糸口を監視しなくてはならない。
飛行機が飛ぶときに大量の燃料を消費するのを考えると、持続可能性という観点では大いに問題があることになる。ガソリンの代わりに電気や燃料電池などで飛ぶ飛行機を作ればいいと思うが、技術的に問題がある。
水素エンジンは一種の夢だ。実際には水素だけで飛ぼうとすると燃料タンクが大きくなってしまい長距離の飛行には向かない。様々なインフラを整備しなくてはならないことを考えると現実的ではない。ただ、化石燃料を使わない飛行機ができることへの期待は止められない。いつか爆音をあげない飛行機が飛ぶことを夢見てしまうのだ。
短期決戦といわれている衆院選はいかに印象に残るメッセージを出せるかが鍵となっているらしく、本日の街頭演説にもキーワードが述べられていた。名前を連呼するだけでは投票にはつながらない。そういう意味では健全な選挙に少しだけ近づいたかもしれない。
自民党政権が批判を浴びる中で、対案を出し切れていない野党のあり方にも歯がゆさを感じる。私は特定の政党を支持する者ではないが、批判ばかりで実質のない候補者には投票しないつもりだ。今日は少々気になることを聞いた。その候補曰く、昨今の政策は地方とのバランスを考えるあまり都市生活者の利益が侵害されているというのだ。選挙区が人口密集部であることを意識し、地元の利益を優先する見解であった。
これはこれで間違ってはいないが、国会議員のあり方として問題を感じる。選挙区の利益を確保する必要があるのは分かるが、都市対地方の構造を打ち上げて、まるで地方が都市生活者のパラサイトであるかのようにいうのはおかしいのではないだろうか。都市生活者の権利を守るという名目のもとで地方住民を軽視することの弊害を考えないのだろうか。少なくとも国会は国の代表であり、地方の代表ではないことを考えていただきたい。
興味深い記事を読んだ。他者を救済する人の割合をランキングすると日本は他国を引き離して最下位となるのだそうだ。調査項目には寄付をしたり、ボランティア活動歴、知らない人を助けた経験、支援団体の数などがあるが、そのどれもが世界の水準からかけなれて低いらしい。
日本に住む私の実感として、この調査の結果は大いに疑問がある。確かに東京に住んでいると他人に対する配慮が少ない人を多く見かける。中には相当わがままな人もいる。しかし、世界最下位になるほどの状況には見えない。秩序正しいので、満員電車の中でもめったにトラブルは起きないし、ゴミを捨てて迷惑な人も少ない。であるにもかかわらずなぜこのような結果なのだろうか。
思うに伝統的な日本の価値観にウチとヨソの枠組みがあることがその原因のひとつだろう。自分と同じ集団に所属していると意識する相手に対しては過剰なほど気を使うが、そうでない相手は無視しようとする。その枠組みがたとえば人種とか宗教とかそういうものではなく、きわめて個人的な感情に基づくので他人から分かりにくくなっている。
それを日本人の特徴と考えればそれでいいし、何も他国のそれと合わせる必要もないかもしれない。ただ、社会がグローバル化するなかでこうした小さな集団主義は不利益の面ばかりが目立ち始めている。自分の集団だけで生活が完結できる間はそれでよいが、もうどうしてもそうはいかない。集団の枠を広げていってもそれでも追いつかない。もはやヨソ人と関わらなくては何もできない。
ヨソ人に関心を持つことの延長上にボランティア活動や寄付行為などがあるのかもしれない。世界はつながっていて統一のルールのようなものがあるというのは一神教の世界では大前提にある考え方だろう。日本にはそういう考え方はない。似たようなものとしてお天道様があるが、規範性は薄い。だから、かかわりのないものへの関心が薄いのかもしれない。世界はつながっていて、他者を救済することは世界を救うことになるという考えは、日本人にとってはかなりの学習を必要とする考え方のようである。
経済的な衰退傾向も自分たちさえよければいいという考えを転換すれば好転するかもしれないと考えている。寄付でなくてもいい、他者のために金を使うのだ問う思いが資産家にあれば、世の中はよくなっていく可能性がある。人助けは自分を助けることでもある。情けは人の為ならずとはよく言ったものだ。「冷たい」日本人がこれから何をするべきなのか。実はその行動にこの国の命運がかかっている気がする。
中学生にフォークソングを知っているかと尋ねてみた。するとほとんどの生徒が知らないという。民謡と混同する者、ダンスの方を想起する者など意外な結果になった。
もっとも私の言うフォークはいわゆるニューミュージック世代以降のものであり、政治的色合いがあった先輩たちのそれは実感としてはない。かつてのソングブックには反戦ものや四畳半ものが少なからず掲載されており、練習用に歌ってみたこともある。ただ憂鬱でつまらないものであった。
おそらくいまの若い世代にフォークソングを聞かせても演歌の様に聞こえるかもしれない。分かりやすく類型的なコード進行にセンチメンタルな歌詞、私小説的世界観、単純な伴奏、そのどれもが隔世の感覚で捉えられるかもしれない。
それを嘆くわけではない。時間が経ったということである。
昨今の株式市場の変動はかなり激しい。実際の経済がほとんど変化がなく、コロナ禍からの緩やかな脱却が進んでいるのに比べ、何もないのに大きな事件が起きているかのようだ。
ある人は機関投資家の意図的な操作だという。一種の陰謀論だ。変化をつけることで利益を生み出すのが資本主義の原則だ。だから、僅かな要因を拡大解釈して株価の操作に使うという。真偽は分からない。
日本経済が操作によって左右されやすくなっていることは間違いない。選挙が近いが荒波を乗り切る覚悟を問いたい。
昨夜の満月はとても印象的だった。肌寒い中で冴えわたっていた。後の月も過ぎて文字通りの秋だ。
気持ちの混乱を鎮めるには大きな光景を見るのがいい。心を落ち着かせれば見えてくることもある。何がいま大切なのかを月に反射させて大きく見直すのだ。
行き詰まりはない進むだけだ。
移ろいやすいのは秋の空である。昨日は冷たい雨に震えたが今朝は実に穏やかな晴天である。空気が乾いているせいか爽やかだ。路面が濡れているのは雨のせいではなく、気温差の激しい夜から昼への切り替わりにできた露なのだろう。
ついこの間までは汗にまみれていた身体が肌寒さに驚く瞬間が度々ある。桜並木も少しずつ黄葉が始まり、すでにすすきの群舞は始まっている。
まもなく目的の駅に着くが、このまま朝の光を浴びていたい気もする。
急に季節が進んだ。ここ数日半袖では出歩けなくなっている。昨日の朝は10℃を割った。
今朝は秋雨そぼ降る中の出勤である。電車の乗客の着ている服の色が一気に濃くなった。すでに厚めの防寒着を着込む人もいるがさすがに尚早か。
昨日は十三夜だった。もう気づけば年賀状やおせち料理の予約が始まっている。秋来たりなば。