ひらめき

ひらめきは飛んでいく

 突然何かをひらめくことがある。画期的な考えだとその時は思うが次の瞬間には忘れている。こういうことは誰にでもあるのではないか。それを言葉にし、さらに形にできる人は極めて少ない。

 いいとひらめいたことをすぐに書き留められるものがあればいい。私の場合、このブログがある程度その役割を果たしている。ただ、文に整形する間にどんどん大事なことが抜け落ちている。そもそも言葉にならないものを言葉にする時点で取捨選択がなされ、バリのような部分が削ぎ落とされてしまう。

 ひらめきを形にしたものはときとして難解で稚拙に見える。しかし、それを恐れてはいけない。思いつきは考える以上に生なましい。それを益なるものにするのには多くのどうでもいいものを生み出さなくてはなるまい。

感受性

 残念ながらかつてのような感性は失われている気がする。これはある程度は仕方がない。しかし、歳長けてもできる方法もあるのではないか。

 箸が転んでもおかしいという譬えがある。箸でなくても鉛筆でもなんでもいい。日常とは異なる風景が意図せず起きたことに対して喜怒哀楽を感じることは誰にでもあるが、若い頃は概してそのハードルが低い。素直に状況に対応できるからだろう。

いつもと違う1日にする

 ある程度歳を重ねると、経験を類型化して把握するようになる。今起きていることを過去の出来事の変型として捉えそれ以上の反応はしない。だから感情的な反応は起こりにくい。前に見たことしたことと考えてしまう。これは生きるための知恵のようなものだ。いちいち心を震わせていたら消耗してしまう。

 感性の繊細さはこの生きる知恵とトレード・オフの関係にあるのかもしれない。子どものような感性には憧れるがまったく同じになったとしたら気が変になりそうな気がする。世間はあまりにも複雑であり、いちいち相手はしていられない。鈍くなるのは大人として世の中に折り合いをつけているということなのだ。

 それでも、ときには何かに囚われず世界を見てみたい。私の場合、少しだけアルコールを飲むとそんな気分を味わえる。しかし、恐らくそれは幻覚だろう。極めて有効期限が短く、大抵の場合は飲みすぎて何もできなくなる。言葉は悪いがこれはある種の薬物を投与するのと同じで害の方が多そうだ。

 ではどうすればいいのだろうか。一つには瞑想がある。ただ、良い方法を知らない。大がかりの物がいるものならば続かないし、やる気にならない。深呼吸や座禅もどきのようなものは時々やる。それなりの効果はあるがこれも長続きしない。大掛かりでも簡単すぎてもだめなようだ。

 それよりは、意図的にルーティンを壊すことの方がいいのかもしれない。いつもと別の見方をするように行動を変えるのだ。やり方を変えたり、行き方を変える。非効率になることは間違いないが目的は生産性ではない。新しい発見ができればそれでよしだ。

 習慣を変えるのは実はとても難しい。私たちの行動や思考の多くは反復される日常の中で形成されている。それを逸脱することは言動の基準を失うことである。でもこれを行うことは大切なのだ。

 感受性を取り戻し、磨くことは新鮮な体験に裏打ちされる。この体験の方を自ら演出していくことが感性の涵養に繋がる。

桜

国立劇場近く

桜はかなり急なピッチで開花している。花見が禁じられて3度目の春だ。乱痴気騒ぎは軽蔑すべきだが、ないと寂しい。少しずつ元の生活を取り戻したい。そう願うばかりだ。

3G終了

携帯電話も世代交代

 KDDIの携帯電話ブランドauは今月いっぱいで3G回線を廃止することを発表している。私は数年前に4Gの折り畳み式電話に変え、一昨年末からスマートフォンにしている。かなり後追いの部類に入る。スマホの便利さは十分に享受しているので、今更逆戻りはできないがガラケーと呼ばれる3G携帯電話がなくなることは残念な気がする。

 初めて携帯電話を持ったのはいつだっただろうか。確かパソコンを買い替えた時のおまけとしてついてきたのだと記憶している。液晶画面が小さく、メールが送れるといっても非常に限られた機能であった。最初に受信した迷惑メールは「メルトモナロ」で何のことか分からなかった。携帯電話の会社の名前自体も変わり、スマートフォンの登場で世の中は急変した。いまや電車の中でスマホを持っていない人はわずかであり、すっかり魂を操られている。

 いまは5Gの普及期であり、すでに次の世代の構想も明らかになりつつある。単なる一対一のコミュニケーションツールではなくなっただけではなく、人間の思考や行動全体を操作することも可能になっている便利で魅力的で恐ろしく破壊的な道具をどのように扱うのか。これからも注意していかなくてはならない。

多次元な価値観

 ややもすると一元的になりやすい価値観がある。資本主義社会にいるとそれが財力という形で表れる。しかし、どうもそれがおかしいということも分かっている。金持ちは幸せを感じやすいが幸福の絶対条件ではなさそうだ。

 ならば金など構わずに好きなことだけを追求するのがよいかといえば、これは違うと言う人は多いだろう。特に独善的な楽しみに耽っている人には危険性すら感じる。利他的行動をする人は尊敬する。だが、それだけでは立ち行かない。継続的な行動のためにはそれなりの下支えが必要だ。

 何がいるのかといえば、多元的な価値観を持つ生活を送ることだろう。一つの物差しに縛られると序列が明確についてしまう。この方面ではふるわなくても別の面では優れているということを各自が実感し、他者が評価することができる生き方を共有することが必要だ。

 趣味とか特技とかいった範疇に押し込められたものを重視できる環境をつくる必要がある。ビジネスではないのでどのように形成するのか維持するのか考えなくてはなるまい。

 

考える過程を示す

手順が大事

 国語、とりわけ現代文の授業では考える過程を学ぶことが最重要の目的だ。これを示すのは案外難しい。言葉の運用の能力は人それぞれであり、示し方に工夫が必要だ。

 文章を型で教えるという方法がある。これはいつもやっている方法だ。段落には言いたいことをいう文と、それを支える文とがある。トピックセンテンスの考え方を教える。大半の生徒はこれで納得するか分かったふりをする。しかし、そもそも何が意見であり、何が例証であるのか区別がつかないものにとってはこの説明は効果がない。

 段落と段落の関係についても同様だ。それぞれの段落の役割を把握するのは実は高次元の概念ではないか。掴むことのできたものには当たり前でもそこに至るまでには時間がかかることがある。

 考え方を多様な方法で示すことが教員の付けるべき技能なのかもしれない。答えを教えるのではなく答え方を教えるのが国語の特徴である。

開花

咲き始めたらあっという間

 昨日は雨にみぞれが混じった。凍える寒さだったといえる。だが、今朝近隣のソメイヨシノが開花していることに気づいた。すでに二分咲きといったところか。まったく感覚的なものだから正確には分からない。

 開き出すとすぐ満開まで一直線になるのがこの花の特徴だ。今年も今月中に満開を迎えてしまうのだろう。せめて入学式の日まではもってほしいと願うばかりだ。

 今年も紀友則の思いを共有することになる。

逆戻り

3歩進んで2歩さがる

 暑さ寒さも彼岸までというが、中日も過ぎたのに今日は寒さが戻ってきた。最高気温が10℃に達するか否かということらしい。最近、温かい日が続いていただけに体感気温はもっと低い。

 東京電力によると今日の電力供給には不安があるという。先の東北地方の地震で停止している発電所があるのが要因だという。電気がなくては成り立たないデジタル時代のまさにアキレス腱だ。

 原子力発電に傾注できない国情ゆえに、自然エネルギーの技術開発が急務だ。さらに省電力装置の普及もやるべきだろう。我が家でできることは待機電力のカットくらいしかない。微かというよりほとんど無に等しいが使わない家電のコンセントを外すことから始めよう。

 

春分

Photo by Edouard Chassaigne on Pexels.com

 春分の日である。日本にとっての春分点通過が3月21日0時33分だったので、21日になったということだ。昼夜の時間がほぼ等しくなり、これからは昼の方が長くなっていく。この天体現象に古人はさまざまな思いを託してきたようだ。

 彼岸の中日としても知られている。彼岸は仏教的には悟りを得た後にたどり着く境地のようなものを指すらしく、いわゆる涅槃のことを指すと考えられる。このあたり諸説あるらしく、様々な説明がなされている。

 日本ではこの彼岸の考えを春分や秋分に太陽が真西に沈むことと重ね合わせる伝統があった。太陽信仰は古事記における天岩戸伝説にもほの見えるし、様々な古代の伝承に太陽神の伝統が見えるという(洪聖牧「太陽神論」)。さらにはこの時期には祖先との精神的連携が可能になるなるとして墓参りの習慣などがある。彼岸が祖先とのつながりを持つ過程にも様々な考察がある。(「中村牧子「祖先崇拝と天皇信仰」)。

 太陽が真西に沈むとことが西方浄土の信仰とつながったことが彼岸信仰の始めといわれる。もしかしたら仏教伝来以前から素朴に持ち続けてきた日の出、日の入りの場所が年間を通して周期的に移動する不思議さがその下地にあったのではないか。

 さて私たちは太陽や月、星をどれほど見ているのだろうか。天文学や気象関係者が周期的にメディアに発信する記号、数字としてしか知覚していないのではないだろうか。春分の意味を考えることは、人と自然とのつながりの希薄化を見直すことにつながる気がする。

素読、速読

耳と手を動かす

 古典文学の入門者への教え方を模索している。結果として伝統的な方法がよいのではないかということに至った。

 まずは古典文学を身近に感じることができることが肝要である。文語調の文章や漢文訓読に接する機会が激減している中で、まずは多くの文章に触れる必要がある。

 角川文庫のビギナーズ・クラシックスなどを読ませるのが手っ取り早い。だが、読書自体があまり行われていない中で、読んでおけは読まないというのと同じだ。そこで、15分程度で読みと解説を完結する年間を通してのの取り組みが必要だろう。文法事項はこの時間帯には最小限に止める。やることはひたすら音読もしくは筆写である。意味は後回し。耳と手で覚える。

 とにかく古典に親しむという戦略だ。この時代にいまさら古典などということなかれ。日本文化や中韓の文化を知っていることがこの先いかに役立つかはすぐに答えがでるはずだ。